1904(明治37)年
5月15日
ロシアの画家ヴェレシチャーギン(2)
以後、彼は平和主義者として、戦争の悲惨さを現地でのスケッチを基にした写実的な絵画で表現してゆく。戦争を描いた彼の絵には死者、負傷者、略奪、野戦病院、雪に埋まった兵士の遺体などがよく登場し、普段絵画や美術に関心のない人々をも惹き付けた。
また彼の民主主義的思想は、移動派に近いものだった。それまでの英雄礼賛だった戦争絵画に、哲学的な意味を持たせるようになった。
連作が多く、トルキスタン遠征(1871年‐1874年)、露土戦争(1877‐1878年、1880年以後)、ナポレオン・ボナパルトの侵攻を迎え撃った祖国戦争をテーマに描いたものがある。特に後者からはボロジノの戦いを描いた代表作『ボロジノのナポレオン』が生まれている。
彼の絵は戦争をテーマとしている故にプロパガンダに利用されることもあった。代表作『戦争の結末』は頭蓋骨の山を描いたものであるが、1980年に出版されたアルメニア人虐殺について書かれた本の表紙に「1916年、西アルメニアにおけるトルコによる残虐行為」というキャプションをつけて掲載され、後にヴェレシチャーギンの作品であることが判明している。
1878年、「シプカの戦場」「敗北。パニヒダ」制作
1878~79年、「戦争捕虜の道」「敗戦のレクイエム」制作
1881~82年、オーストリア・ハンガリー帝国首都ウィーンや、ドイツ首都ベルリンなどに長期旅行。湯治で滞在中のドイツ西部のバート・エムスでは、聖アレクサンドラ教会の祭壇にキリストの復活を描いた。
1882~83年、2度目のインド旅行
1883~1884年、シリアやパレスチナにも足を延ばす。
パレスチナの聖地を訪れた彼は、キリストの生涯を描いた一連の作品で、それまでの西欧におけるヨーロッパ化されたキリスト像ではなく、現地で実際に見聞した風俗や風景を描きこんだ自然主義的な手法を用い、キリストを中東の人間として描いて物議を醸した(但し正教会のイコンは西欧の絵画とは違い、元々、中東の人間としてキリストを描いている)。
1887~88年、ロシアの古い諸都市への旅。
1888年、アメリカ合衆国での最初の個展。
1891年、モスクワへ戻る。
1894年、北ロシア周遊旅行。
1897年、「ボロディノの丘のナポレオン」制作(ナポレオン・シリーズ)
1899~1900年、「ボロディノの戦いの終わり」制作(ナポレオン・シリーズ)
1901~02年、フィリピン, アメリカ合衆国, キューバへ旅行。
1903年、日本への旅。2ヵ月ほどの滞在の間に、東京、京都、日光などを訪ね、101点近い絵画を制作。
4月13日、「ペトロパヴロフスク」は日本軍の敷設した機雷に接触。触雷からわずか数分で火薬庫が爆発したため、マカロフやヴェレシチャーギンはじめ乗組員のほとんどが戦死した。ヴェレシチャーギン最後の作品となったマカロフの幕僚会議の様子を描いたスケッチが、波間に漂っているところを無事拾われたという。
『平民新聞』第27(5月15日)号
「露国高名の画家にして常に戦争の惨禍を描き人類平和の理想を実現せしむるに尽力せしヴェレスチャギン氏が、旅順に於てマカロフ氏と倶に溺死せしは吾人の哀悼に堪える所」「満州を視察して一たび欧州に帰り大に戦争の非を論じ、戦争起るに及んで再び旅順に来り遂に戦争の犠牲となれるなれき」
中里介山「嗚呼ヴェレスチャギン」
「広瀬中佐の戦死、マカロフ提督の溺死、各々其国の主戦論者をして賛美せしめよ、吾人平和主義者は茲に満腔の悲痛を以て平和画家ヴェレスチャギンの死を弔せずんばあらず」「戦争の悲惨、愚劣を教えんとして、而して戦争の犠牲となる。芸術家としての彼は其天職に殉じたる絶高の人格なり」とその死を惜しんだ。
