1904(明治37)年
3月11日
上海で『東方雑誌』創刊。
3月11日
日本赤十字(代表松方公爵)、露戦艦「ワリヤーク」重傷者を松山救護所へ収容。
3月11日
同志社高等学部文科学校と波理須理化学校、合併して同志社専門学校として設立認可。4月1日開校。
3月12日
労働運動家の高野房太郎(35)、没。
「山東省青島の独逸病院に於て肝臓膿腫の為めに斃る。時に年三十七。同地に於て葬儀を営み、遺骨は之を東京に送り、本郷駒。込吉祥寺に葬る」(大日本人名辞書)
3月13日
『平民新聞』第18号発行
幸徳秋水「与露国社会党書(露国社会党に与うる書)」。全世界の社会主義者が共通の敵である軍国主義と戦うことを提言。
「鳴呼露国に於ける我等の同志よ、兄弟姉妹よ、我等諸君と天涯地角、未だ手を一堂の上に取て快談するの機を得ざりしと雖も、而も我等の諸君を知り諸君を想ふことや久し。」
「諸君の先輩たる義人烈士はために一代の名誉をすて、千金の栄華を抛ち、流離轗軻(かんか)の惨を極め、或はベーターポールの牢獄に洩泄(ろうせつ)の辱めを被むり、或はシベリアの鉱山に無間の苦をうけ、或は絞首台の鬼となり、或は路傍の土となる者、幾千幾万なるを知らず。……我等平生、諸君の苦心惨澹の状を想ふてひそかに同情にたへざると同時に、更に諸君の操守の堅忍不抜なるを見るに及んで感奮おかず、謂へらく、我等この頼もしき兄弟姉妹を有す、我等の大主義のために社会生民のために何等の幸福ぞやと。」
「諸君よ、今や日露両国の政府は各其帝国的欲望を達せんが為めに、漫(みだり)に兵火の端を開けり、然れども社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく国籍の別なし、諸君と我等とは同志なり兄弟なり姉妹なり、断じて戦ふべきの理あるなし。諸君の敵は日本人にあらず、実に今のいはゆる愛国主義なり、軍国主義なり、我等の敵は露国人にあらず、而してまた実に今のいはゆる愛国主義なり、軍国主義なり。然り愛国主義と軍国主義とは諸君と我等と共通の敵なり、世界万国の社会主義者が共通の敵なり。」
「平和を以て主義とする諸君が其事を成すに急なるが為めに、時に干戈を取て起ち、一挙に政府を顚覆するの策に出でんとする者あらんか、我等は切にその志を諒とす。しかもこれ平和を求めて却つて平和を撹乱するものにあらずや、目的のために手段を選ばざるはマキャベリー一流の専制主義者の快とする所にして、人道を重んずべき者の取るべき所にあらず。」
「嗚呼諸君、諸君が暴虐の政府に苦しめられ、深刻なる偵吏に追はれて、我大主義の為めに刻苦するの時、三千里外、遙かに満腔の同情を以て諸君の健在と成功とを祈れる、数千の同志、兄弟、姉妹あることを記せよ」
次の第19号(3月20日)に逐語的に翻訳されて英文欄に掲載されると、欧米各国の社会党はこれを読んで深い感銘をうけ、この一文は普仏戦争当時における万国労働者同盟の決議にも比すべき文書であると競ってその機関紙に訳載した。また、ニューヨークのドイツ語新聞『フォルクス・ツァイトウング』はその全文を写真版にして紙上にかかげた。
「記者足下に寄す、将に召集せられんとする予備兵の一人」の寄書がのり、社会主義を奉ずる非戦論者の苦衷煩悶を訴える。
「予は記者足下が……社会主義を信ずる兵士同人が国法の下に桎梏せられて、一死報国の危険を強制せらるる戦場の覚悟、陣営の態度を立案公表せられて、予輩をして砲火相交えるの間にも清新有益の護符を懐中にして、安心立命の標的たらしめよ、切に予輩の赤誠を酌んで金玉の訓誨を吝(おし)むなかれ、而して予輩の征途に向って一道の光明を点ぜしめよ」と訴えた。
