1905(明治38)年
1月1日
週刊『平民新聞』第60号発行
幸徳秋水署名の「新年偶語」
「明治三十八年の元旦に社会主義万歳を三唱する者は、明治三十七年の元旦に社会主義万歳を三唱せる者に比して、其数四倍したり、多謝す。警視庁、迫害は社会主義繁栄の好肥料なりき」と記す。
西川光二郎「平民社忘年会」(年末に開かれた平民社の忘年会で、各人が述べた一年の追懐を筆記したもの)。
△私の一身には、犯罪人となりしこと、近親と離れしことの二つがある、犯罪人となるといふ様なことは、予(かね)て覚悟の前とは言へ、こんなに早くはあるまいと思ひしに今は早や過去となりて之を回顧するに至りました、存外急転直下の勢を以て来る様で、ウツカリして居る間に大変動が我が頭上に来るであろうと思ふ。然れども又た、三年、五年、十年、二十年たっても、マダ吾々破顔微笑する様なことは来ぬかも知れぬ、吾々は永遠の覚悟で此事業に当たらねばならぬと思ひます(堺君)
堺利彦「平民日記」に「松岡さんが来て呉れてから、急に社中が春めいて居る」とある。
「松岡さん」は前年(明治37年)に25歳で早世した松岡荒村(本名・悟)の妻の文子で、まだ22歳だった。松岡荒村は平民社社員ではないが、社会主義協会に入会後、自柳秀湖らと早稲田社会学会を創設して執筆や演説活動をしていたので、妻の文子も堺たちとは顔なじみだった。
前年暮れ、平民社の賄い方を務めていた老夫婦が故郷に帰ることになり、堺が文子に平民社に来てほしいと頼んだらしい。
その後、文子一人では手が足りず、『平民新聞』紙上で手伝いに来てくれる女性を募集したところ、延岡為子が石川県の金沢から応じてきた。延岡家はもと加賀藩の両替商で、明治維新後は衰えたものの、かなり豊かな暮らしをしていた。
また、「平民日記」は、「此の年末に際し、一口に七百円といふ、我等に取つては大金の寄付を発表し得たのは、我等の愉快に堪へぬ所である」と述べている。700円は、この頃の中流家庭の約2年分の生活費にも相当する金額。
この号の「平民社維持金 寄附広告」には「金七百円也 丹波 岩崎革也氏」とある。
岩崎革也は、丹波の裕福な造り酒屋の長男で、京都府下最初の社会主義者となった人物。近年、幸徳秋水、堺利彦、北一輝、高畠素之など社会主義者たちからの革也宛書簡が、岩崎家に保管されていることがわかり、それらを通して岩崎革也の研究も進んでいる。岩崎と平民社の人々との関係については山泉進『平民社の時代-非戦の源流』に詳しい。
岩崎は平民社に対して金銭面で何度も救いの手を差しのぺている。堺が入獄したときにもカンパを送っていて、まさに陰の恩人ともいうべき存在。
1月1日
啄木、詩「心の声」(「明星」巳年第1号)。特別定価40銭。
1月1日
尾上松之助一座、マキノ省三の西陣・千本座で興行。
1月1日
伊、ベルギー人のアンリ・ウーデンコーフェン、世界で初めて菜食主義者組織結成。
1月2日
水師営会談。
午後1時30分、両国降伏談判委員、会見室入り。
午後4時35分、「旅順開城規約」作成同意、調印。第3軍参謀長伊地知幸介少将・第1艦隊参謀長岩村団次郎中佐ら、ロシア守備隊参謀長レイス大佐・「レトゥイザン」艦長シチェンスノヴィチ大佐ら。
ロシア軍陸海軍将校1319中、帰国441・捕虜878を選ぶ。将官17中、帰国はステッセル中将ら10・捕虜はスミルノフ中将ら7。兵士を含むと捕虜は2万超。
この時、海外の新聞報道員がロシア軍使節団の写真撮影を申し入れたが、乃木は「後世にまで残る写真に、降伏時の姿を撮らせるのは、日本の武士道が許さない」と拒否。その代わり「会見が終わり、友人として同列に並んだ姿なら撮ってもよい」とした。乃木はステッセル将軍以下のロシア将官を労り、互いの奮闘ぶりを讃えあった。
約束通り、乃木は会見後の写真撮影に応じたが、そこにはまるで友軍のように並ぶ日露両軍の将軍たちの姿があった。
1月2日
(漱石)
「一月二日(月)、野間真綱来たが、玄関で帰る。
