2025年5月18日日曜日

大杉栄とその時代年表(498) 1904(明治37)年3月29日~4月 「廣瀬中佐は乗員を端舟(たんしゆう)に乗移らしめ、杉野兵曹長の見当らざる為め自ら三度び船内を捜索したるも、船体漸次に沈没海水上甲板に達せるを以て止むを得ず端舟に下り、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり、中佐は平時に於ても常に軍人の亀鑑(きかん)たるのみならず、其最後に於ても万世不滅の好鑑を残せるものと謂ふべし。」(東郷司令長官報告)

 

広瀬武夫海軍中佐と杉野孫七兵曹長の銅像(神田須田町)

大杉栄とその時代年表(497) 1904(明治37)年3月26日~28日 「彼等議会政党は今や尽(ことごと)く『戦争の為め』てふ一語に麻酔して、其常識を棄て、其理性を抛(なげう)ち、而して全く其議会政党たる所以の精神能力を遺却して、単に一個の器械となり了(をは)れるを見る也、何の器械ぞや、曰く増税の器械是(こ)れ也、而して政府者は、巧みに這箇(しやこ)の便利なる日動器械を使用せり、而して六千余万円の苛税は忽ち吾人の頭上に課せらる」(幸徳秋水「鳴呼増税!」) より続く

1904(明治37)年

3月29日

第1軍主力が平壌の南・鎮南浦に上陸を完了。

3月29日

清国で、戸部の奏請で銀行設立(戸部銀行)。後の中国銀行(大清戸部銀行⇒大清銀行⇒中国銀行)。

3月29日

第20臨時議会、閉会。

3月29日

午後、2日前に決行された第2回旅順口閉塞作戦に関する東郷司令長官報告が、新聞号外となって配られ、翌30日朝刊もこれを再録。


戦死者中福井丸の廣瀬中佐及杉野兵曹長の最後は頗る壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬に点火する為め船艙に下りし時、敵の魚形水雷命中したるを以て遂に戦死せるものゝ如く、廣瀬中佐は乗員を端舟(たんしゆう)に乗移らしめ、杉野兵曹長の見当らざる為め自ら三度び船内を捜索したるも、船体漸次に沈没海水上甲板に達せるを以て止むを得ず端舟に下り、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり、中佐は平時に於ても常に軍人の亀鑑(きかん)たるのみならず、其最後に於ても万世不滅の好鑑を残せるものと謂ふべし。


東郷司令長官の報告は、29日、帝国議会でも読み上げられたが、衆議院では「殊に朗読中、廣瀬中佐の死が、一時議場をして哀惜の念に打たしめたるは、此に特筆するを禁ずる能はず」(『萬』3月30日)と報じられる。

東郷司令長官は、大本営に第3次閉塞作戦を要望(5月1日出撃、3日突入、失敗)

3月29日

広瀬中佐と海軍兵学校同期生の連合艦隊副官永田泰次郎少佐、同期の軍令部参謀財部彪・森越太郎少佐に手紙。財部少佐は義捐金を募り顕彰の銅像・記念碑建立の意向表明。「東京日日新聞」がこれに協力。3,242円50銭となる。神田須田町に祈念銅像建立。「軍神広瀬中佐」。

この日付け『東京朝日新聞』は、砲弾を浴びる船を手前に置き、水平線上に桜の花に囲まれた肖像が浮かぶ挿し絵とともに、「軍神廣瀬中佐」という見出しの記事を掲載

そこに、永田聯合艦隊副官から大本営幕僚財部・森両参謀に宛てた電報が紹介されている。


「廣瀬中佐の平素なみ並に開戦以来の行為は、実に軍人の亀鑑とすべき事実を以て充たされ、一兵一卒に至る迄歎賞措かず(中略)或人叫んで軍神と唱ふ、是れ敢て過言にあらざるべきことゝ信ず(中略)模範軍人として後世に貽(のこ)さるゝの手段を予め講じ置かれんことを希望す」


3月30日


「旅順港口第一回の閉塞隊を指揮し勇名を現はしてより廣瀬中佐の名は偏ねく知れ渡り、日本海軍にこの人ありと記臆されしはまだ十数日の前なるが、又もや二回の閉塞に大勲功を立て名誉なる最後を遂げられしは痛惜何ぞ堪へん」(『報知』3月30日)

「殊に其戦死は、其部下の一人を救はんとするがために起りたり。部下の一人の死を見るよりも、自ら進んで之に死せり。(中略)中佐が日本武士の魂はこれぞと示したる其行為其死、是既に日本に対する大功なり」(『東朝』3月30日)


財部彪大本営参謀は、「軍人の亀鑑として永く帝国臣民の記臆に存すべきなること勿論なり」と述べ、そのために義損金を集め、「其高に応じて或は銅像を作り又は紀念稗を建設するかして、此無比の勇者が君国に捧げたる赤誠の紀念を永遠に胎したい」という(『東日』3月30日)。財部は、廣瀬の死を聞いて、直ちに募金を集めてできれば銅像を、さもなくば紀念碑を建てたいと思った。これに応じて、『東京日日新聞』では4月1日に義損金の募集の社告を出し、『時事新報』も5月2日の紙面で銅像建設寄付金の窓口となることを報ずるなどのキャンペーンが始まっている。

3月30日

陸海軍に属する臨時事件費特別会計法、交付。戦争終結までを1会計年度とするなど。

3月30日

臨時事件費支弁に関する法律、公布。2億8千万円以内の借り入れ・国庫債券発行など。

3月31日

英印軍、チベット奇襲。チベット軍壊滅(派遣英軍阻止のチベット人300人、殺害。)

3月31日

「我が海軍は(廣瀬)中佐の一死に依りて更に数層の光輝を増したりと云ふペし」(『萬』3月31日)

3月31日

堺利彦平民新聞発禁事件公判。東京地裁。

3月31日

東京京橋区のレンガ工160人、賃上げを要求してストライキ。

3月31日

石川節子、岩手郡滝沢村篠木小学校代用教員(裁縫)となる。月給5円。篠木の山崎家に寄寓。


4月

-清国、北洋常備軍、もう1鎮編成、後、北洋常備軍第3鎮と称される。

4月

牧師海老名弾正「聖書の戦争主義」(「新人」)。日露戦争は神国建設のための自衛的戦争と支持。

4月

中央慈善協会、戦時救護事業の統制を主張。

4月

若山牧水(19)、早稲田大学文学科高等予科に入学。

4月

宇野千代(7)、岩国尋常小学校に入学。成績優秀でとくに5、6年は全甲、無欠席。

4月

漱石

「四月(推定)、開成社から ""New Century Supplementary Readers"" (五巻)の訂正を依頼される。」

「謝礼に四十円貰う。これは鏡が三越へ行き、筆の紋付を誂えるのに使う」(荒正人、前掲書)

4月

帝大文科大学学長坪井九馬三「征露進軍歌」、上田万年「我兵見よやロシア国」、芳賀矢一「祝捷行進歌」、土井晩翠(ドイツ留学中)「征夷歌三章」(「帝国文学」)


「征露進軍歌」

高麗の山

支那の海

旭のみ旗光るなり

進めや進め

大和ますらを。


旅順のみなと

うらぢばのさき

我雷(いかずち)鳴りはためく

大和ますらを。

4月

トロツキー、プレハーノフの最後通諜により「イスクラ」協力止める。


つづく

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