1905(明治38)年
1月6日
平民新聞第52号控訴審(「小学教師に告ぐ)。
弁護士花井卓蔵、卜部喜太郎、木下尚江(無罪論は15日「平民新聞」社説として掲載)。
11日、判決。量刑変わらず上告。印刷所国光社の印刷機械没収命令(東京の印刷業者が社会主義者の刊行物印刷を断る方向になる)。
小疇検事が有罪の論告を述べる。
この検事は前年の「嗚呼増税」事件の控訴法廷で、「此度だけは秩序壊乱の罪にしておくが、もし再び罪を犯す時は必ず朝憲紊乱の罪に問う」と論告した人物。
病を推して出廷した弁護士花井卓蔵が2時間余にわたる雄弁をふるい、次に卜部喜太郎、最後に木下尚江の無罪論があった。
木下の弁論要旨「朝憲紊乱とは何ぞ」(『平民新聞』第62号(明治38年1月15日)の社説として発表された)。
まず教育勅語が発布された明治23、24年当時の社会情勢から説き起す。
「当時は大隈氏の条約改正失敗の後をうけて保守的反動の逆潮全国に瀰漫(びまん)し、条約を改正して欧米人の内地雑居を許すは大和民族を滅亡せしむる所以なりとの議論、勝利を占めたるの時なり。而して偶々(たまたま)発布されたる教育勅語を解釈するにも、また実にこの流行思想と時代感情とを以てし且つ倣慢にもその思想感情が真に永世不朽の勅語の聖旨なりてふ論理的混沌に陥りて、ここに教育上の権威を据えぬ。
故にその国家観念は世界を離れ、否むしろ世界を憎悪し、その頑迷不霊の思想を以て強ひて日本特有の精神なりと主張せり。爾来、条約は改正せられ内地雑居は許され内外の事情急速の進歩をとげたるにかかはらず、教育界の思想は依然たる旧態なり。サスガに文部省においても漸次その陋見を棄てんと苦慮しつゝあり、而して枢密顧問官の連署を以て文部省編纂の修身書を弾劾せる建議書出づ、如何に国家偶像の旧思想が牢乎として抜く可らざるかは・・・該建議書によって明白なり。
平民新聞の議論は、この『国家』の陋見より教育界を救はんと欲せる也。・・・何の朝憲紊乱か是れあらん。」
木下はさらに「発行禁止」の判決を非とし、「公明なる判決を受くるの参考に供せん」とて、政府の心事態度を証明した。
「政府は一に平民新聞の発行禁止を計画し、且つ社会主義者の新聞刊行を撲滅せんことに焦慮す。現に近く政府は社会主義者の新聞刊行を妨害するがために、警視庁をしてその刊行届書を受附けざらしめたり。警視庁はただその届書を内務大臣へ取継ぐの義務あるのみ、而して発行者はただ内務大臣へ届出づれば足る、これ新聞条令の明白に規定する所なり。然るに警視庁をして之を受附けざらしむ、是れ政府自ら法律を蹂躙するものなり。
もし平時ならしめば、全国の新聞紙は一斉に立って政府の不法を攻撃すべく、議会は此一事によりて直ちに政府弾劾案を通過すべし。今や戦時のために公人その常識を失ひ、社会主義者のために弁ずるの故を以て己れまた奇禍を買はんことを恐怖し、以て政府をしてこの非道違法を公演せしむ。そもそも政府は何が故に敢てこの非行を演じて顧みざるか、是れ一に『戦争の挙国一致』てふ体面を糊塗せんと欲するによる。その旅順久しく陥らず、国民漸く戦争の苦痛と惨害とを自覚するを見るや、政府は忽ち神経過敏症に陥りて警察の全力をあげて平民新聞に当れるなり。・・・而して権力を濫用して言論を圧するの事実伝播するの時、如何なる非難が欧米社会に湧出すべきかを思はざる也。・・・」
木下は警視庁が『日本平民新聞』発行届を受理しなかったことの非を指摘している。
前年11月25日、平民社は週刊『平民新聞』発行禁止判決の確定を予期し、石川三四郎・斎藤兼次郎の名を以て『日本平民新聞』発行届書を警視庁に提出した。しかし、警視庁は「取調べる事がある」と称し受理を拒み、その理由を追及すると「不法と思うなら訴訟するがよい」と応答。
