2025年7月13日日曜日

大杉栄とその時代年表(554) 1905(明治38)年1月1日 漱石 「一月一日(日)、晴。元日。旅順開城の号外鳴り響く。『吾輩は猫である』、『ホトゝギス』第八巻第四号(明治三十八年一月一日刊 一月号)に発表され、文名あがる。『倫敦塔』を『帝国文学』一月号に発表する。年賀状には、自筆の猫の絵葉書を送ってきた者もいる。野間真綱来る。(推定) 夕刻、野村伝四と共に雑煮を食べる。野間真綱から貰った猪肉入れる。野間真綱宛手紙に、「今日は何だかシルクハットが被つて見たいから一つ往来を驚かしてやらうかと思ふ」と書く。」(荒正人)

 

『吾輩ハ猫デアル 上編』ジャケット下絵 装丁橋口五葉(1905年)

大杉栄とその時代年表(553) 1905(明治38)年1月 「『今回の事件はこの論文の予測を完全に裏づけた。今や、ゼネラル・ストライキが闘争の主要な方法であることを否定するものは誰もいまい。1月9日の行進は、いかに坊主の法衣に隠れていようとも、最初の政治的ストライキだ。これだけは言っておかなければならないが、ロシアの革命は、民主主義的労働者政府の権力をもたらすだろう』――パルヴスは、こうした趣旨のことを、私の小冊子の序文に書いてくれた。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1905(明治38)年

1月1日

旅順陥落

午前7時30分頃、第9師団右翼第6旅団(一戸兵衛少将)第35連隊第3大隊(増田惟二少佐)第10中隊、盤龍山堡塁前面の虎頭山に進出、望台攻撃。

同時刻、第11師団第22旅団第43連隊第2大隊(松田三郎少佐)第5中隊も望台北側散兵壕に進み攻撃開始。両連隊の突撃は頂上前で撃退される。

午前11時20分、両連隊は兵力を増強して再度攻撃。これも突破できず。

午後2時30分、28センチ砲による砲撃。

午後3時頃、再々度攻撃。ロシア兵は退却。

午後3時30分、望台を占領。

午後4時30分頃、第1師団司令部より第3軍司令部に、水師営南方の前哨点にロシア軍降伏使節(守備隊軍司令官ステッセル将軍の降伏書簡届ける)現れるの報が届く。

1月1日

韓国、京釜鉄道草梁・永登浦間開業。釜山~京城間の連絡成る。

1月1日

非常特別税法改正公布。即日施行。第2次非常特別税。地租・営業税・所得税・酒税・砂糖消費税・登録税・取引所税・狩猟免許税・鉱業税・売薬営業税・印紙税及び各種輸入税増徴。小切手印紙税・砂金採取地税や、汽車・電車・汽船の乗客に通行税、織物消費税、繭・米・籾に輸入税、相続税法(4月1日施行)など創設。塩専売法開始(6月1日施行)。これにり7,412万8千円余りを得る(内、地租25.3%、塩専売21.9%、印紙収入14.9%)。

1月1日

臨時軍事費予算7億円追加公布。一時借入金・国庫債券・公庫の総額を4億5,500万円以内とする。

1月1日

鳥取市、「因伯時報」主筆波羅生(原戌吉)、政府の社会主義弾圧を批判。

1月1日

この日より「東京朝日」の一面は全面広告だけとなる(~昭和15年)。広告が減り、広告収入が減少し、加えて発行部数も減り始めたため。

前年(明治37年)末には、大幅な人員整理を行い、高給取りのベテランを整理する(37人、須藤南翠など)。

1月1日

漱石「吾輩は猫である」(『ホトトギス』第8巻第4号)。好評のため翌年の8月まで断続連載(10回)。

「此の一篇が忽ち漱石氏の名を文壇に嘖々たらしめた事は世人の記憶に新たなる所である。」(高浜虚子「漱石氏と私」) 

この月、漱石は、「帝国文学」に一種の旅行記「倫敦塔」を、丸善の機関雑誌「学鐙」に「カーライル博物館」を書いていた。漱石は、前年(明治37年)未頃には、頼まれれば何でも書こう、という気持になっていた。

「カーライル博物館」は、カーライルの旧居を訪問した印象記で、「倫敦塔」は紀行文の中に、ロンドン塔にまつわる歴史上の諸事件、特にシェイクスピアの残忍な作品「リチャード三世」に描かれた血腥い王位簒奪事件の犠牲になった人々の姿を幻想的に挿入して、異様な効果を生んだ作品で、これも好評であった。

漱石の作品を面白がったのは、「帝国文学」や「ホトトギス」にものを書いているディレッタント的な学者や学生か、文壇的小説家たちのグループから離れた俳人や歌人たちで、この時代の文壇の重要な発表機関、「新小説」「文芸倶楽部」「太陽」などのジャーナリズムとは無関係な出来ごとであった。

