1905(明治38)年
2月
谷中村民、自費で破堤所の復旧工事開始。
遊水池化を阻止した利島・川辺両村は義捐人夫を送る。完成まもなく、8月の出水で決壊。
2月
平出修「詩歌の骨髄とは何ぞや」(「明星」2月号)
与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を巡り大町桂月との論争になり、鉄幹と共に新詩社を代表して桂月を訪れ、1時間半にわたる論談の結果、桂月の論理の矛盾を指摘し論破。(「1月」の項に既述)
2月
平出修「昨年の文芸界」(「明星」2月号)
尚、平出修は、「明星」3月号から「明星」への寄稿で平出露花から本名の平出修に変える。
平出は昨年の文芸界を、
「国家侵略史上より観察すれば、明治三十七年は実に光彩ある一年なりき。而して之を文芸発達史上より観察すれば果して如何」(『定本平出修集』一巻)
と書き出し、劇界における小維新、小活動、小希望を認めたほか、「三十七年の文壇は実に萎靡沈衰を極めしと云ふに就いて誰しも異論なき所ならむ」と観察し、その理由として日露戦争をあげ、
「一国の気勢悉く戦争に趁(はし)り、戦争より云へば閑事業たる文芸の如きは漸く度外視され、加ふるに財界の緊縮論は心霊上の作物を冷遇するの状況を呈し、陸に海に、戦は連勝連勝の好果を収めたれども、文芸上の産物は絶無とも云ふべき姿にて又一年を終りぬ。」
と、総論的、また結論的に述べている。
そして「三十七年の文壇は悪傾向を以て充たされぬ」の内容として次のように分析する。
「第一は戦争文学の鼓吹(際物文学の鼓吹)
第二は国民文学鼓吹の声
第三は家庭小説と名づけるものの流行
第四は脚本化した小説の流行(唯一の主観小説『水彩画家』(島崎藤村作)を抱き得るのみ)
第五は評論の蕪雑なる事
第六は翻訳文学の堕落」
などを分類して論証し、その最後に、
「若し夫れ昨年の文界に於て喜ぶべき現象を求めば、僅に一部泣菫(薄田)、有明(蒲原)二氏等少数者の新体詩と、新詩社一派の短歌及新体詩との益々好発展を為し来れるにあり。而して是等は今の評論家と多数の韻文作家との知らざる所、吾人は別に稿を改めて論ずるの機会あるべし。」
と結ぶ。
2月
(漱石)
「二月(日不詳)、元養父塩原昌之助は、下谷区西町(現・台東区束上野一丁目)から本郷区駒込東片町(現・文京区本駒込)に転居する。(鷹見安二郎)」(荒正人、前掲書)
2月
「二、三月頃(日不詳)、二葉亭四迷、本郷区駒込西片町十番にノ三十四号、(現・文京区西片町)に移る。(明治三十六年十二月(日不詳)、本郷区西片町十番ろノ十四号に住み、明治三十七年十月(日不詳)、北豊島部滝野川村大字田端四百五十七番地に住む」(荒正人、前掲書)
「(二月(日不詳)、二葉亭四迷、大阪朝日新聞社との意思疎通を欠き、退職を促される。池辺吉太郎(三山)の奔走で納まる。)」
「二葉亭四迷の送る原稿はロシアの実力を高く評価していたので、幹部の意向に反すということで没になることが多い。二葉亭四迷は、その間他の雑誌に翻訳なども発表する。それが非難の原因である。」(荒正人、前掲書)
2月
延岡為子、平民社賄方として入社。
彼女の兄、常太郎が堺利彦のファンで、『萬朝報』の頃から彼の文章を愛読していたという。
その後、常太郎が購読する『平民新聞』を読み始めた為子は、平民社の温かい雰囲気に惹かれて、裏方募集の広告を見ると居でも立ってもいられず、2月上旬に上京(『中央公論』1933年3月号)。以後、文子と為子は平民社に住みこんで社員の世話をすることになった。当時、為子は最初の夫とは離婚していて、文子より10歳年上だった。
2月
田岡嶺雲ら雑誌『天鼓』創刊。
2月
法隆寺再建・非再建論争開始。
この月、関野貞「法隆寺金堂塔婆中門非再建論」、平子鐸嶺「法隆寺草創考」発表。非再建論を主張。
2月
トロツキー(25)、ウィーンから密かにロシアに戻りキエフに滞在。
3、4月、ペテルブルク滞在。
5月、フィンランドに身を隠し、その地で永続革命論を仕上げる。
ウィーンでは、ロシア人亡命者の波がロシア帰国へと逆流し、オーストリア社会民主党ヴィクトル・アドラーは金・パスポート・隠れ家手配で多忙。トロツキー妻は先に帰国し、キエフでアパートを探す。
キエフでは、トロツキー、ボルシェヴィキ中央委員クラーシンの協力で一連のビラを印刷。クラーシンよりペテルブルクの隠れ家を教わり、ペテルブルクに向う。
