2025年5月22日木曜日

大杉栄とその時代年表(502) 1904(明治37)年4月21日~30日 「邦人の他に対して誇称するに足たものと云へば、唯だ明媚の山水と、忠君愛国の為めには何物をも犠牲として顧みざるの赤心か、之を外にし特許発明の世界人心を動かすべきものは殆んど絶無と謂ふべし」(『萬朝報』4月27日)

 

ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー

大杉栄とその時代年表(501) 1904(明治37)年4月13日~21日 斎藤緑雨没 直前、見舞いに来た馬場孤蝶に対し、いずれ機会を見て君の手で何とか出してやってくれと、預かってた一葉日記を孤蝶に託す。 より続く

1904(明治37)年

4月21日

堺利彦、下獄。6月20日、出獄。

『平民新聞』第24号には4月21日付で書かれた堺利彦の「告別の辞」が掲載された。


花見には少し後れたれど、小生は本日より二箇月の間、面白き『理想郷』に入りて休養致します。

平民社の城内には勇健なる諸同人あり、城外には之に応援を与へらるゝ諸君あり、小き一卒が暫く其身を隠したりとて、固(もと)より何程の事もありますまい。只此(ただこの)一小卒が、暫く諸君と別れ、新聞と別れ、日露戦争と別れ、世と別れ、人と別れて独り読書と思考とに耽るの間に、何ぞ小なおみやげでも得られぬかどうかと、自身に取りては、聊か楽みな様な、気遣ひな様な心地も致します。

いざさらば! 諸君願はくぼ健在なれ、小生も必ず無事で帰って来ます。

堺の不在は、平民社にとって大きな痛手となった。秋水は『平民新聞』第30号に「我等は殆ど暗夜に燭を失つたと同様で、何処から手をつけて善いか分からなかった」と書いている。秋水、西川、石川の三人を中心に、『毎日新聞』記者の木下尚江も平民社に朝夕通って記事を書いた。社会主義協会のメンバーや早稲田社会学会の学生たちも、発送の手伝いや演説会のビラ作りをした。

このころになると、当局の弾圧は以前とは比較にならないほど厳しくなり、どこで演説会をやっても、最初の弁士2人はすぐに話を止められ、3人目になると演説の中止と解散命令が出た。

そればかりでなく、私服の刑事が社会主義者の家を訪問し、監視し、尾行するようになる。当時の『平民新聞』の発行部数が3、4千部、警察がリストアップしていた社会主義者は全国でおよそ3千人だったが、その人々への締めつけは次第に容赦ないものになっていく。

4月21日

鴎外がこの日付けで出征の宇品港にて詠んだ詩。


「大君の

任(まけ)のまにまに

くすりばこ

もたぬ薬師(くすし)となりてわれ行く」


彼は、日清戦争の時と同様、日露戦争に対しても、戦争讃歌以外の懐疑を示したものを残していない。この詩は大伴家持を連想させる。

4月21日

(漱石)

「四月二十一日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。作中の「フール」(道化者)の性格について、心理学的に説明する。(金子健二)野間真綱宛葉書に、実用英語の指導ができる人はいないか、と問合せ、俳句二句を添える。」(荒正人、前掲書)

4月22日

米物理学者オッペンハイマー、誕生。

4月22日

英、ストライキ中の非暴力的ピケが合法化。

4月23日

米、パナマの仏系運河会社を4,000万ドルで買収。

4月24日

第1軍(黒木為禎大将)、鴨緑江渡河用船建造。

4月24日

第2次ウラジオストク方面威圧作戦(ウラジオ艦隊牽制)。第2艦隊(上村彦之丞)第2戦隊を中核とする艦隊、ウラジオ港外に急行。濃霧のため砲撃できず元山に戻る。

26日午後0時39分、元山着。「金州丸」事件を知り、ウラジオ艦隊追尾を試みるが発見できず。

4月24日

大杉栄(19)、佐々木喜善の訪問を自宅に受けるが、不在。この日までに、神田区三崎町二丁目三番地(矢澤直吉方)に移っていた。

4月24日

(露暦4/11)ロシア、ガポン組合「ペテルブルク市工場労働者の集い」結成。組合発会式。170人。

4月24日

ルベ仏大統領とデルカッセ仏外相、ローマ訪問(~27日)。教皇庁との関係悪化。

4月24日

オランダ生まれの米・画家コーニング、誕生。

4月24日

カンボジアのノロドム王、没。5月21日シソワット王即位。

4月25日

第1軍(黒木為禎大将)、鴨緑江渡河開始

25日午後11時20分、第2師団第30連隊第1大隊、黔定島を無血占領。

26日午前5時44分、近衛師団近衛第4連隊、九里島占領。ロシア満州軍司令官クロパトキン大将の戦略は、「遅退作戦」で出血を強制し満州深部に日本軍を「吸引」するもの。