一月三日(火)、晴。夜、高浜虚子・坂本四方太(四方太)・橋口清(五葉)・橋口貢を招いて、猪肉入り雑煮をご馳走する。鏡、女中たちと猫が雑煮の食べ残しを咽喉に引っかけて踊りを踊っているのを見て、余りいやしん坊をするからと笑っている声が聞える。
一月四日(水)、晴。朝、小野竹三(不詳)来て、『英米名家詩抄』を貰う。午後、寺田寅彦と共に本郷を散歩する。高浜虚子を訪ねる。寒川鼠骨居合せる。四人で「本郷座」(本郷区春木町、現・文京区本郷三丁目)に行く。満員で入場できぬ。鳥肉料理店「ぼたん」(神田区連雀町十八番地、現・千代田区須田町一丁目)に行き、家鴨を食う。」
「「帰りに鼠骨君新聞社員には随分變つた人があるとて、東橋で後向きに飛んで橋の上に落ち後飛と號した人の話しなどす。」(「寺田寅彦日記」) この新聞記者は三浦勝太郎と云う。『吾輩は猫である』に、水島寒月として登場する。」(荒正人、前掲書)
1月3日
皇太子に第3皇子(高松宮)、誕生。
1月5日
ロシア兵、旅順口退去。
午前11時35分、乃木大将・ステッセル中将水師営会見。
午後0時55分、昼食後、記念撮影。
1月5日
婦人の政治上の自由獲得請願署名運動趣意書(「平民新聞」)。
1月5日
(漱石)
「一月五日(木)、井上微笑宛に年賀を兼ね俳体詩をおくる。」(荒正人、前掲書)
1月5日
啄木(19)、新詩社新年会に出席。徹宵吟会。上田敏、馬場狐蝶、蒲原有明、石井柏亭、川上桜翠、平出路花等27~8名。夜、与謝野鉄幹・晶子夫妻、山川登美子、増田まさ子、大井蒼梧、平野万里、茅野蕭々と啄木の8名。
1月7日付け石川啄木の金田一京助あて手紙
「京の春は、旅順の陥落に沸る許りの騒ぎ、花電車と云ふものに小生は初めて乗つて見候。(略)一昨五日は新詩社の新年会、めづらしくも上田敏・馬場孤蝶・蒲原有明・石井柏亭などの面々も出席、女子大学よりは『恋衣』の山川登美子増田まさ子のお二方見え候ひき。早天より終日気焔の共進会と云つた様な痛快のあつまりにて、又文壇への謀反も二つ三つ其議に上り申候。合計にて二十七八名も有之候。蒲原有明といふ男、余程喰へぬ様な奴に候ヘど、又案外お手のものに候。話して見ては林外などより厭気のない奴、小生には少々好からぬたくらみも有之候。呵々
席上にて公開したる女詩人よりのお年玉、贈られる人の歌に因んだものにて、平野万里君へは『み膝に置かむ恋しくばつけ』にて美しい手毯一つ。川上桜翠君へは『み手を知りしは夢かあらぬか』にて、うす紅の手袋。蒼梧(そうご)君へは『・・・夜殿に出づる蚊ともなり綾羅の袂玉の手に死なむ』にて、淡紅色の木綿にて縫ひ上げたる長い袂一つ。鉄幹氏へは『ひすゐ十六我れ二十八』を判じ物的にやりたるには満堂拍手致候。これに憤慨して男の方の平出露花・川上桜翠・大井蒼梧等の数君、急案急製、やがて女詩人方へ、矢張り公開の御年玉をやる事と相成り候処、奇想天外。登美子女史へ『・・・たま々々燭は百にも増さむ』にて燭台へ蝋燭十本許りを一束に立てし火を点じたるを出したるなど、就中一座を驚かし申候。夜に入りて大方は散会。残ったる主人夫妻と、山川・増田の二女史、蒼梧・万里、茅野䔥々と小生と八人にて徹宵吟会を催し、皆々多少作有之候ひしが、小生は十六行の一詩と外に未完の長詩一章を得申候。但し二時頃より、終日の舌戦の労ありたるためか、䔥々先づたふれ、主人たふれ、蒼梧たふれ、隣室の秀(しげる)様泣き出したるに晶子女史も座を立たれて残れるは四人、それも晩に一時間許りは思ひ申候。昨朝は女詩人達のお手料理あつさりしたるは、お歌に似合ぬを却つて趣味ある事に舌を鼓し候。宿にかへれるは午前十時、机上にありたる急信二三に返書認めて午後二時より就床、暮に二時間許り起きて晩餐を了り、たゞちに又華胥(かしよ)の園に遊びて今朝漸く目さまし申候。(略)
三十八年一月七日朝 啄木生
花明兄御侍史
二伸
小生も本年は既(は)や二十歳に候。小生に取りてはこの位の滑稽天下に無之候。」
1月5日
第2インター執行委員会、日本の社会主義者へ同情決議。
つづく

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