「私とセドーヴァはミュンヘンからウィーンに移った。すでに亡命者の波がロシアへと逆流しつつあった。ヴィクトル・アドラーは、亡命者たちに金やパスポートや隠れ家の住所を手配するための仕事にすっかり忙殺されていた。彼のアパートで私は、国外のロシア保安警察員に知れ渡っている私の外貌を床屋に頼んでつくり変えてもらった。……
ウィーンで、私たちはセルゲイ大公暗殺の報に接した。さまざまな事件があいついで起こった。社会民主党の新聞は東方に目を転じた。私の妻は、キエフでアパートを探し、連絡をつけるために、一足先に出発した。私は、退役少尉補アルブーゾフのパスポートをもって2月にキエフに到着したが、数週間はアパートを転々とした。最初は若い弁護士の家に泊まったが、彼は自分の影にさえ怯えるような人物だった。次に、技術専門学校の教授のところに泊り、ついで自由主義派の未亡人のところに泊まった。ある時には眼科医院に潜伏したことさえあった。私の素性を承知している院長の指示で、看護婦が足浴してくれたり、害のない目薬を点眼したりしてくれたが、それにはいささか閉口した。私は二重に秘密活動をすることを余儀なくされた。つまり、非合法の宣伝ビラを書き、かつ、私が目を酷使しないよう厳重に監視している看護婦に隠れてそれをしなければならなかった。」(トロツキー『わが生涯』)
「キエフには当時、有名な非合法印刷所があり、周囲で何度も摘発があったにもかかわらず、憲兵司令官ノヴィツキーのおひざもとで何年も持ちこたえた。私の宣伝ビラを1905年春に印刷したのも、この印刷所だった。だが、もっと長文のアピール文は、キエフで知りあった若い技師のクラーシンに委ねた。クラーシンはボリシェヴィキの中央委員会のメンバーであり、カフカースにある、設備の整った大きな印刷所を管理していた。私はキエフでこの印刷所のために一連のビラを執筆したが、その印刷の出来栄えたるや、非合法の条件下ではまったく異例なまでに見事だった。
この時期の党は、革命と同じくまだ非常に若く、人物の点でも仕事の点でも、未熟さと不十分さが目についた。もちろん、クラーシンとて、そのような傾向からまったく免れていたわけではなかった。しかし、彼にはすでに、堅実さや、断固たる姿勢、『行政的』能力がそなわっていた。彼は一定の経験を積んだ技師であり、次々と仕事をこなし、非常に高い評価を受けていた。知人の範囲も、当時の若い革命家の誰よりも広く、多彩だった。労働者地区、技術者のアパート、モスクワの自由主義工場主の邸宅、文学サークル――あらゆるところにクラーシンはつながりを持っていた。これらすべてを巧みに結びつけていたおかげで、彼の前には、他の者にはけっして望めないような実践的可能性が開けていた。
1905年、クラーシンは党の一般的な活動に参加しただけでなく、最も危険な領域の活動をも指導していた。武装部隊の編成、武器の調達、爆発物の製造などである。広い視野をもっていたにもかかわらず、クラーシンは、政治においても、生活全般においても、何よりも直接的な成果を追求するタイプの人間だった。ここに彼の強みがあったが、同時にアキレス腱もそこにあった。長期にわたって粘り強く、諸勢力を結集したり、政治的訓練を積み重ねたり、経験を理論的に総括したりすること――こうしたことは彼には向いていなかった。1905年革命が期待に背く結果に終わったとき、クラーシンの関心の第一位を占めたのは電気工学であり、総じて工業であった。クラーシンはこの分野でも、傑出した実務家としての本領を発揮し、並々ならぬ成果を達成した。技師としての活動によって得た大きな成功が、それ以前の数年間に革命活動の中で得たのと同じ個人的満足感を彼に与えたことは、疑いない。10月革命に関しては、あらかじめ失敗が運命づけられた冒険として、敵意のこもった疑惑の目で見ていた。長いあいだ彼は、経済的崩壊を克服する能力がわれわれにあるとは信じていなかった。しかし、やがて彼は、スケールの大きい活動ができる可能性に食指を動かすことになる…。
1905年におけるクラーシンとのつながりは、私にとって、まさに天からの贈り物だった。私たちはペテルブルクで落ち合うことを約束した。また、彼からペテルブルクでの隠れ家をいくつか教わった。」(トロツキー『わが生涯』)
2月
独領東アフリカ(現タンザニア本土部)、中央鉄道建設開始(1914完成)。
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