1904(明治37)年
3月6日
『平民新聞』第17号発行
社説「戦争と新聞紙」。社会の木鐸をもって任じ、公益のためを高く標榜する新聞紙が、軍国主義を謳歌し、これに媚びおもねって、民衆を煽動する無責任をとがめ、満天下の新聞記者に好戦の酔狂よりさめよ、と訴えている。
この月、平民社財政困難となり、社員給料2割減・独身者無給となる。
「平民社籠城の記」。社員の仕事ぶりや社に集まる人たちの様子。
「事務の分担といへば、編集の雑務は枯川が引受け、秋水と西川君とが主なる文章を作る。それから、いささか諸君を驚かすべきは秋水が会計主任として、覚束なき手付に算盤をいじくつてゐる事である。石川君もまた、その不似合なる態度を以て売捌き等の事務に当り、兼ねて編集の雑務を手伝ふ。」
「社友の面々と社会主義協会の人々とは、これは常連として記すまでもないが、ここにしばしば我社の編集局を賑はす一対の好来客がある。それは石川半山君と山路愛山君とである。二君が熱心なる主戦論者にして『従軍的紳士』なることは、読者諸君の熟知せらるる所であろう。然るに二君はその説の故を以て友情を捨てず、時に歩を枉(ま)げてわれわれを見舞はれる。そして二君の多才能弁なる、忽ちにしてわが編集局に花を咲かせてくれる。われわれはこの遠慮なき友に対してしばしば忌憚なき攻撃を加えるが、二君の融通円満なる海大の度量は敢て怒らず敢て迫らず、ワッハハハハと互いの論議を笑ひくずすが常である。……その外、東京および地方の同志者同業者、乃至は篤志なる読者諸君、或はまた道場破りとも目すべき志士論客、お客の種類はいろいろであるが大概一日に三人五人ない時はない。そこで折角の編集時間を談笑に費やして、よんどころなく夜の十二時、一時までセッセと働かねばならぬこともしばしばあるが、枯川の如きはとかく仕事をおくらせて、二日も三日も泊りこんでゐる時がある。」
「著者(*荒畑)が平民社に出入するようになったのは三十七年になってからで、いわゆる「従軍的紳士」の一人、ヨークシャー豚のように肥った体をして、どういう了見か鼻毛を長くのばした愛山先生の姿もそこでよく見かけた。黒の綿服に黒繻子の袴をはき長髪の髻(もとど)りを結んだ田中正造翁の姿も幾度か見かけ、翁に対する諸先輩の慇懃な態度に深く心を打たれたりもした。
毎土曜日の午後には、刷り上って来た新聞の発送を手伝うために多くの同志が集まった。階下の九畳の室には社会主義協会の古参会員にまじって自柳秀湖、後に民政党の代議士になった山田滴海(金市郎)、安成貞雄等の早稲田大学生。明治学院の学生で後に映画女優及川道子の父となった及川鼎寿や、吉田碧寥。外国語学校の学生だった大杉栄、詩人肌で雄弁家の山口孤剣(義三)、小田頼造などの青年が新聞を折りたたみながら談論風発気焔万丈で、まだ一少年の著者などは畏まって拝聴するに過ぎなかった。その頃の大杉は無口なおとなしい青年で、いつも金ボタンの制服を着て、頭髪を油で固めて「大ハイ」の綽名で呼ばれていた。蓋し、大ハイとは「大杉ハイカラ」の意である。
やや特異な存在は小田頼造で、「平民社龍城の記」によると、「彼は熱心なる社会主義の読書生で、またその一身を捧げて社会主義伝道のために尽さんとする好青年であるが、我社は既にこれに分つべきパンを有せぬので彼はやむなく自費をもって本社に起臥している。」この小田こそ後日、「伝道行商」という新しい形式の宣伝運動を創始した人物なのである。」(荒畑「平民社時代」)
3月7日
村井弦斎「戦死者の家族」(「報知新聞」3月7日)。戦没者遺族の生活補償、精神面でのフォローの必要性を論じる。
3月7日
皇太子嘉仁親王と山県元帥を大本営付とする、児玉中将の天皇親政による戦地大本営構想。
3月7日
武見太郎、誕生。
3月7日
(漱石)
