2025年7月14日月曜日

大杉栄とその時代年表(555) 1905(明治38)年1月1日 与謝野晶子・山川登美子・増田雅子、「恋衣」(本郷書院)刊行。 評判が良く、2月に再版、10月に3版

 

山川 登美子,与謝野晶子,増田 雅子『恋衣』

大杉栄とその時代年表(554) 1905(明治38)年1月1日 漱石 「一月一日(日)、晴。元日。旅順開城の号外鳴り響く。『吾輩は猫である』、『ホトゝギス』第八巻第四号(明治三十八年一月一日刊 一月号)に発表され、文名あがる。『倫敦塔』を『帝国文学』一月号に発表する。年賀状には、自筆の猫の絵葉書を送ってきた者もいる。野間真綱来る。(推定) 夕刻、野村伝四と共に雑煮を食べる。野間真綱から貰った猪肉入れる。野間真綱宛手紙に、「今日は何だかシルクハットが被つて見たいから一つ往来を驚かしてやらうかと思ふ」と書く。」(荒正人) より続く

1905(明治38)年

1月1日

「吾輩は猫である」第1回(『ホトトギス』掲載)の項、前回からのつづき


「吾輩は猫である」作中「美学者」(後の迷亭)のモデルは大塚保治であるとの噂が立った。1月1日付け野間真綱宛ての手紙で漱石は、「猫伝中の美学者は無論大塚の事ではない大塚はだれが見てもあんな人ぢやない。」と書き、美学者をことさら大塚らしくない迷亭として描いた。

この年の年賀状には自筆の猫の絵葉書を送ってくる者が何人もいた。大塚保治も猫の絵を描いて漱石に出した。これに対して、漱石は「猫の画は中々うまい。あれは妻君の代作だらう。猫の顔や骨格や姿勢はうまいが。色がまづい。頭の周囲にある模様見た様なものも妙だな。僕も画端書をかいて奥さんを驚ろかせやうと思ふがひまがないからやめ」(4月7日付)と茶化す。

■漱石の回想

「さて正岡子規君とは元からの友人であつたので、私が倫敦に居る時正岡に下宿で閉口した模様を手紙に書いて送ると、正岡はそれを『ホトヽギス』に載せた。 『ホトヽギス』とは元から関係があつたが、それが近因で私が日本へ帰つた時(正岡はもう死んで居た)編輯者の虚子から何か書いて呉れないかと嘱まれたので始めて『吾輩は猫である』といふのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可ませんと云ふ。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞つたが、兎に角尤もだと思つて書き直した。  今度は虚子が大いに賞めてそれを『ホトヽギス』に載せたが、実はそれは一回きりのつもりだつたのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けといふので、だん/\書いて居るうちにあんなに長くなつて了つた。といふやうな訳だから、私はたゞ偶然そんなものを書いたといふだけで、別に当時の文壇に対してどうかうといふ考も何もなかつた。たゞ書きたいから書き、作りたいから作つたまゝで、つまり言へば私があゝいふ時機に達して居たのである。」(「時機が来てゐたんだ―処女作追懐談」)

「『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうといふ考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけで仕舞ふ積り。また斯くまで 世間の評判を受けうやうとは少しも思つて居りませんでした。最初虚子君から「何か書いて呉れ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章研究会といふものがあつて、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それを其席で寒川鼠骨君が朗読したさうですが、多分朗読の仕方でも旨かつたのでせう、甚く其席で喝采を博したさうです。(中略)

妙なもので、書いて仕舞つた当座は、全然胸中の文字を吐き出して仕舞つて、もう此次には何も書くやうなことは無いと思う程ですが、扨十日経ち廿日経つて見ると日々の出来事を観察して、又新たに書きたいやうな感想も湧いて来る。材料も蒐められる。斯んな風ですから『猫』などは書かうと思へば幾らでも長く続けられます。」(「文学談」)


高浜虚子の回想

「此頃われ等仲間の文章熱は非常に盛んであつた。殆ど毎月のやうに集会して文章会を開いてゐた。それは子規居士生前からあつた会で、「文章には山がなくては駄目だ。」といふ子規居士の主張に基いて、われ等はその文章会を山会と呼んでゐた。(中略)遂に来る一二月の何日に根岸の子規庵で山会をやることになつてゐるのだから、それまでに何か書いてみてはどうか、その行きがけにあなたの宅へ立寄るからといふことを約束した。(中略)

この「我輩は猫である」―漱石氏は私が行つた時には原稿紙の書き出し三四行明けたまゝにして置いて、まだ名はつけてゐなかつた。名前は「猫伝」にしようか、それとも書き出しの第一句である「吾輩は猫である」に其儘用ひようかと思つて決しかねてゐるとの事であつた。私は「吾輩は猫である」の方に賛成した。―これは文章会員一同に、「兎に角変つてゐる。」といふ点に於て賛辞を呈せしめた。さうして明治三十八年一月発行のホトトギスの巻頭に載せた。此の一篇が忽ち漱石氏の名を文壇に嘖々たらしめた事は世人の記憶に新たなる所である。」(高浜虚子『漱石氏と私』)

同じ号の「附録」として、子規の『仰臥漫録』が収められていた。

「『仰臥漫録』は「明治三十四年九月二日に始まり、日付の明らかな限りで言えば、病没の約半月前の三十五年九月三日に及」ぶ、「家人や親しい門弟たちにもほとんど見せようとしなかった病床の手記である」(蒲池文雄「解題」、『子規全集 第十一巻 随筆一』謙談社、一九七五)。

