2025年7月22日火曜日

大杉栄とその時代年表(563) 1905(明治38)年1月29日 『平民新聞』廃刊① 「アゝ我児(こ)『平民新聞』明日よりは、汝、全く歴史の物なり、- 去れど汝は死せるに非ず、否な、死することを得るものに非ず、汝は紙に非ず、墨に非ず、文字に非ずして、生命なれば也、太初より太終に向て時と共に発展する活動なれば也。・・・汝は既に人の心の奥に在り、血管の中に在り、汝の目より之を見れば、爰(ここ)に汝を葬むるもの、却て汝が活動の一端なるやも知るべからず」(木下尚江「平民新聞を弔ふ」)

 

「平民新聞(週刊)」の第1号と赤刷の第64号

1905(明大杉栄とその時代年表(562) 1905(明治38)年1月27日~29日 黒溝台占領。ロシア軍退却、終結。 日本側戦死1,848、負傷7,249,捕虜227(全損害の56%が第8師団で、第8師団の4個連隊(5・31・17・32)は損傷率50%前後)。ロシア側戦死641、負傷8,989、失踪1,113。治38)年 より続く

1月29日

『平民新聞』廃刊(第64号)

全紙を紅血色に印刷(1849年5月1日マルクス『新ライン新聞』発禁措置後の終刊号に倣う)。巻頭「終刊の辞」。1年2ヶ月。別に同志が発行する「直言」がこれに代り、平民社機関紙となる(2月5日発刊、9月10日廃刊)。第2面に「露国革命の火」。

■終刊の辞

「吾人は涙を揮(ふる)ふて、茲(ここ)に平民新聞の廃刊を宣言す。」

いま、突如廃刊を発表するのは、同志の信頼負托に背くの罪甚だ大なることを認める。だが、現在の『平民新聞』が実にいかなる非境に沈淪し、いかなる運命に翻弄されているかを見た同志は、今日の廃刊の故を以て深く吾人を責めないであろう。

『平民新聞』は第52号事件の上告審、第53号事件の控訴審が継続中で、前者の新聞発行禁止の控訴院判決が大審院でも上告棄却となって確定すべきは、ほとんど疑いを容れない。その場合、さらでだに財政難の平民社は朝憲紊乱の罪によって没収される印刷器械を賠償する義務がある。また後者の有罪判決も同じく確定すれば、被告3人の罰金を支払わなければならぬ。さらに、幸徳5ヶ月、西川7ヶ月の大獄も免れないであろう。

「而して今日、本舐廃刊の事を以て、甚だ吾人を責めざる可きを信ず。然り、微力なる平民新聞は既に刀折れ矢尽きて其守りを失へり、又天下同志が活動の堡塞たること能はざる也、事此に至る、瓦全せんよりは玉砕す可きのみ。」

しかし、『平民新聞』は、言い得るところを言い為し得るところを為し、「初志を点検して甚だ疾(やま)しき所なきは、吾人之を公言するに躊躇せず」。

この間、世界の大勢は急転直下し、社会主義運動は実に偉大なる発展をとげ、一年前を想えばほとんど隔世の感がある。

「鳴呼平民新聞は如此にして生き、如此にして死す、又憾(うら)み無かる可き也、否、平民新聞の名は惜しからざるに非ず、社会主義運動は更に之よりも重きを奈何せん、蓋し聞く蝮蛇(ふくだ)手を螫(さ)せば壮士腕を解くと、今は断ずべきの秋(とき)也、故に吾人は涙を揮ふて茲に廃刊を宣言す。」

ただ、『平民新聞』は廃刊しても、社会主義運動をますます活潑ならしめるためには中心の機関、同志の団結、運動の資金がなければならぬが、これについては別に同志と講究するところあらん(『直言』発刊計画を暗示)。

「鳴呼、我平民新聞、短かくして且つ多事なりし生涯よ、誰か創刊の当時に於て爾(しか)く多事にして爾く短かき生涯なるを思はんや、独座燭を剪(きつ)て終刊の辞を草すれば、天寒く夜長くして風気䔥索たり。」