両人は警視庁の監督官庁である内務省を訪い、大臣秘書官に理由を質すが要鏡を得ない。
再度、警視庁に赴き官房主事に対して届書不受理の理由を質問すると、「今その受理せざる事情を申上ることが出来ません、暫くの間待って下さい」と返答するのみ。
1月6日
ロシア第2太平洋艦隊主力、支隊の停泊しているマダガスカル島ノシベ湾に向う。
1月7日
旅順口陥落祝う、東京市祝捷会。日比谷、7万。
1月7日
(漱石)
「一月七日(土)、または十二日(木)、十三日(金)(極めて不確かな推定)、歌舞伎座に、『都大路勇武春駒』(四幕)を観に行く。留守中、正宗白鳥来る。
一月八日(日)、晴。午後、寺田寅彦来る。夕刻帰る。」(荒正人、前掲書)
1月8日
荒畑寒村(18)母(48)、没。
1月8日
ロシア第2太平洋艦隊主力とスエズ運河を通過したフェリケルザム支隊、マダガスカル島北のノシベ湾で合流。ロジェストヴェンスキー中将は、ここで後発隊とネボガトフの第3太平洋艦隊との合同を指示される。
2月14日、後発隊と合同。
3月16日、ノシベ湾を出港。
1月8日
(露暦12/26)ロシア、ガボン組合ガヴァン支部、コルビノ支部開設。計12支部、1万となる。
1月8日
(露暦12/26~27)ロシア、カフカース、バクー、採油所労働者大闘争。採油やぐら90基焼き討ち。
1月9日
「永沼挺進隊」176人、長春北方の窟門鉄橋爆破すべく黒溝台南方蘇麻堡出発。
前年12月、満州軍総予備の第8師団騎兵第8連隊長長沼秀文中佐は春季攻勢のためロシア軍の増派を抑えるべき奉天以北の鉄道線路爆破を提案。総参謀長児玉大将はこれを拒否。第2軍司令官奥大将がこの案に興味を示し、騎兵第8連隊を第2軍秋山支隊に編入。長沼中佐は選抜し「挺身隊」を組織。
15日、内蒙古入り。
19日、内蒙古首都庫倫南東の哈拉套を出発。
1月9日
「ミシチェンコ(中将)騎兵団」1万超、渾河西方の四方台より南下。
10日、第2軍兵站守備隊・騎兵第1連隊の一部と遭遇。日本軍は退却。また、後備第41連隊第3中隊長安原政雄大尉指揮の接官堡守備隊主力が三尖泡東方の小馬泡で包囲される。安原大尉戦死。損害:戦死11、負傷29、捕虜6。
11日、「ミシチェンコ騎兵団」、牛荘を攻撃。午後3時30分、日本軍巣守備隊、戦死6・負傷3・捕虜中隊長牧野常彦大尉ほか12)。
12日、午後4時30分、「ミシチェンコ騎兵団」、牛家荘への線路・電線を遮断し、砲撃開始。
午後6時50分、ロシア側攻撃の隊列が乱れ、戦闘は日本側に有利に展開。
午後7時40分、退却。日本側の戦死3・負傷1・捕虜2、ロシア側戦死61・負傷206・失踪26。
19日、「騎兵団」、四方台に帰着。
1月9日
(露暦12/27)ロシア、ガボン組合支部代表者会議。各支部代表20人づつ、革命党代表など300人、プチーロフ工場労働者4人解雇事件。復職「請願」決定。
1月10日
海軍軍令部長伊東祐亨海軍大将、各鎮守府司令官・各要港司令官を招集。艦艇修理指示。
1月10日
(漱石)
「一月十日(火)、曇後晴。野間真綱、雉子を持って来る。皆川正禧を昼食に誘う。(使いの者に手紙持参させたものか)」(荒正人、前掲書)
1月10日
漱石 『倫敦塔』(『帝国文学』1月号)発行
1月10日
(露暦12/28)ロシア、ガボン、特別市長官フロンに解雇組合員の復職を陳情。プチーロフ工場長は陳情団に取り合わず。
12日、プチーロフ工場長、復職要求は不当として、ガボン組合と対決姿勢を明確に出す。
つづく

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