2025年7月27日日曜日

大杉栄とその時代年表(568) 1905(明治38)年2月14日~23日 平民新聞第52号(「小学教師に告ぐ」)大審院判決、上告棄却。 28日、西川光次郎・幸徳秋水、入獄。師岡千代子『風々雨々』には、その記念撮影後に秋水が着ていた二重廻し(男子用の袖のない外套)を脱ぎ、「僕には当分不要だから、君が代わりに着てくれ給え」といってそっと堺の肩に掛けた、という記述がある。秋水没後、堺は千代子に「あの時は何んだか泣きたいやうな気がして、妙に鼻が詰まって困った」と語ったという。

 

左から時計回りに幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎、石川三四郎(1904年11月13日、平民社)

大杉栄とその時代年表(567) 1905(明治38)年2月7日~13日 「二月十日(金)、『吾輩は猫である』(続編)を掲載した『ホトゝギス』(第八巻第五号)発行される。高浜虚子は「消息」に、「『吾輩は猫である』續篇は獨り量に於いて長篇たるのみならず、亦た質に於て大篇たり。文飾無きが如くにして而も句々洗練を経、平々の敍寫に似て而も薀藉する處深遠、這般の諷刺文は我文壇獨り評者を俟て之あるものといふべし。」と述べる。」(荒正人) より続く

1905(明治38)年

2月14日

ロシア・ドブロヴォリスキー大佐の後発隊、ノーシベー湾到着。11/16.リバウ軍港発。

2月15日

日英同盟祝賀会、小村寿太郎外相、同盟の継続発展を希望する旨演説。

2月15日

ネボガトフ少将指揮第3太平洋艦隊、ロシア発。

2月中旬

「二月中旬、島崎藤村、小諸町に訪ねて来た神津猛から、『吾輩は猫である』を読むように勧められ、二月二十六日(日)の神津猛宛手紙に感想を伝える。)」(荒正人、前掲書)


2月16日

郵便貯金法、実用新案法、公布。7月1日施行。

2月16日

(漱石)

「二月十六日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。文学誌を読む場合、自分の考えを定めて読むことが大切だと説く。帰途、『七人』第四号(明治三十八年二月一日刊)を買い、野村伝四『二階の男』を読む。

二月十八日(土)、夜、寺田寅彦来る。『幻影〔まぼろし〕の盾』脱稿する。(『漾盧集』第三作)」(荒正人、前掲書)

2月17日

(露暦2/4)ロシア、ニコライ2世叔父モスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ公、クレムリン内で暗殺。社会革命党員カリヤエフ。

2月18日

この日、西川光次郎(下獄の10日前)、同志に招かれて千葉県八生村宝田で社会主義演説会。

2月19日

『直言』第3号発行。

社説「露国革命が与ふる教訓」

2月20日

大山巌総司令官が各軍首脳を呼び集め、作戦に関する訓示を行う。

〈概況〉

この年2月~3月、日露両軍は、満州の奉天周辺で大兵力を繰り出して激突。この結果、両軍合わせて兵員10万以上が死傷し、民間人にも多数の被害が出る。この戦闘は、奉天を中心に繰り広げられたことから、後の「奉天会戦」「奉天の戦い」と呼ばれる。

まず、この年1月、ロシアの要塞旅順が陥落すると、日本陸軍第3軍は、北方の主力部隊(満州軍)と合流し、次の攻撃準備が始まる。

そして明治38年2月下旬、日本陸軍は北上を開始し、翌月には長さ60km以上の戦線の全域にわたってロシア軍の大部隊と衝突する。

日本軍は前年2月の開戦以来の1年間、遼陽や旅順で一応の勝利をおさめてきたが、その中で、既に多数の将兵を失い、大量の砲弾や資材を消耗してきた。日本にとっては、戦争が長引くほど、人的・財政的な損失が更に重なり危機的な事態に陥る危険があり、その上、ロシア軍の増援はシベリア鉄道を経由して次々と満州に到着していたため、日露間の戦力の差が決定的なものとなる恐れも出てきた。

こうした事情から、日本の首脳陣は、一刻も早くロシア軍の主力を撃滅してロシアにとって戦争の継続が困難な状況を作り出し、講和への道を切り開こうとしていた。こうして、日本の満州軍(約25万人)は、数に勝るロシアの満州軍(約31万人)に対して敢えて攻撃をしかけることとなった。

