2025年7月18日金曜日

大杉栄とその時代年表(559) 1905(明治38)年1月11日~17日 1月16日 (露暦1/3)プチーロフ工場全員1万2800人スト 2日目(17日)機械造船フランス=ロシア工場2千、連帯スト 3日目(18日)。大企業ネヴァ造船6千人含む4工場が連帯スト リベラル派は資金、エスエルは爆弾の提供をガボンに約束

 

ガボン

大杉栄とその時代年表(558) 1905(明治38)年1月6日~10日 「爾来、条約は改正せられ内地雑居は許され内外の事情急速の進歩をとげたるにかかはらず、教育界の思想は依然たる旧態なり。サスガに文部省においても漸次その陋見を棄てんと苦慮しつゝあり、而して枢密顧問官の連署を以て文部省編纂の修身書を弾劾せる建議書出づ、如何に国家偶像の旧思想が牢乎として抜く可らざるかは・・・該建議書によって明白なり。 平民新聞の議論は、この『国家』の陋見より教育界を救はんと欲せる也。・・・何の朝憲紊乱か是れあらん。」(木下尚江「朝憲紊乱とは何ぞ」) より続く

1905(明治38)年

1月11日

巡洋艦「新高」、中時名、台湾、フィリピン方面巡航し、佐世保戻り。

1月11日

「平民新聞」第52号事件(「小学教師に告ぐ」)、控訴審判決。第1審に同じ(但し、1審判決の「犯罪供用の器械は之を没収す」を取り消し、国光社所有の16ページ印刷器械を没収する旨と特定した)。

大審院に上告。

2月23日大審院、上告棄却。

2月28日、幸徳・西川、下獄。

上告趣意書のポイント

(1)現時の教育界を支配する思想は国家を以て人生終局の目的と独断するもので、古来暴虐の君主宰相はかかる独断論を以て人民を圧制して来た。問題の論文はかかる偏頗頑陋を啓発せんとしたものだ。

(2)財産私有制度と階級制度との全廃が、何故に国家を根底から顚覆するものなのか。国家存立の根本義は国民均等の幸福にある。しかるに社会の現状は貧富の懸隔ますます甚だしく、増殖する社会の富が少数資本家の手に帰して為めに多数人民の生存を保つ能わないのは、一に私有財産制度の結果である。経済上の資本家階級、政治上の華族階級のごときは之を廃止することによって国家の正義、国民の幸福は増進こそすれ、国家を毀害する理由は何処にあろうか。

(3)原判決は「全篇の記事は要するに主権を無視し、憲法を蹂躙して国家を廃滅に帰せしむる行動を煽動」したものとするが、該記事は社会国家の弊害を改革するの必要を説き、改革運動に対する教育家の自覚発奮を促したもので、原判決のいわゆる「国家と両立すべからざる社会主義なるものを実現せしむる改革方法」については、何等言及していない。

(4)社会主義思想の範囲は国家より広くかつ大である。独り社会主義のみならず、一般倫理の対象もまた国家を超越する。もし国家よりも大なる社会主義の主張が、国家と両立せずとして非難する者があれば、それは国家の実質も歴史も発展の趨勢をも認識せざる者といわざるを得ない。私有財産制度の是非正邪を議論することは、国法の未だ干与すべき範囲にあらざるが如く、現在国家の欠点を指摘評論し、従ってまたその改善発展の必要を促すの動作は、国法の未だ干与すべき範囲ではない。原判決は、被告等を以て憲法法律の改正を企つるものでなく直ちに暴戻なる行動を奨励するものと予断し、一種偏僻の国家観を標準とした結果といわねはならぬ。(大意)


1月11日

(漱石)

「一月十一日(水)、『吾輩は猫である』の続篇を脱稿する。(一月三日(火)以後執筆したと思われる。(内田道雄))これは、最初のものより三倍以上に長い。」(荒正人、前掲書)


1月11日

佐々木喜善が大杉栄(20)に葉書を出す

1月12日

(露暦12/30)ロシア、カフカース、バクー、採油所労働者大闘争。資本家の大幅譲歩、9時間労働などロシア労働運動史上初団体協約締結

1月13日

乃木大将、幕僚を従えて旧市街に入り、入城式。

1月13日

米、清国の領土保全と機会均等などを英仏独伊などに要請。

1月13日

「平民社」大演説会。聴衆700。神田YMCA。幸徳・西川は中止なし、木下・田添・松崎には中止命令。

「三十八年一月十三日の夜には、神田のYMCAに大演説会が開かれ聴衆七百余名を算した。当夜は幸徳も西川も中止の命をうけず無事演了し、聴衆のなかに「二人とも近々入獄するから警察もお別れだと思って、中止を遠慮したのだろう」と評する者もあった。だが木下、田添、松崎の三人は中止、記者は「既に三人に中止を命ぜり豈解散なかるぺけんやとでも云ふのか、警部は会主を呼んで直ちに解散を命じた。……当夜、演説を聞かうと云ふ考へで入口まで来た婦人が十一名あった」と記している。これは珍しい現象であったが、婦人は治安警察法によって政談演説を聞くことを禁ぜられていたから、警官に追払われてしまったこと勿論である。」荒畑寒村『平民社時代』)

