2025年7月29日火曜日

大杉栄とその時代年表(570) 1905(明治38)年3月 大阪朝日新聞社主村山龍平、東京出張員の二葉亭四迷の動きが悪いとして、首を切ると言い出す。上野理一社長は東京朝日主筆池辺三山に相談。二葉亭の記事はたびたび没になり、明治37年は合計3本しか紙面に出ず。 池辺三山は「東京朝日」からも彼に仕事をさせる条件で解雇撤回させる。三山の狙いは彼に小説を書かせること。「露国革命党」(8月)以降、四迷の記事は「東京朝日」だけに発表されるようになる。

 

二葉亭四迷

大杉栄とその時代年表(569) 1905(明治38)年2月24日~28日 「一体、政府は社会主義者をどうする積りなのか。社会主義者に主義を捨てさせようと欲するのか、よもやそんなことは出来まい。社会主義者のロを閉じ舌を抜かんと欲するのか、そんな事も出来まい。苟(いやし)くもこの主義を持する者を法律で処罰することは出来ても、これを排除することは不可能であってそれを敢て企つるのは昔の暴君の為す所である。わが憲法第二十八条には信教の自由が保証されている。其々はこれこれの主義を持するから新聞雑誌の発行を許さないというのは、明治七、八年頃のことであって二十世紀の政治家の態度とはいわれない。」(立川雲平) より続く

1905(明治38)年

3月

韓国、日本と対決を進言・上疎する老儒者崔益鉉、忠清南道定山に押込められる。

3月

横浜正金銀行、芝罘に出張所設置。

3月

呉海軍工廠で、軍艦生駒起工。1907年12月竣工。13,750トン、馬力25,000。

3月

夏目漱石、この月より明治大学講師も勤める(月給30円)。明治36年始めロンドンより戻り、春より第1高等学校講師(年俸700円)。他に、帝大文科大学にも出講(年俸800円)。

この年は、他に「猫」の原稿料が「ホトトギス」よりあり、年間収入は1800円余り。但し、留学時代の借金返済、養家や破産した妻の実家などの要求により、生活費は十分ではない。

(漱石)

「三月以後、自筆の水彩絵葉書を送ることは殆ど絶えてしまったと推定される。(小宮豊隆)」(荒正人、前掲書)

「三月初旬(日不詳)、東京帝国大学文科大学英文学科を明治三十二年七月に卒業した大谷正信(繞石)から、乙亥生の署名で発表した「教師の一日」が掲載されている『明星』(明治三十八年三月号)を贈られ、好意を抱き交際始る。大谷正信は、本郷区駒込曙町十一番地に両親とともに住む。(礼状は三月十一日(土)に出す)」(荒正人、前掲書)


3月

大阪朝日新聞社主村山龍平、東京出張員の二葉亭四迷の動きが悪いとして、首を切ると言い出す。上野理一社長は東京朝日主筆池辺三山に相談。二葉亭の記事はたびたび没になり、明治37年は合計3本しか紙面に出ず。

池辺三山は「東京朝日」からも彼に仕事をさせる条件で解雇撤回させる。三山の狙いは彼に小説を書かせること。「露国革命党」(8月)以降、四迷の記事は「東京朝日」だけに発表されるようになる。