『平民新聞』第32(6月19日)号
「露国非戦主義画家、故ベレシチャーギン氏」の肖像画を載せている。描いたのは、アララギ派の短歌運動に参加して斎藤茂吉の歌集「赤光」にさし絵を寄せた日本画家の平福百穂。
秋水
「実にトルストイが文章を以てせし説教を、丹青の技を以てなしたりき、彼はトルストイと共に露国の人なるも或意味に於て世界の人なりき、露国暴なりと雖も猶ほ如此き人を生して其軍艦中に伴へりき、吾人は此点に於て露国の大を認めざる能わず」と、ベレシチャーギンの人道主義と、その軍内での活動を許容したロシアという国の度量の大きさをたたえている。
1906年、日露戦争直後、徳富蘆花はパレスチナからロシアへ旅をして、帰国後『順礼紀行』を書く。ロシアでの主目的はトルストイを訪問することだった。
蘆花は、ヴェレシチャーギンについては、サンクト・ペテルブルクで主に『ナポレオン・シリーズ』を、モスクワで『トルキスタン・シリーズ』を見たとある。蘆花が最も深い印象を受けたのは、『ナポレオン・シリーズ』のなかの『モスクワを前に ~ロシア貴族代表団を待ちつつ~』であった。
対ロシア戦の緒戦に勝利したフランス軍は、いよいよモスクワを占領する。モスクワの西南にある丘(「雀が丘」と呼ばれる)の上に立ち、ナポレオンは町を眺める。モスクワ川と、その先に広がるロシアの古都の輝き。クレムリンの黄金の塔……。
ナポレオンは、征服者に慈悲を乞い願うロシア貴族の代表団を待つ。だが、使者は来ない。ロシア側はモスクワを捨て退却、町はもぬけの殻だった。交渉すべきロシア貴族すらもいなかった。
「唯ただ余が記憶に残れるは、奈翁ナポレオンが雀が丘に立って莫斯科モスクワを下し見る絵なり。兵士は小さく帽をささげて歓呼するに、奈翁ナポレオンは大きく手を背うしろにして黙然と丘に立ち、莫斯科モスクワ夢の如く下に隠見いんけんす。蓬々はらはらたるもの奈翁ナポレオンの腰を掠かすむ。砲煙か、焚火たきびの煙か、雨煙か分明ならず。余は此の一幅に「勝かちの哀かなしみ」を示されぬ」――。
蘆花はロシアで実見した絵画のうち、例えばレーピンほどにはヴェレシチャーギンを評価していない。代表作の『戦争の結末』についても、「一将功成いっしょうこうなりて万骨ばんこつ枯るる髑髏しゃれこうべの山は、浅露せんろに過ぎ……(中略)あまりセンセーショナルなるの難あるべし」と、なかなかに手厳しい。ショッキングなメッセージ性について、蘆花は表現として直接的に過ぎ、芸術としての深みが不足するように感じたものらしい。
その蘆花をして感心せしめたのが、『ナポレオン・シリーズ』の『モスクワを前に ~ロシア貴族代表団を待ちつつ~』だった。
絵を鑑賞したのみならず、実際に雀が丘を訪ねてもいる。蘆花はかつてその場所に立ったナポレオンを思い、そしてその姿を描いたヴェレシチャーギンの絵に思いを馳せる。
「莫斯科モスクワは夢の如く隠見す。奈翁ナポレオンが此処ここに立ちしより百年過ぎぬ。雄図一決ゆうといっけつ何の残る所ぞ。此世このよの国を追う者は皆如斯かくのごとし、唯ただ空くうを攫つかむ。ヱレシチャギン(註 オリジナル本では「ヱ」に濁点を付す)を思い出でて、悵然ちょうぜんと佇たたずむ折から、ほとり近き茶亭にマンダリンの女が弾くツィガン(ジプシー)の曲物哀しく、腸はらわたを断たむとす」――。
つづく








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