1905(明治38)年
1月18日
仏、コンブ内閣総辞職。
1月19日
韓国、日本貨幣を法貨として国内に流通することを公認。
1月19日
この日、鴎外の母峰は観潮楼に不在の主人鴎外の誕生祝を開き、佐佐木信綱、上田敏、千葉鉱蔵、篤次郎、喜美子も会して、寄書を戦地の鴎外に贈った。
1月19日
(露暦1/6)午前11時、ペテルスブルク、キリスト洗礼祭(祝日)、礼砲に誤って実弾2発撃たれる。
午後2時、ガボン宅で支部代表者会議。1月22日(月)午後2時に冬宮広場でペテルスブルク全労働者が請願書を提出すること決定。
ボリシェヴィキ首都組織中心人物グーセフのレーニン宛手紙
「神父ガボンは・・・最高級のズバートフ派」「ガボンは大衆を革命化した」。
1月19日
ドイツ、ヴェストファーレン炭鉱地帯、21万5千、閉山反対ストライキ。
1月19日
北海事件国際査問会、英露米仏墺、パリ、第1回公開会議。2月25日に決定。
1月20日
平民社・松崎源吉、足尾銅山の労働同志会に招かれて講演会。~28日。
1月20日
(漱石)
「一月二十日(金)、晴。旅順陥落祝賀のため、大学は休講になる。午前十一時から午後四時まで、各教室を一般市民に開放する。(金子健二) 午後五時から構内で祝賀の宴がある。「九時運動場にて式あり 総長。東郷乃木両将の頒詞を讀み君が代を唱ひ、萬歳を唱ふ。」(「寺田寅彦日記」)
野間真綱と皆川正禧は、『倫敦搭』を褒めた便りを寄越す。(皆川正禧のは、一月二十日(金)以前だったかもしれない)」(荒正人、前掲書)
「一月二十日(金)から一月二十三日(月)まで、『読売新聞』に「文科大學 學生々活」(十八)として「漱石と柳村」四回に亘り掲載される。筆者はXYである。)」
「XYは、正宗白鳥と推定される。柳村は上田敏である。XYは上田敏に比べて、夏目漱石に少し甘すぎるようである。」(荒正人、前掲書)
1月20日
(露暦1/7)露、ペテルスブルク、プチーロフ工場スト4日目。328工場10万5千人参加。ゼネスト状況。
午後9時、メンシェヴィキ、全面的に行進参加決定。
司法大臣ムラヴィヨーフ、ガボン呼出し、決裂。
1月21日
(露暦1/8)露、ペテルスブルク、プチーロフ工場スト5日目。456工場11万1千人参加。
ガボン、ツァーリと内務大臣スヴァトポルク・ミルスキーに親書・請願書届ける。
午後、文化人150人集会。ゴーリキーら、内務大臣ヴィッテに陳情、不成功。
政府は、首都・ペテルゴフ・レーヴェリ・ブスコフの軍隊を集め、市内要所に阻止線を敷く(歩兵1万2千・コザック騎兵3千・警官5千)。
ツァールスコエ・セローのツァーリは戒厳令を命じるが、政府はこれを撤回させる。
1月21日
米・ドミニカ、議定書調印。米はドミニカの負債返済実現のため負債額と支払法を調整しドミニカ税関を管理下に。この措置はドミニカ保護領化でなくその意図もないと公式に言明。
1月22日
川村景明大将司令官、鴨緑江軍編成。
1月22日
外相小村寿太郎、駐米公使高平小五郎に対し講和問題に関する日本政府の意見を米大統領に伝えるよう訓令。韓国保護権・遼東租借権獲得、満州は清国に返還、一時の休戦にとどまる条件には反対。
1月22日
『平民新聞』第63号発行。
欄外に、「次号に注意せよ、読者諸君、願はくば本紙次号に注意せられよ、吾人は次号に於て、本紙の運命に関し、重大なる発表を為さんと欲す」と大書する。
「社会主義者に対する迫害とその効果」:政府に正面から抗議
