1905(明治38)年
黒溝台前面「出城」の攻防。
午前5時、日本軍第8旅団・ロシア軍シベリア第1軍団、前進。
午前9時、右翼の後備第8旅団(岡見正美少将)、レーシ支隊に遭遇、進撃を阻止される。
その頃、ミシチェンコ騎兵団が三尖泡東に進出、第8師団の背後が危うくなり、第5師団(上田有澤中将)第21旅団(村山邦彦少将)が柳条口に向う。
午後、第8師団の状況悪化。右翼の後備第8旅団の一部が退却を始め、増援隊を派遣。中央隊は釘付け状態。ロシア軍の砲撃は蘇麻堡北西の第5連隊第2大隊(塚本芳郎少佐)と第31連隊第2大隊(蔵田安奈少佐)に集中、両隊は蘇麻堡に退却。蘇麻堡火災。消化するが、第5連隊長津川謙光大佐負傷。
午後3時、第5師団がロシア軍と遭遇。第5師団に背後を脅かされる形のレーシ隊は韮菜河に退却。南方ではミシチェンコ騎兵団のミシチェンコ中将負傷。
午後11時、蘇麻堡の北・西・南よりロシア軍が攻撃。西・南の日本軍は退却、北部は包囲される。
1月27日
大石真子(西村伊作の弟)、高畠素之ら、京都市社会主義談話会第1回会合開催。京都の社会主義者・『直言』読者の組織化を企図。
1月27日
「ストライキは、労働者の純粋に経済的な要求を掲げて始まった。しかし、だいぶ以前から、ロシアの政治的条件のもとでは、どんな大ストライキも政治的性格を帯びるのは不可避であった。このことは、屈辱的な戦争がひどく民心を揺り動かした後の今日では、とりわけよくあてはまる。イニシャチヴをとったのはわが社会民主主義組織である。社会民主主義組織は政治的要求を提出し、その周囲に大量のストライキ参加者を結集させることに成功した。この時、政治的アジテーターとして登場したのがガポン神父である。彼は、事態の発展を促進し、そこに彼独特の性格を付与した。この個性はまだ完全に明らかになっていないが、彼が最近の事件で果たした役割は完全に明らかである。ゲオルギー・ガポンが、意識的に無学な大衆の考えや気分に自らの見解を一致させたのか、それとも実際には、彼は自分で言っている以上ではなかったのか、いずれしても、彼は疑いもなくわれわれよりもこれらの大衆に近かった。しかし、この大いなる近さは、政治的目的や政治的闘争手段の明確さを犠牲にして達成されたものである。それゆえ、大衆を結集するわれわれの組織が点としてしか存在していなかった時に、ガポン神父はこれらの大衆を直接導くことができたのである。しかし同時に、まさにそれゆえ、この運動の内部には始めから内的矛盾が孕まれていた。彼は大衆をツァーリのもとに連れて行ったが、ツァーリに敵対させてしまった。彼は大衆を平和的デモに連れ出したが、革命に連れ出してしまった。彼が従えていた組織には数千の労働者が参加していた。この組織は、革命の中心として、数十万の大衆を自己の周りに結集することができた。しかし、この組織自身は己れの革命的性格を自覚しておらず、その革命的意味は隠されていた――まさにそれゆえ、数千の労働者を抱えたこの組織がガポン神父とともに労働者大衆の中に入ってくるやいなや、群衆という環で組織という鎖をつくり出す代わりに、未組織の群衆の中に溶解してしまったのである。ガポンと群衆――これこそ、1月9日の定式である。……
必要なのは、反乱が全国に波及し、ある共通の瞬間に全国で最高度の緊張に達することである。ペテルブルグからどんなに急速に伝わろうとも、それでも地方は今回立ち遅れた。百万人以上の大衆が全国で蜂起の準備を整えたとしても、――そしてこのことは、今なおわれわれの前で展開しているこの大衆的運動の状況が示していることなのだが――いっせいに立ち上がるためには組織が必要なのである。
現在の政治的条件下においては、この何十万もの人々を組織することは不可能である。しかし、今後全体を結びつける酵素となり、そして革命の瞬間には自己の周囲にこの数十万の人々を結集させるであろう組織をつくることはできる。
われわれのなすべきことは革命を組織することである。
われわれはこれまで、労働者をその階級闘争のために組織してきた。今やわが国には特殊な課題がある。それはもちろんのこと、最初からあったものではなく、これまでの活動から生まれてきたものである。それはすなわち、労働者の革命的カードルを組織することである。当面する明確な課題をもった、組織された労働者集団が必要である。その課題とは、大衆に蜂起の準備をさせ、蜂起時に自己の周囲に彼らを結集し、特定のスローガンのもとに蜂起に立ち上がることである。」(パルヴス「総括と展望」、『イスクラ』1905年1月27日号)
1月28日
朝、蘇麻堡攻撃のロシア軍の指揮に乱れが生じ、同士討ち・日本軍の反撃などにより被害甚大となる
(指示を待たずに突入した集成軍団第6連隊は、将校23・下士卒1500の兵力が将校17・下士卒651の死傷のほか、将校4・下士卒499の失踪を数え、将校2・下士卒350が残る全滅に等しい有様)。
午前8時前、第32連隊第2大隊(三村少佐)第6・8中隊が北西部のロシア軍を撃退。ロシア軍の大半は蘇麻堡から退却。
黒溝台合戦4日目のこの日、日本側が攻勢に転じる。
午前9時30分、村山支隊が佟二塁占領し西方の哈爾堡に向う。
午前10時30分、第5師団が柳条口攻略。
後3時、第5師団、柳条口西方の桃坨子攻略。
午後3時20分、第32連隊第2大隊第6中隊(中村好大尉)が蘇麻堡の残敵を処理。
1月28日
女性誌「ビー・ウールーズ」、女性のための文学賞「フェミナ賞」創設。
1月29日
黒溝台占領。ロシア軍退却、終結。
日本側戦死1,848、負傷7,249,捕虜227(全損害の56%が第8師団で、第8師団の4個連隊(5・31・17・32)は損傷率50%前後)。ロシア側戦死641、負傷8,989、失踪1,113。
つづく

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