2025年7月26日土曜日

大杉栄とその時代年表(567) 1905(明治38)年2月7日~13日 「二月十日(金)、『吾輩は猫である』(続編)を掲載した『ホトゝギス』(第八巻第五号)発行される。高浜虚子は「消息」に、「『吾輩は猫である』續篇は獨り量に於いて長篇たるのみならず、亦た質に於て大篇たり。文飾無きが如くにして而も句々洗練を経、平々の敍寫に似て而も薀藉する處深遠、這般の諷刺文は我文壇獨り評者を俟て之あるものといふべし。」と述べる。」(荒正人)

 

『吾輩は猫である』原稿の一部

大杉栄とその時代年表(566) 1905(明治38)年2月1日~6日 「或夜加藤氏は僕と社会主義論に夜を更かして、談偶々(たまたま)『直言』の事に及ぶや日く、今こそ反古同様の雑誌だが、必ず一度は大活動する時が来るよ、否大に為さねはならぬ時が来るよ、ソレを楽みにお互に苦労しやう、家の費用をどんなに節約しても、此雑誌の維持金ぐらゐ出して行くよ、但し今は活動の時でないから、筆も極めて柔かく行くのが後日『直言』を役に立たせる為に必要だ。同志は何んと誤解しても必ず成程サウであったかと首肯させる時が来る。当分は社会改良主義ぐらいに止めやう。 果然『直言』活動の時は来った。あゝ昨日までは同志の間にすら辛うじて其存在を認められた、微々たる一小雑誌『直言』は、此処に社会改良主義の仮面を去って、快なる故、日本社会主義の中央機関となったのだ。」(原霞外「『直言』活動の時」) より続く

1905(明治38)年

2月7日

浦賀ドック、300名ストライキ。

2月7日

米、サント・ドミンゴの財政管理。

2月8日

関西鉄道会社、奈良鉄道会社を合併。

2月10日

京釜鉄道開通式。

2月10日

『吾輩は猫である』(続篇、実質的には(二))〔『ホトゝギス』2月号(8巻5号)発表


「二月十日(金)、『吾輩は猫である』(続編)を掲載した『ホトゝギス』(第八巻第五号)発行される。高浜虚子は「消息」に、「『吾輩は猫である』續篇は獨り量に於いて長篇たるのみならず、亦た質に於て大篇たり。文飾無きが如くにして而も句々洗練を経、平々の敍寫に似て而も薀藉する處深遠、這般の諷刺文は我文壇獨り評者を俟て之あるものといふべし。」と述べる。」(荒正人、前掲書)

主人の中学校教師狆野苦沙弥(ちんのくしやみ)を訪れた教え子の水島寒月が「御閑なら御一所に散歩でもしませう。旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と誘うが、主人は旅順陥落よりも、寒月の話の中に出て来た「女連(おんなづれ)の身元を聞きたいと云ふ顔で」ためらっている。

その後、ようやく決心して立ち上がるが、あまり乗り気ではない

翌日の日記でも、

「寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついて居た。衣装は美しいが顔は頗(すこぶ)るまづい。何となくうちの猫に似てた。」

と書くだけで、日露戦争には触れていない。


主人に宛てた迷亭の年始状

古代のローマ人は日に二度も三度も宴会を開いたが、食後には必ず入浴し、そのあと食べたものをすべて嘔吐して「贅沢と衛生とを両立」させる秘法を案出していたと述べ、次のように主張する。

廿世紀(にじつせいき)の今日交通の頻繁、宴会の増加は申す迄もなく。軍国多事征露の第二年とも相成候折柄、吾人戦勝国の国民は、是非羅馬人に倣って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候事と自信致候。左もなくば切角の大国民も近き将来に於て悉く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃かに心痛罷りあり候

日本人が戦勝に浮かれ、「贅沢」な宴会を重ねていることを諷刺している。


迷亭の母からの手紙

主人の家を訪れた迷亭が、静岡から来た母の手紙のことを話す。

御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜と戦争が始まって若い人達が大変な辛苦をして御国の為に働らいて居るのに節季師走でもお正月の様に気楽に遊んで居ると書いてある。

- 僕はこれでも母の思ってる様に遊んぢや居ないやね - 其あとへ以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものゝ名前が列挙してあるのさ。其名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云ふ気が起ったよ。

迷亭は、その手紙を読んで人間の無常をしみじみと感じ、散歩に出たとき「首懸の松」を見て死のうと決心しするが、用事を思い出していったん帰宅し、再びやってくると、すでに首をくくっている人がいて、自分はくくりそこなったと語る。

日露戦争の死傷者の増加を知る漱石の暗い感慨がにじんでいる。


2月11日

軍政官神尾光臣少将、青泥窪(ダルニー)を大連と改称。

2月11日

森下南陽堂、「仁丹」発売。

2月11日

米上院、1904年末に米英仏独その他の列強間で締結の調停条約の修正案採択。調停はハーグの国際仲裁裁判所に委ねられるが、調停を委ねる手順の複雑化で調停条約を事実上無効にし自動調停機構の発動阻止目的。