1月22日
血の日曜日
(露暦1/9)ガボン率いる労働者2万(4万6千、6~7万とも)、四方からペテルブルク冬宮へ請願行進。軍隊発砲。死亡1千以上、負傷2千以上。
翌日、ロシア全都市で抗議スト。
「陛下、私たち労働者は、妻や子どもやよるべなき年老いた両親ともども、正義と保護を求めて陛下の御許に参りました。私たちは貧しくなり、苦しめられ、耐えがたい労働に打ちひしがれ、侮辱されています。私たちは人間として認められず、自分の運命に甘んじて押し黙っていなければならない奴隷と変わらぬ扱いを受けています。私たちは我慢してまいりました。しかし、私たちは、ますます貧困と無権利と無学のどん底に追いやられ、圧制と専横に押しつぶされ、あえいでいます。陛下! もうこれ以上は不可能です。我慢できる限界まできています。耐えがたい苦痛が続くぐらいなら死んだほうがましだという、あの恐ろしい時がやってきたのです。……
陛下、もし私たちの祈りを許容されず、それにお答えなられなかったら、私たちはここで、この広場で、陛下の宮殿の前で死ぬつもりです。他に私たちの行くべきところなどありません。行く必要もありません。私たちにはただ二つの道――自由と幸福への道か、墓場への道しかありません。陛下、おっしゃってください。そのどちらでも、たとえ死の道であろうとも、私たちは絶対に服従し、その道を進みましょう。私たちの命を、苦悩するロシアのいけにえとなしてください。私たちはこの犠牲をいといません。私たちは喜んで命を捧げましょう」(冬宮に行進したペテルブルク労働者の嘆願書より)
午前9時30分、ネヴァ支部隊、出発。
午前10時、ネヴァ河畔シリッセリブルク通りでコサック奇兵隊がネヴァ支部隊に空砲発砲、抜刀して追い立てる。労働者は東岸へ逃亡。
午前11時30分頃、ガヴァン支部・ヴァシリエフスキー支部隊がニコライ橋のたもとで騎兵隊に追立てられる。
正午、ナルヴァ支部隊に対してナルヴァ凱旋門近くで発砲。一斉射撃5回。死者45、負傷61。
午後1時、トロイツキー橋北で合流しようとしたペテルブルク支部・ヴィボルク支部隊2万に対して騎兵隊が一斉射撃3回。騎兵隊が攻撃、労働者は四散。
同時刻頃、冬宮前広場(東の歌手橋付近と西の海軍本部前アレクサンドル御苑前)に群衆が集り、皇帝とガボンの出現を待つ。
午後1時30分過ぎ、兵士が海軍本部前の群衆を排除始める。
午後2時、ガボン出現の予定時刻。現れず。近衛中隊が海軍本部前の群衆に発砲。騎兵が歌手橋前の群衆を蹴散らす。
午後3時頃、海軍本部前の群衆、排除され始める。中央での虐殺、死者不明(マリヤ病院だけで56人)。
この頃、西のヴァシリエフスキー支部は支部近くにバリケード構築。
午後4時過ぎ~5時、バリケード鎮圧。
犠牲者(官報)死者96・負傷333。(社会民主党ビラ)死者700、負傷1200。
ゴーリキー「全ロシア市民及び全世界の世論に訴える」。予め仕組まれた殺戮。
ガボン、落ち延びてゴーリキー宅を訪問。午後8時、ゴーリキーと共に自由経済協会での文化人グループの集会に参加。午後11時30頃、閉会しゴーリキー宅に戻り、労働者への訴えを書く。後、海外に逃亡。明石大佐の工作にも関係する。政府の手先とみなされ革命的社会主義者党により暗殺。
以後各地にストが広まりワルシャワでもスト参加者に軍が発砲。第1次ロシア革命の開始。
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