戦いは、日本軍がロシア軍を包囲しかけるところまで進展するが、日本軍はこれまでの戦いと同様に人命と砲弾を消耗し、攻撃を受けて混乱したロシア軍が包囲網を脱して北に退却するのを阻止できなかった。状況は、満州軍総司令部の一将校が「敵に出しぬかれたるは真に大元帥陛下に対し申訳の無い次第を致したり」(谷寿夫『機密日露戦史』)と述べるほどだったが、日本の将兵は長々と続いた行軍と戦闘のせいで疲弊しており、兵数で勝るロシア軍を追撃できなかった。

3月10日、日本軍はロシア軍の司令部が置かれていた奉天(清国領)を占領するが、すでにロシア軍の大半が奉天一帯から引き払った後で、「日本軍は大きな成功を収めはしたが、ロシア軍を残滅することができなかった」(『ソ連から見た日露戦争』2009年)。

奉天会戦における日本軍の死傷者数は約7万人、ロシア側の死傷者数は(捕虜を合わせて)約8万人、その他に戦場周辺で暮らしていた民間人も犠牲となった。

2月20日

この日、石川、桜井、松崎、岡、加納、斎藤の一行、千葉県行徳町で社会主義演説会。

東京の演説会は中止・解散が恒例であるが、平民社の研究会、茶話会、婦人講演会は無事に継続している。

また『直言』紙上「同志の運動」欄には、岡山、横浜、紀州木本、土浦、鹿児島、佐渡相川、山形、鶴岡、筑後山門郡小川村、神戸、岐阜、横須賀、京都、室蘭、小樽、函館、名古屋、飛騨、高知、埼玉県川越、同小林村、鳥取県安井宿、伊勢崎、高崎、但馬豊岡、宇都宮、信州神川村、越後長岡、常陸柿岡、下関、栃木県佐野、肥後長洲町、金沢、広島、門司の各地における団体の運動が報告されている。

また、この日、能登七尾町の第三中学校での社会主義演説会は、600余人の生徒が開会前すでに会場に充満していたという。"


2月20日

(漱石)

「二月二十日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。

二月二十一日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


2月21日

東郷平八郎大将、旗艦「三笠」乗船し朝鮮南岸鎮海湾着。

2月21日

桂首相・曾禰蔵相、全国主要銀行家30余招待し、第4回国債応募懇請。

桂は「平和の曙光、地平線上にほの見ゆ」と明言。価格90円(額面100円)・利子6分・期限7年・利回り年8分2厘5毛。

第4回国債1億円の募集条件は、売出し価格100円につき95円、償還期限5年、実際利回り年6分3厘1毛。

第2回1億円募集条件は、100円につき92円、期限5年、利回り6分7厘6毛。

第3回は、第1期軍事公債3億6千万円のうち、内外市場で募集された約3億円の残り8千万円で、条件は第2回と同様。

引受け銀行の取扱い手数料は、第1回は1/1,000、第2回は2/1,000、第3回は10/1,000。

軍事公債の募集条件は、発行ごとに緩和されている。

2月21日

語学熱が盛んになった平民社で、大杉栄(20)はただ一人フランス語が出来るとして重宝される。

2月22日

日本軍が前進を開始。ロシア軍の左翼(東側)を攻撃

2月22日

(漱石)

「二月二十二日(水)から三月五日(日)の間に、『吾輩は猫である』(続々篇)脱稿する。

二月二十三日(木)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。ロマン主義と写実主義の比較を繰り返し述べる。夜、寺田寅彦来る。」(荒正人、前掲書)

2月23日

平民新聞第52号(「小学教師に告ぐ」)大審院判決、上告棄却(幸徳・西川の禁固5ヶ月、7ヶ月、国光社所有印刷機械没収、『平民新聞』発禁)。控訴院判決が確定。

28日、西川光次郎・幸徳秋水、7月28日迄巣鴨監獄入獄。

当日、平民社の裏庭で写した二人の写真と、日比谷公園で二人を囲んで撮影した集合写真が、『直言』第6号(3月20日)の紙面に掲載されている。

師岡千代子『風々雨々』には、その記念撮影後に秋水が着ていた二重廻し(男子用の袖のない外套)を脱ぎ、「僕には当分不要だから、君が代わりに着てくれ給え」といってそっと堺の肩に掛けた、という記述がある。秋水没後、堺は千代子に「あの時は何んだか泣きたいやうな気がして、妙に鼻が詰まって困った」と語ったという。

このときに限らず、平民社の関係者が写った記念写真はたくさん残っている。彼らは入獄や出獄のときにまで、わざわざ集まって写真を撮っておいた。


つづく

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