2025年7月20日日曜日

大杉栄とその時代年表(561) 1905(明治38)年1月23日~26日 「1905年の1月23日[旧暦の1月10日]早朝、私は、汽車の中で一睡もできないまま疲れはてて講演旅行からジュネーブに帰ってきた。売り子の少年が前日の新聞を売ってきた。そこには、冬宮への労働者の行進が行なわれるだろう、と未来形で書かれていた。私はたぶん行なわれなかったのだろうと判断した。1、2時間ほど後、『イスクラ』の編集部に立ち寄った。マルトフは極度に興奮していた。  『行進は行なわれなかったんでしょう?』、私は尋ねた。  『行なわれなかっただって?』、彼は飛びかからんばかりに言った――『僕たちは夜通しカフェに座って、最新の外電を読んでいたんだ。君は何も知らないのか? ほら、これを見てみろ、これを!』、そう言って彼は新聞を差し出した。私は、血の日曜日事件に関する外電記事の最初の10行に視線を走らせた。頭を殴られたような鈍い衝撃と焼けつくような感情の高まりに襲われた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

行進する労働者

大杉栄とその時代年表(560) 1905(明治38)年1月18日~22日 「陛下、もし私たちの祈りを許容されず、それにお答えなられなかったら、私たちはここで、この広場で、陛下の宮殿の前で死ぬつもりです。他に私たちの行くべきところなどありません。行く必要もありません。私たちにはただ二つの道――自由と幸福への道か、墓場への道しかありません。陛下、おっしゃってください。そのどちらでも、たとえ死の道であろうとも、私たちは絶対に服従し、その道を進みましょう。私たちの命を、苦悩するロシアのいけにえとなしてください。私たちはこの犠牲をいといません。私たちは喜んで命を捧げましょう」(冬宮に行進したペテルブルク労働者の嘆願書より) より続く

1905(明治38)年

1月23日

夕刻、ロシア第2軍司令官グリッペンベルク大将、攻撃下命。総勢9万6千、砲452門。

対する日本軍は、秋山支隊と第8師団の一部の総勢1/2師団が散在。

1月23日

(漱石)

「一月二十三日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで、Hamlet を講義する。(聴講者は、Macbeth, King Lear の三分の一である。(金子健二))

一月二十四日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


1月23日

大杉栄(20)、徴兵を免れるために明治大学に入学。「徴兵猶予に要する証明書」を出させる。

1月23日

(露暦1/10)露、スト拡大・継続。工業技術高専集会・カンパ、弁護士25人の蛮行抗議声明。

ツァーリ、ペテルブルク市総督職を設置。前モスクワ市警視総監トレーポフを任命。

モスクワでもスト開始。

ジュネーブのトロツキー

「1905年の1月23日[旧暦の1月10日]早朝、私は、汽車の中で一睡もできないまま疲れはてて講演旅行からジュネーブに帰ってきた。売り子の少年が前日の新聞を売ってきた。そこには、冬宮への労働者の行進が行なわれるだろう、と未来形で書かれていた。私はたぶん行なわれなかったのだろうと判断した。1、2時間ほど後、『イスクラ』の編集部に立ち寄った。マルトフは極度に興奮していた。

 『行進は行なわれなかったんでしょう?』、私は尋ねた。

 『行なわれなかっただって?』、彼は飛びかからんばかりに言った――『僕たちは夜通しカフェに座って、最新の外電を読んでいたんだ。君は何も知らないのか? ほら、これを見てみろ、これを!』、そう言って彼は新聞を差し出した。私は、血の日曜日事件に関する外電記事の最初の10行に視線を走らせた。頭を殴られたような鈍い衝撃と焼けつくような感情の高まりに襲われた。」(トロツキー『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より)