4月25日

午後0時30分、元山沖、貨客船「五洋丸」、第3回出撃のロシア・ウラジオ艦隊(イエッセン少将指揮、「ロシア」「グロモボイ」「ボガツイリ」と水雷艦2隻)に撃沈。乗組員は退避。

午後5時頃、商船「萩ノ浦丸」も撃沈。

4月25日

「金州丸」事件

午後11時30分、利原付近を偵察し元山に戻る「金州丸」、馬養島南東でウラジオ艦隊と遭遇、停船命じられる。船内には元山守備隊の第37連隊第3大隊第9中隊125人ら総計302人。

26日午前0時、ロシア艦隊が包囲。「金州丸」監督官溝口五郎海軍少佐・海軍大主計飯田庸治は協議して降伏決める。交渉を行う溝口少佐らは抑留される。

午前1時30分、船内の陸兵を確認したロシア艦隊が「金州丸」に魚雷発射、命中。

午前2時頃、2発目の魚雷命中、沈没。死者は65人

4月25日

官設鉄道と関西鉄道(株)、大阪府知事らの調停と名古屋商業会議所の建議により、競争停止の協定書交換。5月16日実施。

4月25日

(漱石)

「四月二十五日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

四月二十六日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

四月二十八日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。」(荒正人、前掲書)

4月26日

清国、天津電車電灯公司設立(7月4日、ベルギーが請負う)。

4月27日


「邦人の他に対して誇称するに足たものと云へば、唯だ明媚の山水と、忠君愛国の為めには何物をも犠牲として顧みざるの赤心か、之を外にし特許発明の世界人心を動かすべきものは殆んど絶無と謂ふべし」(『萬朝報』4月27日)。

戦争を通して、日本人は、美しい風景とともに世界に誇れる稀有なものとして、忠君愛国の「赤心」を発見した。文明開化の歩みは西欧の模倣という側面が強く、日本古来の歴史を否定する過程と見られがちだったが、戦争はそれとは対照的に、日本のすぐれた伝統が発現される機会と看做された。

4月27日

ジョン・C・ワトソン、豪で初の労働党内閣組織(議会では少数派)。

8月12日までの短命内閣。

4月27日

午後2時、第12師団が鴨緑江に架橋を作り始める。

4月28日

ラオス国王にシー・サワン・ボン即位(~1959年)。

4月29日

午前11時5分、第1軍第12師団、水口鎮渡河開始。第23旅団第24連隊第2大隊から渡河。

午後5時、第24連隊全員渡河完了。

翌30日午前2時、水口鎮付近に架橋完成。第23旅団の残部、第12旅団ら渡河。

4月30日

午前9時25分、黔定島に築かれた日本軍の砲台、九連城を砲撃。両軍の砲撃戦となる。ロシア側被害増。

午後4時5分、砲撃中止。この日正午頃、虎山方面のロシア第22連隊、第12師団の攻撃を受け馬溝に後退。

午後7時15分、第2師団が完成した九里島付近の舟橋を渡河、午後10時、近衛師団が後続。

4月30日

大阪最大の第八十九銀行(蜂須賀侯爵家)、3万余円の手形交換尻不払いのため取付け騒ぎ。蜂須賀家相談役芳川顕正、近藤廉平、松平康毅らが日本銀行・安田銀行と交渉し救済。

4月30日

セントルイス万国博覧会開幕。米が仏からルイジアナ購入100周年記念。

4月30日

露ニコライ2世、第2太平洋艦隊編成と東洋派遣発表

5月2日、司令長官に軍令部長ロジェストヴェンスキー少将(10月20日中将)を任命。但し、艦隊主力の「ボロディノ」「アリョール」は艤装工事が始まったばかりの状況。

4月末

啄木、1904年4月未から5月にかけて、感想文を『岩手日報』によせ「皮相の国家主義」を批判している。


つづく


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