「三月七日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。 Maurice Maeterlinck (モーリス・メターラン(メーテルリンク))の ""Monna Vanna"" (史劇『モシナ・ヴアンナ』1902)を批評する。」
「森鴎外も、明治三十六年四月に「竹柏会大会」で、この作品について解説と批評を行う。」(荒正人、前掲書)
3月8日
旅順口にロシア新太平洋艦隊司令長官S・マカロフ中将着任。
3月8日
韓国政府、日韓議定書を官報告示。反対の声高まる。中枢院(内閣諮問機関)副議長李裕寅は上疎して李址鎔を弾劾。
3月8日
(漱石)
「三月八日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。
三月十日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
3月8日
西村栄一、誕生。
3月9日
朝、マカロフ中将、日本艦隊の北進を知り老虎尾半島中部東岸に汽船2隻を沈置させる。
午後5時5分頃、旅順口威圧作戦に出撃の連合艦隊は円島南西に到達、第1・3駆逐隊が旅順口を目指す。
午後9時頃、ロシア駆逐艦「レシテリヌイ」「ストレグーシチ」は帽島南で日本駆逐艦隊を発見、やりすごす。
午後10時25分頃、第1駆逐隊は老鉄山沖に、第3駆逐隊は11時20分旅順港外に到達。
午前3時30分~55分、ロシア駆逐艦掩護に向うロシア第1駆逐隊とロシア第1駆逐隊が遭遇、交戦、ロシア艦2隻が被弾して退却。
午前6時、第1駆逐隊に合流しようと南下した第3駆逐隊はロシア駆逐艦「レシテリヌイ」「ストレグーシチ」を発見、交戦。
6時40分「ストレグーシチ」が被弾。「レシテリヌイ」は旅順港へ退却。「ストレグーシチ」は日本艦4隻に包囲・攻撃、9時すぎ沈没(乗組員55人中生存者4人)。
3月10日
京義鉄道敷設に関する日韓約款調印。
3月10日
平民社西川光二郎・野上啓之助、伊豆地方(熱海、網代、初島、下田、沼津、三島など)へ社会主義伝道行商出発。30日帰社。「社会主義入門」「百年後の新社会」各50部など販売。
「社会主義入門」:「平民文庫」の第1巻、定価10銭。6篇あり「共同生産」(西川光二郎)、「階級闘争」(堺利彦)、「社会党の運動」(幸徳秋水)、「社会主義のイロハ」(石川三四郎)、「社会主義と中等社会」(堺利彦)、「社会主義論」(安部磯雄)。「平民文庫」は8巻刊行、1万5千余販売。
3月10日
大阪の文楽座人形浄瑠璃に初めて新劇を試み、日露戦争劇を脚色上演
3月10日
この日、戦時公債1億円応募締切り日。この日だけで1億2586万9625円の申し込み。総額4億5222万5775円。
3月10日
シカゴ、アメリカ社会党大会。片山潜、招かれる。大統領候補ユージン・デブス・副大統領候補ベン・ハンフォードを指名。
3月11日
韓国に日本軍1万3千、韓国主要地域進駐。
4月3日、日本軍(韓国駐箚隊)を「韓国駐箚軍」(司令官原口兼済少将)と呼称。
9月、近衛師団長・長谷川好道大将が司令官となる。
3月10日付の陸軍省「韓国駐剳軍司令部及隷属部隊編成要領」では、韓国駐剳軍の任務を次のように定めている。
「第一 作戦軍の背後に於ける韓国内の我陸軍々務を統理し兼て我公使館、領事館及居留民を保護する為め韓国駐剳軍司令部を設置す」(原文カナ)
こうして朝鮮半島内の日本軍は、日露戦争後も日韓併合後も「朝鮮駐剳軍」(1910~18年)、「朝鮮軍」(1918~45年)と改編されながら朝鮮半島に留まり続ける。
つづく

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