■英文欄「平民新聞の告別」

「吾人は今や、裁判はなお大審院において継続中であるが、政府によって禁止されんよりはむしろ自発的に、本号を以て吾人の新聞の発行を中止するに決した。」

続いて、「廃刊の辞」では抽象的に言及された新しい機関紙について具体的に言明。

「幸ひにして吾人のある同志は、『直言』と称する週刊新聞を発行してゐるが、今後はこれが日本社会主義者の中央機関と見傲されやう。今や吾人はしばらく吾人の筆を擱くが、しかし更に数語を宣言せんと欲する。曰く、日本は正義と人道のために野蛮国ロシアと戦つてゐる高度の文明国である、されどこの国には言論の自由がない。」


■英文欄「捕虜の間の宣伝」

「吾人は数月前、スイスとアメリカのロシア人同志から数百部の社会主義小冊子を受取った。彼等はわが国における戦時捕虜の間に分配する目的に出で、そして吾人は種々の理由による延引の後、最近に至って目的を達するを得た。吾人は捕虜が他日、社会主義思想を体得して帰国しロシア全土に普及している革命的精神を、大いに促進せんことを望む」


■英文欄「利得か損失か」

「現状に関する限り、日露戦争はロシア国民全体にとって有利である。但しツァーリ(皇帝)と彼の政府とにとっては、致命的であるかも知れない。ロイテル電報が吾人に語るように、ロシア人は首都でも地方でも戦争の進展を阻止すべき彼等の決意とひとしく、現在の戦争に対する彼等の不満を声明すべき機会を捉えている。これらの声明は人民に死者約二千、負傷者約四千を出さしめたが、しかも一般大衆の利益はますます得られつつある。日本は如何、軍国主義と資本主義の増大、出版と言論の抑圧、ただかくの如きのみ。吾人はロシア人か日本人か、果していずれの国民が、日露戦争を通じて社会の真実にして理想的な目標に進んでいるかを知らない」

■本紙廃刊に就ての注意

『平民新聞』に代って社会主義の中央機関となった『直言』は、内容、体裁、紙幅および発行回数を『平民新聞』と同一に改め、2月5日を第2巻第1号とする。

編集には旧『平民新聞』同人が当り、その執筆者は従来の『平民新聞』寄稿家である。

『直言』の発行所は府下新井村の「直行社」で、平民社は売捌所に過ぎないけれども、それは形式上のことで実際には『平民新聞』が『直言』と改称したということ

『平民新聞』は消滅したが「平民社」は依然として存在し、堺、西川、石川、神崎、松岡(文子)等が常住して隔週の社会主義研究会、月1回の婦人講演会は従来の通り楼上に開かれる。

『平民新聞』の前金購読者に対しては、その払込みずみ購読料を読者の同意を得て『直言』に振替える。

最後に旧平民社の維持のために募集した寄附金は893円33銭、旧社会主義協会から交附された73円31銭の合計963円46銭を有している。このなかから、罰金および没収印刷器械賠償のために支払わねはならぬうえ、新局面を迎えた運動は多々益々資金を必要とする。よって今後は「運動基金募集」に改め、その受附、保管、および支出は平民社の堺がその責任に当り、今後『直言』紙上において報告する。

「運動基金募集」に関しては、平民社相談役の小島竜太郎、加藤時次郎、佐治実然、木下尚江(安部磯雄がぬけている)のほか、幸徳、堺、西川、石川、斎藤(兼次郎)が署名して責任を明らかにした。

■木下尚江「平民新聞を弔ふ」

「アゝ我児(こ)『平民新聞』明日よりは、汝、全く歴史の物なり、- 去れど汝は死せるに非ず、否な、死することを得るものに非ず、汝は紙に非ず、墨に非ず、文字に非ずして、生命なれば也、太初より太終に向て時と共に発展する活動なれば也。・・・汝は既に人の心の奥に在り、血管の中に在り、汝の目より之を見れば、爰(ここ)に汝を葬むるもの、却て汝が活動の一端なるやも知るべからず」


運動の記事は下記3点。、

①小田、山口の伝道行商が1月21日、風雨をついて周防の椿峠を越えて富海に到着した第16回の日記、各地の団体の集会報告、

②石川・斎藤2人が「言論自由に関する請願」書を花井卓蔵、粕谷義三、立川雲平3議員を介して衆議院に提出したこと、

③今井歌子・川村春子・松岡文子等が治安警察法を改正して婦人の政談演説を聞き、政社に加入する自由を得るための請願書に500余の調印を得て島田三郎・江原素六の紹介で衆議院に提出したこと。


つづく

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