これに対しては記者も「至情至文、読み終って胸迫るを覚ゆ、然れども吾人もまた兄君と同じく殆んど言う所を知らず」と自らの無力を認めるだけ。そして「願わくば本誌第十四号『兵士を送る』文を再読し、いささかでも慰籍と希望を得んこと」の述べる。
「紀伊禄亭主」(大石誠之助)の投書「国債応募の虚勢」。
3月13日
大杉栄(19)、午後6時半、平民社(麹町区有楽町三丁目)の第2回社会主義研究会に参加。参加者20余名(秋水、堺利彦、久津見蕨村、山口孤剣ら)、午後10時頃散会。
日本の社会主義運動が日露戦争にたいする非戦運動によって飛躍したように、大杉と宗教の問題もまた戦争によって結着がつけられた。
「戦争に対する宗教家の態度は、殊に僕が信じていた海老名弾正の態度はことごとく僕のこの信仰を裏切った。海老名弾正の国家主義的大和魂的クリスト教が、僕の目にはっきりと映って来た。戦勝祈躊会をやる。軍歌のような讃美歌を歌わせる。忠君愛国のお説教をする。『我れは平和を齎さんがために来たれるに非ず』というようなクリストの言葉を飛んでもないところへ引合に出す。僕はあきれ返ってしまった。そして海老名弾正だの、よくトルストイを翻訳していた加藤直士だのと数回議論したあとで、すっかり教会を見限ってしまった。またうっかりはいりかけた〝右の頬を打たれたら左の頬を出せ″という宗教の本質の無抵抗主義にも疑いを持って、階級闘争の純然たる社会主義にはいることができた。」(同前)
3月13日
児玉中将、戦地大本営具対案検討を総務部長井口少将と第一部長松川大佐に指示。
3月13日
伊藤博文、韓国慰問特派として、東京出発(4月1日帰国)。
3月14日
第2師団、大同江河口、韓国鎮南浦上陸。
3月14日
「帝国軍人援護会」創立
3月14日
(漱石)
「三月十四日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。
三月十五日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。
三月十七日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
3月14日
米、米最高裁、ノーザン・セキュリティーズ社(北部証券会社)に鉄道トラスト解体命ず。
3月14日
元内相末松謙澄、ロンドン着。世論工作。
3月15日
大本営、第2軍の編成決定。司令官は奥保鞏大将。
3月16日
「内閣弾劾問題」(「二六新報」(社長・代議士秋山定輔))、国債発行に関して桂内閣を攻撃。
軍事公債の強制的応募の実態をつき、「政府は浅薄軽浮なる愛国心を挑発し、妄に応募高の多きを誇らんとする愚策を取りたるが故に」民力に打撃を与え公債下落し、今後の外債募集も成功の見込なく将来の軍費の欠乏をもたらすことになろうと予告し、「文明国民の愛国心は自ら常軌あり、妄りに御祭的騒ぎに依て発揮せらるべきに非ず、又軍国と内閣とは其間戴然たる区別あり、決して混同すべきに非ず。国民は正に軍国の前途に鑑み、不信任なる現政府を更迭せしむるの処置に出でざるペからすとて、今や財界の四面より内閣弾劾の問題起らんとするの形勢あり」と報じる。
この月1日の総選挙では、警視総監大浦兼武は「秋山露探説」を流布させるが、秋山は当選。
第20議会では小河源一に策動させ秋山調査委員会を設置させる。
検察は「内閣弾劾問題」を新聞紙条例違反に問い、3月23日、東京地方裁判所は編集人の軽禁錮4ヶ月と新聞発行停止を宣告。犬養毅・尾崎行雄は秋山を弁護。委員会は露探の証拠はないが、ロシアに利益ある行為であると秋山の処断を促し、秋山は議員を辞職。
つづく

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