1月14日

福田赳夫、誕生。群馬県

1月14日

ロシア旅順守備隊司令官ステッセル中将、長崎港着。賓客待遇で滞在。捕虜組将官は名古屋(本願寺西別院)収容。

17日、ステッセル中将はフランス艦で本国帰国。

1月14日

(漱石)

「一月十四日(土)、雨後晴。夜、寺田寅彦来る。松坂煎餅を出す。Ssudio 見せる。

一月十五日(日)、晴。野間真綱宛絵葉書(自筆水彩画)に、「昔し大變な罪悪を冒して其後悉皆心却して居たのを枕元の壁に掲示の様に張りつけられて大閉口をした夢を見た。何でも其罪悪は人殺しか何かした事であった。」と書く。」(荒正人、前掲書)

1月15日

第3軍、北上開始。

1月15日

『平民新聞』第62号発行

木下尚江「朝憲紊乱とは何ぞ」(第52号裁判控訴審弁論)。

婦人の政治的自由獲得請願署名運動の趣意書を掲載(世話役は今井朝子・川村春子・松岡文子。衆議院議員江原素六・島田三郎の紹介で衆議院で提出。請願委員会~本会議通過。)。

1月15日

曹洞宗「宗報」第914号に「免住職・宗費怠納(十二月廿六日)石川一禎」と懲戒処分、告示。滞納額113円余。大部分は啄木の上京費用に充てられる。

1月15日

漱石『カーライル博物館』(『学燈』1月号)発行           

1月15日

(露暦1/2)ロシア、ガボン組合緊急支部代表者会議。ストライキ決定。仲間の復職、強圧的な職長の追放要求決定。社会民主党は演説もビラまきも出来ず。


〈「血の日曜日」前の状況〉

ペテルブルクの工場労働者数約18万(プチロフ工場、ネヴァ造船、陸軍省ペテルブルク鋼管、海軍工廠オブーロフ工場、バルト造船など)。ガボン組合が労働者を組織。ガボンは労働者相互扶助組合を組織するが宗務院に認められず、孤児院教会正司教となる(キリスト教的社会運動家)。

1902年秋モスクワ保安部長官ズバートフがペテルブルクに転勤、モスクワで成果をあげた警察主導の御用組合(ズバートフ組合)を組織するためガボンと接触。1903年8月、内相プレーヴェがズバートフを罷免。

ガボンが労働組合結成に動く。日露開戦前、ヴィボルグ地区に労働者クラブを開き、開戦後、これが労働組合に組織替え。以降、プチロフ工場近くにナルヴァ支部、バルト造船があるヴァシリーエフ島支部とその隣接のガヴァン支部、ネヴァ造船近くのネヴァ支部など1904年中に支部11・人員1万の組合が組織。

1月に入り、プチロフ工場労働者の集会参加を理由とした解雇事件が発生する。ガボンは非暴力の合法的な組合指導者であるが、ツァーリ権力が「血の日曜日」を演出することで、ガボンを含む労働者をより革命的に先鋭化させることになる。


1月15日

ブリュッセル、第2インターナショナル執行委員会、日本の社会主義者に対する同情決議。フランス社会党(ジョレス派)ジャン・ロンゲ提案。

1月16日

伊藤整、誕生。北海道松前郡炭焼沢村。父昌整は広島県三次出身で、日清戦争に出征した後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡る。任地で結婚、土着して小学校の代用教員となる。日露戦争に従軍後、塩谷村(現在の小樽市塩谷町)の役場につとめ、同村に一家をかまえる。

1月16日

私立仏教大学、専門学校令により設立認可。龍谷大学の前身。

1月16日

(露暦1/3)ロシア、ペテルスブルク、プチーロフ工場、朝8時迄に全員1万2800人スト。改めて12項目要求纏める(仲間の復職、「8時間労働制」「労働者委員会設置」、雑役夫(婦)の最低賃金、託児所設置、衛生状態改善など)。

2日目(17日)。連帯スト呼掛けるオルグ団。午後、機械造船フランス=ロシア工場2千、連帯スト。

3日目(18日)。大企業ネヴァ造船6千人含む4工場が連帯スト。政治的要求(憲法制定会議、市民的自由保障、戦争中止など)を含む請願書作成。リベラル派は資金、エスエルは爆弾の提供をガボンに約束。

1月17日

(漱石)

「一月十七日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで、 Hamlet を講義する。『読売新聞』に数日前から連載の「文科大學 學生々活」を取りあげて、学生に警告する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

一月十八日(水)、橋口清苑に自筆水彩画絵葉書の肩に俳体詩を書いておくる。

一月十九日(木)、晴。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで、「英文学概説」を講義する。

野間真綱宛絵葉書(自筆水彩画)に、『倫敦塔』の礼を述べ、「時間さへあれば僕も稀世の第(ママ)文豪になるのだが。」と書く。(小宮豊隆)」(荒正人、前掲書)

つづく

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