「一月一日(日)、晴。元日。旅順開城の号外鳴り響く。『吾輩は猫である』、『ホトゝギス』第八巻第四号(明治三十八年一月一日刊 一月号)に発表され、文名あがる。『倫敦塔』を『帝国文学』一月号に発表する。年賀状には、自筆の猫の絵葉書を送ってきた者もいる。野間真綱来る。(推定) 夕刻、野村伝四と共に雑煮を食べる。野間真綱から貰った猪肉入れる。野間真綱宛手紙に、「今日は何だかシルクハットが被つて見たいから一つ往来を驚かしてやらうかと思ふ」と書く。(野間真綱は、一日(日)、二日(月)、三日(火)に来て、その間昨年十二月三十一日(土)の写生文を置いて行く。)」


「『ポトゝギス』は、発行部数八千部に達したという。

第一高等学校の生徒たちの間では、これまで「夏目さん」と呼ばれていたが、一部では 「猫さん」・「猫」と呼ばれるようにもなる。

内田栄造(百閒)は、岡山中学四年生で、『吾輩は猫である』を読み、この時以来、漱石を深く尊敬する。但し、文学愛好者の間では、『倫教塔』のほうを高く評価していたかと思われる。(吉田精一)

これは文章会の連中で、『ホトゝギス』一月号に、『吾輩は猫である』の掲載を予め知っていたからである。(松岡譲)」(荒正人、前掲書)

漱石は、自分の家に迷い込んだ猫を主人公にして、学校の教員である自分とその家族や友人たちを客観的に諷刺的に描こうと企てた。

猫を利用するのは独創ではなかった。漱石は、一高の同僚で英文学者畔柳都太郎から、1822年にドイツの作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンが、「牡猫ムルの人生観ならびに楽長ヨハンネス・クライスラーの断片的な伝記」という長い題の、猫を主人公にした小説を書いていることや、その筋書きや二三の場面を聞いていた。

ホフマンよりも以前の1797年には、ルードウィヒ・ティークが「長靴をはいた猫」という作品を書いていたが、それは1697年のフランスの作家シャルル・ペローの「長靴をはいた牡猫」に負うものであった。

それ等について研究していた畔柳都太郎は、明治37年秋頃、高山樗牛を記念して毎年開かれる樗牛会で、「猫を扱った文芸作品」という題で請演していた。また畔柳都太郎は、漱石の「吾輩は猫である」の発表された翌月(明治38年2月)、姉崎嘲風の雑誌「時代思潮」に「文学上の猫の話」という題で、エジプトから17世紀のシェイクスピアまでの文芸に現われた猫についての研究を発表した。

漱石は、畔柳から、主としてホフマン「牡猫ムル」の話を聞いたが、それを読んだわけではなかった。漱石は、人間生活を客観的に描き出す手段として猫を登場させるのが便利だと考えた。人間性一般を諷刺的に、写実的に描き出すに当っては、彼は主としてスウィフトの「ガリヴァーの旅行」の文体と創作態度とを採用し、しかもそれを、自分が日常生活の中で使っている毒舌や洒落に作り変えた。

彼は、そういう設定の上に立って、自分の不徹底な生き方に対する、また日本の知識階級一般の無自覚な生活態度に対する癇癪を吐き出しながらこの作品を書いた。


「吾輩は猫である」は、異常な好評にむかえられた。それまでの小説には、人間存在の哀れや滑稽を、自分自身をも対象としながら笑いを混えて描き出した作品は、日本の近代文学には存在しなかった。「吾輩は猫である」は、その随筆風な、落語的な表現によって、知識階級の日常生活を、言わば微視的に描き出したので、読むものはそこに、自分の顔を初めて鏡で見るような感じを味わった。

「吾輩は猫である」の評判のせいか、「ホトトギス」は間もなく売り切れた。虚子は続篇を書くことを漱石に依碩した。漱石はは、一回きりのつもりで書いたのであったが、第2回を書いて2月号に発表した。

虚子は、漱石の帰国以来、しばしば逢っていたが、漱石はいつも暗かった。それが「吾輩は猫である」が発表されて、世評が湧くようになってからは、漱石の書斎は光が射し込んだように明るくなり、虚子を迎える漱石の顔はいつも愉快そうだった。

「ホトトギス」2月号に載った「吾輩は猫である」第2回は、第1回よりも面白いと言われ、この月の「ホトトギス」もよく売れた。

3月号には漱石は書かなかった。すると、「ホトトギス」の売れ行きは落ちた。

虚子は漱石を督促して、4月号に第3回を書かせ、以後毎月連載してもらうことにした。


1905(明治38)年

1月「猫」「ホトトギス」((8巻4号)

2月「猫」続編「ホトトギス」(8巻5号)

4月「猫」(三)「ホトトギス」(8巻7号)

6月「猫」(四)「ホトトギス」(8巻9号)

7月「猫」(五)「ホトトギス」(8巻10号)

10月単行本『猫』(上編)大倉書店、販部書店で発売、20日で初版売り切れ。

1月「猫」(六)「ホトトギス」(9巻1号)

1906(明治39)年

1月「猫」(七)(八)「ホトトギス」(9巻4号)

3月「猫」(九)「ホトトギス」(9巻6号)

4月「猫」(十)「ホトトギス」(9巻7号)

8月「猫」(十一)「ホトトギス」(9巻11)

10月『猫』単行本(中編)の「序」

11月単行本『猫』(中編)大倉書店、販部書店から刊行

つづく

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