2025年7月28日月曜日

大杉栄とその時代年表(569) 1905(明治38)年2月24日~28日 「一体、政府は社会主義者をどうする積りなのか。社会主義者に主義を捨てさせようと欲するのか、よもやそんなことは出来まい。社会主義者のロを閉じ舌を抜かんと欲するのか、そんな事も出来まい。苟(いやし)くもこの主義を持する者を法律で処罰することは出来ても、これを排除することは不可能であってそれを敢て企つるのは昔の暴君の為す所である。わが憲法第二十八条には信教の自由が保証されている。其々はこれこれの主義を持するから新聞雑誌の発行を許さないというのは、明治七、八年頃のことであって二十世紀の政治家の態度とはいわれない。」(立川雲平)

 

立川雲平

大杉栄とその時代年表(568) 1905(明治38)年2月14日~23日 平民新聞第52号(「小学教師に告ぐ」)大審院判決、上告棄却。 28日、西川光次郎・幸徳秋水、入獄。師岡千代子『風々雨々』には、その記念撮影後に秋水が着ていた二重廻し(男子用の袖のない外套)を脱ぎ、「僕には当分不要だから、君が代わりに着てくれ給え」といってそっと堺の肩に掛けた、という記述がある。秋水没後、堺は千代子に「あの時は何んだか泣きたいやうな気がして、妙に鼻が詰まって困った」と語ったという。  より続く

1905(明治38)年

2月24日

午前11時40分頃、鴨緑江軍(川村景秋大将)第11師団第22連隊、ロシア軍退却後の清河城占領。

2月24日

英外相、林董駐英公使に日英同盟継続の内交渉開始を申し出る。

2月25日

第1軍第2師団第4連隊、花嶺北方高地占領。

2月25日

(漱石)

「二月二十五日(土)、晴。午後五時半から食牛会を催す。十一時散会する。」

「「蓬来町て(ママ)ビール三本買って夏目へ行く。虚子既にあり。つゞいて奇飄。正禧。四方太来る。四方太『稲毛』と云ふ小品を讀む。牛を煮て食ふ。虚子『石棺』を讀む。傳四、遅れて来る。虚子、漱石の『幻の盾』を讀む。十一時散會」(「寺田寅謬日記」)」(荒正人、前掲書)

2月25日

北海事件国際査問会、決定書発表。イギリスの訴え全面的に認め閉会。

2月26日

『直言』第4号発行

コラム「平民社より」(堺利彦執筆)は平民社の「語学熱」を話題にし、秋水と西川は入獄中にそれぞれフランス語とドイツ語を修業する予定で、堺と石川はドイツ語を、松岡文子と延岡為子も英語をしッかり学びたいといい、「平民社の夜は外囲語の塾の様になるかも如かぬ」と書いている

2月27日

奉天包囲作戦開始(日本軍、東部・西部に展開)。

鴨緑江軍は険峻な地形・ロシア軍の迎撃により停止。

夜明け前、第1軍第2師団の第15旅団第30連隊と第3旅団第4連隊が大訂子山へ前進。第4連隊が大訂子山を占領。捕虜6千。

2月27日

第1艦隊司令長官海軍中将出羽重遠、偵察艦隊編成し、佐世保軍港発。カムラン湾、サイゴン、シンガポール、ラブアン巡航し、4月1日、鎮海湾着。

2月27日

第21議会、花井卓蔵・立川雲平・粕谷義三3代議士、「言論出版の自由に関する質問書」提出。立川代議士が演説。警視庁が新聞発行届けを受理しない措置、社会主義者への迫害、言論出版の自由への弾圧を攻撃。第百三十銀行救済問題・旭川兵営請負工事不正事件にも論及し政府を弾劾。

前年(明治37年)11月25日の『日本平民新聞』発行届書不受理に続いて、12月1日の学術雑誌『平和』の発行届、この年(明治38年)1月18日の『曙新聞』、同24日志知(後の西川)文子・神崎順一の『新社会』の発行届も受理されなかった。

立川雲平代議士の演説要旨

「・・・わが憲法第二十九条には『日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社の自由を有す』とある。日本人にして新聞または雑誌を発行しようとする者は、新聞条令に従ってその届けを出せば事足り、決して請願とか申請とか、即ち許すとか許さぬとか他の諾否を待つべきものではない。然るにこれを濫りに受理せぬとか却下するとか、殊にその理由を示さぬとか、当該官吏は何の法規条例によってかかる不都合を行なったのであるか。