2月12日

永沼挺進隊、長春南方鉄道爆破失敗。

午前2時、新開河西方4kmの袁家屯に到着。

午前2時30分、爆破行(目標:長春西南25kmの新開河鉄橋64m)に出発。

午前5時前、爆破。爆薬を外部に装着しただけのため破壊は橋脚に及ばず、13時間後に修復。兵舎攻撃で田村馬造少尉(22)戦死。ロシア側は挺身隊規模を過大評価し、3万を派出(奉天戦におけるロシア軍兵力に影響を与える)。また、講和条約に際しては、日本軍の長春進出を既成事実化させる。

2月12日

『直言』第2号発行。


社説「『新人』の国家宗教」(木下尚江)

海老名弾正の、日本魂が宇宙のロゴス(道)の発展であって将来はキリスト教の神子帝国を実現し、東洋民族を感化統合するという説を、帝国主義思想の発現として反駁。


幸徳秋水「露国革命の祖母」。

社会革命党エカテリーナ・ブレシコフスカヤの経歴を描く。秋水の認識上の矛盾(社会民主党ではなく、ナロードニキの社会革命党への共感・同情)が露呈している。

エカテリーナ・プレシコフスカヤは南部ロシアの貴族の出で当時61歳、若くして革命運動に加わり5年の懲役とシベリア終身流刑に処せられたが、脱走を企てて更に4年の刑を追加される。

1896年、欧露帰還を許されるや再び革命運動に復帰。

1902年、社会革命党組織に参画。その後、亡命。

1904年8月、アムステルダムの万国社会党大会には社会革命党の一代表として出席。

1905年、米国で故国の革命運動のために遊説し、数千ドルの応援寄附金を集めた。

秋水は、社会民主党が「工業的資本家制度の変遷し行く趨勢のみを見て、露国全体が猶ほ農業国であることを忘れ……否、農民は倶(とも)に革命を図るに足らぬと信じたらしい。斯くて彼等が……農民を度外視したのは勢力を得る能はざる所以で、明らか一の失策であった。そして彼等は此時、全然武力手段をも排斥して居た」と論ずる。

また政府の辛辣苛酷な迫害に対抗して「八〇年代の武力手段は又々採用せらるゝに決した。そして社会民主党の穏和なるに満足しないで、革命社会党は愈々(いよいよ)組織せられた。多数の青年は翕然(きゆうぜん)として之に赴き、……革命社会党中の有志は別に『戦闘団』なる一派を組織して暗殺を一手に引受け…‥斯くて革命社会党は、其創立日浅きにも拘らず、今や其勢力は燦原の勢ひを以て蔓延して居る」と述べた。

そして最後に、「鳴呼、如此き『祖母』を有する露国の社会主義者の前途は実に多望なる哉、遥かに彼女の健康を祈って叫ぶ、『露国革命の祖母』万歳!」と結ぶ。

秋水は「与露国社会党書」で、「諸君と我等は虚無党に非ず、テロリストに非ず、社会民主党也。」と論じた。

にもかかわらず「露国革命の祖母」では、往年の「人民の意志党」の伝統に則り、テロリズムをその綱領に採用し、その別働隊たる「戦闘団」は内相フォン・プレーヴェ、皇叔セルゲイ大公をはじめ政府の高官を暗殺した社会革命党に対し、明らかに社会民主党以上の同情を寄せ共感を現わしている

後に1917年のロシア大革命の際、はじめ日本の社会主義者の間にレーニンやポリシェヴィキ理論を知る者が殆ど無かった事実を想起すれば、平民社同人が当時、社会民主党と社会革命党との本質について深い知識を有せず、マルクス主義的解釈分析に欠けていたことは理解できる。


堺利彦「通俗社会主義」(第2号より13回連載)。

英国だけで85万部出版されたという社会主義者ロバート・プラッチフォードの名著『楽しき英国』(原題は Merrie England )の自由訳。社会主義の通俗的な解説書。平易流麗な堺の名文は原著の趣味豊かなる内容を伝えた。この年12月、由分社から『通俗社会主義』として刊行。

「平民日記」に、「安部磯雄君は相変らずマルクスの『資本論』の翻訳に従事して居ます、『こんな六かしい本を読んだ事がない……初めは一頁二時間位で出来る積りであったが、実際やつて見ると時としては一頁に五、六時間も費す事がある』との事……」とある。


2月13日

社会主義大演説会。中止解散。聴衆700。警官隊と乱闘。

2月13日

(漱石)

「二月十三日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。

本郷区駒込浅嘉町(現・文京区本駒込一、三丁目)へ花を買いに行く。留守に寺田寅彦来る。皆川正禧宛自筆水彩画に、「皆川さんは倫敦塔の様なものでなくては御気に入らないがと思つたら吾輩の様なのも分るえらいと猫は大喜悦に御座候。同じ駒込區内にかう云知己があれば町内の奴が野良と云ほうが馬鹿猫と申さうが構ふ事はないと満足の體に見えます。此猫は向三軒両隣の奴等が大嫌ださうです」と書く。

二月十四日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する」(荒正人、前掲書)


つづく

0 件のコメント: