山川登美子
大杉栄とその時代年表(555) 1905(明治38)年1月1日 与謝野晶子・山川登美子・増田雅子、「恋衣」(本郷書院)刊行。 評判が良く、2月に再版、10月に3版 より続く
1905(明治38)年
1月1日
与謝野晶子・山川登美子・増田雅子「恋衣」の項、前回からのつづき
前年(明治37年)夏頃、晶子・登美子・雅子合著の歌集を本郷書院から出す話が起ったが、「明星」9月号に晶子の詩「君死にたまふこと勿れ」が出て、輿論が沸騰しているときに、「恋衣」などという題の本を女子大学生が出すことには何等かの危険が予測された。
11月初め、その本の広告が「明星」に出た。
「山川登美子、増田雅子、与謝野晶子の三女史は、多年、新詩社の閏秀作家として、詩名夙(と)く『明星』紙上に顕れぬ。近時我国短詩壇の潮流いと新しきものあるは、実に女史等首唱の力多きに由れり。わが書院曩(さき)に『毒草』を出だししか、今また切に三女史に乞ひて此集を得たり。与謝野女史は既に二三の著あり。山川・増田二女史に至りては、この集を以て初めてその詩才を窺ふべし。
世を挙げて功利に趨り、未だ文芸の真価を知らず、書を読めりと称する者、往々猶偽善者道学者の口吻を以て詩歌美術を律せむとする時に当り、明峰繊指の人、熱意かばかり自家を語るを見るは、詩界の偉観なるのみならず、人間の栄誉、生命、まことに此に在るを悟るべきなり。」
この広告文が出ると、大学当局は強硬な態度でこれに臨み、登美子・雅子を停学処分にすることとなった。小浜からは登美子の父が上京し、「明星」同人で弁護士である露花平出修が鉄幹と共に奔走した結果、11月中頃にはどうにか解決した。
『恋衣』には、3人の歌の外に、晶子の「君死にたまふことなかれ」ほか5篇の詩も載せられた。この詩に対する批判はまだ続いていたが、この出版事件が解決したことによって、晶子は世に勝ったような気拝の昂まりを感じた。
歌よみて罪せられきと光ある今の世を見よ後の千とせに
師と友とわれとし読みてうなづかば足るべき集(しう)と智者(ちしや)達に言へ
と、登美子は停学処分への憤りの歌をよむ。
『恋衣』は師と晶子、雅子、自分が読んで、お互いにうなずき合えばよい集なのだから、とよむ。
『恋衣』の評判は良好で、2月に2版、10月に3版を出すことになる。
かつて、鉄幹におくった「あたらしくひらきましたる歌の道に君が名よびて死なんとぞ思ふ」という登美子の歌は、『恋衣』では「歌」が「詩」に、「よびて」が「讃へ」になっている。和歌を詩に止揚することを課題とする鉄幹の心が現われている。『恋衣』の登美子の歌は、多くが恋愛で、夫に死別した悲しみの歌は10首足らずである。
鉄幹は『明星』明治39年8月号に「ふたなさけ」という長詩を発表している。晶子、登美子への「ふたなさけ」は、ふたつながらに偽りでないという。また、『明星』廃刊2年後の明治42年3月刊行の第7歌集『相聞』に
常世物(とこよもの)はなたちばなを喚ぐ如し少時(しばし)絶えたる恋かへりきぬ
古歌(ふるうた)のきよき調を次ぐごとく昔の恋にまた蓮へるかな
を載せているが、これらの歌は登美子のことをよんだもの。
また登美子にはみずから薦める歌として、
みてづからひと葉つみませこのすみれ君おもひでのなさけこもれり
花さかばふたりかざしにさして見むこのすみれぐさ色はうつらじ
といったものがみられるが、登美子の恋歌は空想的なものが多く、必ずしも鉄幹にあてたものばかりとは限らない。
みいくさの艦(ふね)の帆づなに錨づなに召せや千すぢの魔もからむ髪
などは、登美子の弟、昌蔵の友人で海軍兵学校にいた土田数雄にあてたものといわれる。
かつて登美子は鉄幹にあて、
利鎌(とがま)もて刈らるともよし君が背の小草のかずにせめてにほはん
(『恋衣』では『明星』初出のときとは漢字などが訂正されている)
とうたったが、今はもっと積極的なうたいぶりである。
狂ふ子に狂へる馬の綱あたへ狂へる人に鞭とらしめむ
「狂う子」は登美子、「狂える人」は鉄幹。登美子はこらえきれない熱い情念に身をゆだね、狂える馬にまたがる。師もまた鞭をとりて、狂える馬を狂えるままに疾駆させよ、という。
こういう風体で実生活の感情をうちだすのが『明星』風なのである。
佐藤春夫の『晶子曼荼羅』では、晶子は2人の関係を知り、夫の薄情を怨み、登美子を呼び出して難詰したとあるが、これはまずないだろう。
そもそも晶子は、滝野という妻がいるのに鉄幹と一緒になった。また友である登美子の鉄幹への恋慕の心をも知っている。
もちろん、2人の関係を知って平気ではないだろうが、晶子のこのしっかりしたうたいぶりは、なみの女には真似のできるものではない。
恋ひぬべき人をわすれて相よりぬその不覚びとこの不覚びと
その後、登美子は肺を患い、明治40年2月、日本女子大学を退学し療養生活に入るが、42年4月15日、母に看取られながら29歳で没する。
登美子の残した悲痛な歌・・・
おつとせい氷に眠るさいはひを我も今知るおもしろきかな」
晶子は、
婿(せ)とわれと死にたる人と三人して甕(もたひ)の中に封じつること
とうたう。
背の君と自分と亡き登美子と三人して、あのことは墓の下に封じてしまおう、という。
単なる嫉妬ではこの歌はよめない。あの世へとわたる三人の固い精神共同体を守りきる晶子の毅然たる姿勢はけなげ美しい。
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