1月24日

志知文子(後、西川光次郎夫人)・神崎順一、雑誌「新社会」発行届出。差し戻し。

1月24日

(露暦1/11)露、ペテルブルク、ゴーリキー、逮捕。1月8日の内相陳情団拘留。

首都新聞主筆13紙の共同声明。

1月24日

仏、ルービエ内閣成立(~1916年)。

1月24日

フィリピン、カビテ州でゲリラ残党が警察軍を襲撃。人身保護令が一時、停止。

1月25日

黒溝台会戦、失陥

第8師団他の日本軍、黒溝台付近でロシア第2軍約10万と戦闘。ロシア軍包囲により黒溝台陥落。

午前3時、ロシア軍、土台子侵入。日本軍は退却。

午前4時、ロシア軍、黄臘坭子侵入。日本軍「壊滅」状況(戦死21・捕虜61)。

午後1時、ロシア軍、黒溝台に進撃。

午後2時、黒溝台孤立化は時間の問題。

午後3時30分、西側のロシア軍が6~700mに迫る。

午後3時50分、北東のロシア軍が700mに迫る。

午後6時、黒溝台西方の泡頭の第5連隊第3大隊が包囲される。守備隊、退却。

午後11時、種田支隊(騎兵第5連隊長種田錠之助大佐)、古城子に到着。種田支隊の損害:死傷81・俘虜19。

1月25日

清国、商標註冊局設立。

1月25日

社説「これを日本の事として想像せよ」(「万朝報」)。ペテルブルクの様な騒ぎにならない「皇天に感謝」する。

1月25日

長野県小県郡長瀬村の久保田甲子治ら、小県社会主義茶話会で、普通選挙請願について討議。

1月25日

(露暦1/12)露、モスクワ、スト参加4万3千人。

1月25日

スイス、レーニン「ロシアにおける革命のはじまり」。

1月25日

高平小五郎駐米公使、米大統領に平和克服後の満州・韓国・旅順に関する日本政府の意見と講和に関して申し入れ。

1月26日

沈且堡の苦闘。

午前11時20分、沈且堡がロシア軍の砲撃を受ける。

正午、北東の北台子をロシア軍が攻撃。守備隊1個小隊は沈且堡に退却。

この頃、南西の牛居にミシチェンコ騎兵団が接近。午後1時、沈且堡総攻撃下命。午後1時20分、西南の小部落の西800mにロシア軍出現。

午後1時30分、ミシチェンコ騎兵団が牛居に迫り、守備隊は佟二堡へ退却始める(危険をさけるため三家子方面へ迂回)。しかし、三家子守備隊は既に退却しており、布陣したロシア軍より攻撃を受ける。

午後4時、ミシチェンコ騎兵団、牛居を突破し佟二堡に迫る。

この頃、老橋付近に釘付けになっている第8師団後備第8旅団(立見尚文中将)は後備第31連隊長小原文平中佐戦死・後備第5連隊長尾上貞固中佐負傷など死傷521となる状況。

午後4時30分、佟二堡に退却していた牛居守備隊の伊東隊・島田隊、浪洞溝めざし撤退。

午後7時、沈且堡増援隊が到着し「固守」態勢をとる。

午後8時30分、満州軍総司令官大山元帥、軍総予備の第4軍第5師団に浪洞溝への前進下命。

午後10時、更に、第2軍第3師団の大東山堡北方集結、第4軍第9旅団の東烟台への急行、第1軍8個大隊の大藍旗付近集結を下命。

1月26日

「平民新聞」第52号(「小学教師に告ぐ」)事件の大審院上告棄却。

3月5日、幸徳・西川、下獄。(「寒村自伝」による。異説あり)

1月26日

(漱石)

「一月二十六日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

一月二十八日(土)、東京帝国大学文科大学で中学校教員の教授法について感想を述べる。また、創作家と批評家との関係にもふれる。

一月二十九日(日)、曇後晴。午後、寺田寅彦来る。」

「「讀賣新聞の日曜附録にある『海賊』の批評の中に『請う。しばらく此文豪の傑作に対する管見の無禮を演ぜしめよ』と云ふ名文あり。之れと並べる天野初子の新體詩と共に奇々妙々なりとて笑ふ。」(「寺田寅彦日記」)」(荒正人、前掲書)

1月26日

(露暦1/13)露、リガ、スト参加者と軍隊衝突。死者34人。

1月26日

ジュネーブ、ロシアの虐殺抗議集会。参加3千人。ボリシェヴィキ・ルナチャルスキー、メンシェヴィキ・トロツキー、演説。


つづく


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