3月

栃木県白仁知事、谷中村買収告諭。応じた者には保証金と代替地貸与を約束。

3月

英、18歳未満の鉱山労働者の労働時間が、1日8時間までに制限される。

3月

ハンガリー、野党「連合」運営委員会禁止。抵抗なく降伏。

3月

仏、兵役を短縮する二年兵役法成立。

3月

永井荷風(26、カラマズー・カレッジの聴講生)、シカゴに旅行

3月

~4月、トロツキー、ペテルブルクに滞在。

夏、フィンランドに逃れる。

「ペテルブルクにおいて私は、公には地主のヴィケンティエフのパスポートで暮らしていた。革命家の間ではピョートル・ペトロヴィチとして通っていた。組織の上では私はどの派にも属していなかった。また、私が協力関係を保っていたクラーシンは当時、調停派ボリシェヴィキであった。このことは、当時の私の立場からして、いっそう2人の間を接近させた。同時に私は、非常に革命的な路線をとっていた地方のメンシェヴィキ・グループとも連絡を取り合っていた。私の影響のもと、このグループは、ツァーリの諮問機関にすぎない最初の国会をボイコットする立場に立ち、メンシェヴィキの在外指導部と衝突するにいたった。しかし、このメンシェヴィキ・グループはまもなく壊滅した。組織を当局に売ったのは、『金縁眼鏡のニコライ』と呼ばれていたドブロスコークという男で、このグループの活動的メンバーでありながら職業的挑発者であった。彼は、私がペテルブルクに潜伏していることを知っていたし、私の顔も知っていた。そこへ、私の妻が、森の中で行なわれたメーデー集会で逮捕されるという事件が起こった。私は一時的に身を隠さなければならなくなった。夏になってから私はフィンランドに逃れた。その地で私は息つぎの合間を得て、激しい執筆活動に打ち込むとともに、短い散歩を楽しんだ。新聞をむさぼるように読み、各党の形成経過を追い、新聞の切り抜きをし、諸事実を整理した。この時期に私は、ロシア社会の内的諸力およびロシア革命の展望について自分の最終的な見解をつくり上げた。私は当時次のように書いた。

『ロシアはブルジョア民主主義革命に直面している。この革命の基礎をなしているのは農業問題である。権力をとるのは、ツァーリズムと地主に対抗して農民を自らに従える階級、党だろう。だが、自由主義者も、民主主義的インテリゲンツィヤも、それを遂行する能力を持たない。彼らの歴史的時期は過ぎ去ったのである。革命の表舞台はすでにプロレタリアートによって占められている。社会民主党だけが労働者を通じて農民を自らに従えることができる。このことは、ロシアの社会民主党の前に、西欧諸国でよりも早く権力を獲得する展望を開く。社会民主党の当面する課題は民主主義革命を完遂することである。だが、権力を獲得したプロレタリアートの党は、自らを民主主義綱領に限定することはできない。党は、社会主義的諸措置の道へと移行することを余儀なくされるだろう。党がこの道をどこまで先に進めるかは、国内の力関係のみならず、国際情勢の全体に依存している。したがって、基本的な戦略路線は、社会民主党が、農民に対する影響力をめぐって自由主義者と非妥協的に闘争しながら、すでにブルジョア革命の時期において権力獲得の課題を自らに提起することを求めている』。

 革命の全般的展望に関する問題は、戦術的諸問題と密接に結びついていた。党の中心的な政治的スローガンは憲法制定議会であった。しかし、革命闘争の歩みは、誰がどのように憲法制定議会を召集するのかという問題を提起した。プロレタリアートによって指導された人民蜂起という展望からは、臨時革命政府の樹立という考えが出てくる。革命におけるプロレタリアートの指導的役割は、臨時革命政府におけるその決定的な役割を保証することになるだろう。」(トロツキー『わが生涯』)


3月1日

奉天会戦

ロシア37万、日本25万。10日に奉天、16日鉄嶺を占領。

第3軍(乃木希典大将)第9師団、午後6時頃からの砲撃の後、四方台占領。

鴨緑江軍(川村景秋大将)は第11師団・後備第1師団ともに目標の攻撃失敗。

第4軍(野津道貫大将)、砲撃。午後8時、第10師団に万宝山、第6師団に沙河堡への攻撃下命。

第1軍(黒木為楨大将)第12師団、西三成子山攻略失敗。

第2軍(奥保鞏大将)第4師団第19旅団第9連隊(岩田正吉中佐)第1・2大隊と第38連隊(内藤新一郎大佐)第2・3連隊は、午後10時、北台子西方堡塁へ前進。午後11時30分、第38連隊第2大隊長は敵前200mに達したことを第9連隊に連絡のため発砲するが、逆にロシア軍に察知され、第2大隊第7・8中隊は半数が死傷する損害を蒙る。第2大隊は小樹子に退却、ロシア軍は追尾して、第38連隊の陣前100mに迫る。

3月1日

平田東助、大日本産業組合中央会設立。

3月1日

「毎日新聞」、21議会における立川雲平らの質問に呼応して、社会主義者言論取締りに抗議。

「日本国民は法律を蹂躙してまでも彼等が言論の権利を禁圧せんとするが如き不見識を、曾て政府に依頼したる記憶あらざる也。社会主義禁圧政略に依て侮辱されたる被害者は決して社会主義の徒輩に非ずして、実に吾人国民なり」

3月1日

カリフォルニア州上院、日本移民制限に関する決議案可決。


つづく

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