『ホトトギス』の「附録」となった『仰臥漫録』からは、「絵画類が一切省かれたほか、本文も遺族に対する配慮からか家族に対して言及した数個所が削られ、さらにメモ類やあとの部分の俳句・和歌等の一切が省略された」(同前)。

実際の『仰臥浸録』は「「土佐半紙の大判物」に書かれ、「二冊に分綴してあって、一冊が七十一枚、第二冊が七十五枚」であった」。その「(第一冊)の最後は十月十三日の記事で、子規が母と妹の留守に「自殺熱」と戦う心理が描かれ、「古白曰来(こはくいわくきたれ)」の文字(中略)と、小刀及び千枚通しの絵で終わっている」(同前、引用文中の「」内は一九二七年刊行の岩波文庫版『仰臥漫録』の寒川鼠骨による「解説」からの引用)。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


1月1日

与謝野晶子・山川登美子・増田雅子、「恋衣」(本郷書院)刊行。

登美子は夫の死により明治37新詩社に返り咲く。評判が良く、2月に再版、10月に3版。

晶子は数え年28歳、鉄幹と結婚して5年目で、長男光4歳、次男秀(しげる)2歳であった。秀の名は、鉄幹夫妻と親交のあった大阪在住の詩人薄田泣菫の命名。

「みだれ髪」以後、晶子の作歌活動は続いていて、明治35年には第二歌集「小扇」を出版、37年5月には、鉄幹と共著の詩歌集「毒草」が刊行され、「恋衣」は4冊目の作品集。

登美子は数え年27歳。明治33年、大阪で鳳晶子と共に鉄幹に逢った時から彼に惹かれていたが、才気と性格の強さで晶子に劣っていたため、晶子ほど大胆に鉄幹に近づくことができなかった。だが、登美子は鉄幹が自分の心を知っていることを慰めとした。

その時期の彼女の歌・・・

髪ながき少女と生れしら百合に額(ぬか)はふせつつ君をこそおもへ

それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ

彼女には、鉄幹や晶子と逢った時に既に縁談があった。山川家は若狭・小浜の旧酒井家藩士。登美子の父貞蔵は藩政時代に側用人や目附役を務め、維新後は国立十二銀行の頭取をしていた。登美子の縁談の相手は、山川家の本家、山川一郎の養子山川駐七郎(とめしちろう)であった。

鉄幹と晶子の恋愛が進行中であった明治33年12月、山川駐七郎(30)と登美子(22)は結婚した。

明治34年1月号の『明星』は、「たえんまで泣きてもだえて指さきてかくては猶も人恋ひわたる」という登美子の歌を載せている。

駐七郎(旧姓都築)は、東京の高等商業学校出身の外交官で、結婚前はメルボルン日本領事館にいたが、結婚後は当時一流の煙草会社と言われた銀座の江副商会の支配人となり、東京に移り住んだ。

結婚後半年ほどしてから駐七郎は胸を冒されて職を辞し、郷里小浜の海岸で療養生活をしていたが、明治35年12月25日に没した。この時、登美子は23歳。2人の間には子供はなかった。

登美子はその後小浜の実家に帰っていたが、明治37年春、教職で身を立てることを目的に上京、日本女子大学英文科に入り、与謝野家に出入りするようになった。

登美子の日本女子大学入学については、鉄幹が、前夫人の滝野に明治34年4月13日付で日本女子大学入学を奨めた手紙が残っていることから、彼が今度はそれを登美子に奨めたという見方が強い。女子大学をでれば教師として身を立てることもできるからと、両親を説得して上京した。

同じ頃(37年4月)、「明星」同人、増田雅子も上京して日本女子大学に入った。

増田雅子(本名まき)は、5歳のとき母を失い、古い薬種問屋の奥深い家で育てられた彼女は繊細な情感を持った少女であった。13歳で堂島女学校に入り、のち西本願寺系の相愛女学校に移った。13歳のとき継母がその家に入ったが、その継母の方針で16歳のとき女学校を中退した。

彼女は古典文学を読み、「文庫」の投書家となり、明治33年21歳の頃から「明星」の投書家になった。鉄幹が大阪で「明星」の会を開いた時、厳しい旧家の箱入娘だった彼女はその仲間に加わることができなかった。翌34年の会合には出たものの、間もなく行儀見習に京都の岩村男爵家へ小間使として入らぬばならなかった。

明治36年、学問を志し父母に願い、改めて大阪の浪花女学校に入学した。本科2年を終えて明治37年25歳のとき、上京して日本女子大学国文科に入った。4月初め、入学式で増田雅子(25)は山川登美子(26)に出逢った。2人はともに晩学であった。雅子は大学の寄宿舎精華寮に入り、登美子は芙蓉寮に入ったが、2人は親しく交わり、日曜日には一緒に与謝野家を訪ねるようになった。

明治37年夏頃、晶子・登美子・雅子合著の歌集を本郷書院から出す話が起ったが、「明星」9月号に晶子の詩「君死にたまふこと勿れ」が出て、輿論が沸騰しているときに、「恋衣」などという題の本を女子大学生が出すことには何等かの危険が予測された。

11月初め、その本の広告が「明星」に出た。


つづく

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