或は云う、石川等は社会主義者なるがためであると。社会主義はそれほど恐ろしいものなのか、政府当局が社会主義に恐怖狼狽するのほご勝手で、ただ識者の嘲笑を買うのみである。然しその恐怖狼狽の極、国民の権利を侵害するに至っては恕すを得ない。

一体、政府は社会主義者をどうする積りなのか。社会主義者に主義を捨てさせようと欲するのか、よもやそんなことは出来まい。社会主義者のロを閉じ舌を抜かんと欲するのか、そんな事も出来まい。苟(いやし)くもこの主義を持する者を法律で処罰することは出来ても、これを排除することは不可能であってそれを敢て企つるのは昔の暴君の為す所である。わが憲法第二十八条には信教の自由が保証されている。其々はこれこれの主義を持するから新聞雑誌の発行を許さないというのは、明治七、八年頃のことであって二十世紀の政治家の態度とはいわれない。

明治十年前後に於て、時の為政者が自由民権の説を唱える志士に対して如何なる事をしたか、その得たところの効果はどうであったか、わが国も干戈(かんか)事止んで国民堵に安んずるの時は、必ず国民思潮の一大変革を来すであろう。此時に当って濫りに圧制束縛の政策を断行するが如き事あらば、禍い実に測り知るべからざるものがあると思う。

政府側には御用を達すべき学者、新聞記者もたくさんあり、政府部内には世界の新知識も多いであろうから、言論出版の自由を十分に許して論争させるがよい。『社会主義にして真理にあらざるか民みな直ちに之を去らん、警視庁の微々たる力を藉(か)るを須(もち)ひませぬ。社会主義にしてもし真理に合するものであるならんか、警視庁や内務省や政府総がかりになつても、否、国の兵力を以てしても真理に打克つことの出来ないのは古今東西、その跡を同じうしてゐるのではありませぬか。』

露国でさえもトルストイ翁を容れる余地がある。日本帝国にして区々たる社会主義者の一団を容るるの余地がないという事はなかろう、折角なる日本帝国を、政府の人々は小さくしているのである。そんな狭い了見では、戦勝帝国の威力、大なる日本の威力はどこにあるか。」

「その癖、今の諸公は大胆勇断に富んでいる。見よ、彼の大蔵大臣はいかに大胆勇断であるか、今の時に当って百円でも千円でも金は時局のために使わなければならぬというのが、上下一致の輿論である。然るに六百万円という大金を、第百三十銀行のために拗り出して顧みない。衆議院がこれを不当なりと決議してもなお泰然たるは、実に大胆なるやり方である。・・・また彼の陸軍大臣は旭川兵営問題に関して、会計検査院の攻撃をうけ委員会の追及をこうむって、われは盲ら判を捺したのであると言うている。陸軍大臣 - この国家の休戚は此人によって得られるものである。然るにわれは盲ら判を捺したに過ぎぬといって恥じない。人、或は男らしいということを感心するだろうし、自身もまた大得意であろう。

かくの如く揃いも揃って大胆勇断であるのに、何ぞ独り内務大臣のみ小心翼々として社会主義を憂慮するのであるか。」


対する政府の答弁はただの数行。

「政府は新聞雑誌の適法にあらざる届書を受理せざりしことあるも、未だ臣民の憲法により附与せられたる言論印行の自由を妨げたることなし。」


2月27日

第4回国庫債券1億円発行規定公布。利率6分。

2月27日

(漱石)

「二月二十七日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。

二月二十八日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


2月28日

第3軍(乃木大将)は午後4時30分までに、田村支隊が大民屯付近、第1師団が珍小崗、第7師団が牛心坨などに進出。

午後5時頃、乃木司令官は阿司牛に到着。

2月28日

第21議会閉会。

臨時軍事費7億8千万円、各種増税案可決。(前議会では軍事費5億、増税6千万余、公債3億)。通算で増税1億4千万・公債10億。

一方で、軍事公債(6~7分)から600万を2分の低利で第130銀行(松本重太郎)に貸付救済(政府財政顧問松方正義、井上馨との関係)。

同時に、鉄道抵当法・工場抵当法、可決。

2月28日

平賀譲、英国海軍大学校留学のため横浜出港。4月7日ロンドン着。


つづく


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