2025年8月13日水曜日

大杉栄とその時代年表(585) 1905(明治38)年5月27日 日本海海戦② 午後2時20分、旗艦「スヴォーロフ」のマストは折れ煙突は砕かれ火につつまれる。「オスラービャ」は蜂の巣の状況、左舷12度に傾く。 2時24分、「スヴォーロフ」司令塔塔蓋下に1弾命中。司令長官ロジェストヴェンスキー中将・参謀長クロング大佐ら負傷。甲板は火に覆われ戦闘行動の自由を奪われる。時刻は2時26分(戦闘開始後18分)。

 

ロシア艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された。

大杉栄とその時代年表(584) 1905(明治38)年5月26日~27日 日本海海戦① 26日午前0時5分、三井物産上海支店長より大本営海軍部に情報。「25日夕刻、ロシア巡洋艦・運搬船が出現し運搬船のみ上海入港」 この情報により、バルチック艦隊が東シナ海にあり、津軽海峡周りでウラジオに向うとの説を否定させる。輸送船が本隊と離れたということは、以後、艦隊は給炭ができないので、敵は最短の日本海を抜ける対馬ルートを行くことを物語っている。 より続く

1905(明治38)年

5月27日

午前2時45分、九州西方海域にて第3艦隊第6戦隊哨戒艦「信濃丸」(成川揆大佐)、ロシア艦隊(病院船「アリョール」と艦隊右翼列)の灯火を発見、信濃丸側は「アリョール」が汽船としか確認できなかったため、月明かりを利用して判別するために大きく回りこんで接近。

午前4時40分、300mまで近づいて病院船と確認して臨検をしようとした

午前4時45分、夜が明けつつあり、距離1,500m以内に航行中の艦影・煤煙を多数視認し、脱出を試みつつ、「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」を打電。

4時50分、「敵ノ第二艦隊見ユ」「敵ハ対馬東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ」を打電。

「信濃丸」は脱出に成功し、一度はバルチック艦隊を見失うが、再度発見して接触を保った。

また、近くの第4警戒線(中通島辺りから巨文島辺りを結んだ線)で哨戒任務に当たっていた第3戦隊と、「和泉」、「秋津洲」は信濃丸の電信を受けバルチック艦隊への触接のために動き出した。

5時5分、対馬尾崎湾の第3艦隊旗艦「厳島」が「信濃丸」電を転送し、連合艦隊主力にキャッチされる。

5時10分、東郷司令官は「三笠」艦長伊地知彦次郎大佐に出向命令、大本営に打電「・・・本日天気晴朗ナレドモ波高シ」(実際は霧と大波が戦場を覆う)。

6時、「三笠」・第2艦隊(上村彦之丞中将)・第3艦隊、夫々出港。

6時34分、「三笠」が加徳水道に入り、第1・2艦隊と合流。計45隻。

午前6時45分、第6戦隊巡洋艦「和泉」(石田一郎大佐)、ロシア艦隊右翼列に接近・追尾。巡洋艦「ナヒーモフ」・旗艦「スヴォーロフ」は「和泉」を視認。「和泉」は艦隊進路・陣形打電。

7時過ぎ、「信濃丸」は近づいてきたバルチック艦隊の駆逐艦を避けるための行動中、さらに他に煤煙を認めたためバルチック艦隊と離れて調査に向かう。「和泉」はバルチック艦隊の右側で並航しそのまま7時間に亘り敵の位置や方向を無線で通報し続ける。

「信濃丸」は夜間とはいえ危険を冒してロシア艦隊に並航し観測を行い電波を発射し続けていたが、バルチック艦隊からは発見されなかった。

7時10分、「三笠」加徳水道を出て韓崎沖に向う。

7時28分、「三笠」が「和泉」電を傍受。第3戦隊(出羽重遠中将)は敵艦隊よりも南に位置しているため、反転。

午前9時55分、第3艦隊(片岡七郎中将)、対馬南端・神埼沖で南方に煤煙発見、片岡中将は第5艦隊に北上を命令し、確認に向う。

10時、第3艦隊第5戦隊、バルチック艦隊発見、接触行を開始。

10時20分、第3艦隊旗艦「厳島」、バルチック艦隊との接触第1報を「三笠」に打電。

10時30分、第3戦隊も加わりバルチック艦隊の左真横について敵情報告を始める。

午前10時45分、第3戦隊(出羽重遠中将)、対馬・神崎南25kmでロシア艦隊発見、同航。第3艦隊主力の後方の位置。

午前10時50分、「三笠」では「和泉」情報で敵艦隊の勢力・陣形を知り、早めの昼食をとり、11時55分、全員を甲板の集合させて訓示。

11時42分頃、旗艦「スヴォーロフ」の掲げた「和泉」との距離を示す旗旒信号を発砲命令と誤認した後続の諸艦(戦艦「オリョール」他)が第3戦隊(出羽戦隊)に向け砲撃。第3戦隊は16ノットに増速し砲撃を返しつつ距離を離す。やがてロジェストヴェンスキーが発砲を中止させ日本側もやめる。双方に1発の命中弾もなし。第3戦隊は再び近づき、徐々に減速しながらバルチック艦隊の前に出る。

午後0時34分、第3艦隊第6戦隊旗艦・巡洋艦「須磨」より敵艦隊の同行入電。第3戦隊旗艦「笠置」・第3艦隊旗艦「厳島」らの情報を総合し、東郷大将は、敵艦隊が沖之島西側を指向していると判断し、「三笠」の進路を変更。

午後1時、バルチック艦隊は縦列隊形で北東進。日本側はこれを完全に捕捉。右前方には第3戦隊、左前方には第3艦隊主力の第5戦隊と第6戦隊が2列で航進。視野外には連合艦隊主力(第1艦隊第1戦隊・第2艦隊第2戦隊計12隻)が急行。その後方には、第2艦隊第4戦隊が続く。

午後1時20分、ロジェストヴェンスキー中将、単縦陣を構築する命令。

午後1時39分、東郷司令長官指揮主力艦隊、バルチック艦隊発見。

1時40分、「三笠」は敵艦隊の風上に占位するため進路変更(直進を改め、右に大きく変針し北西微北へ向かう)。

同時刻頃、バルチック艦隊はまだ戦闘陣形をとれずにいる。旗艦「スヴォーロフ」参謀セミョーノフ中佐が、日本の第1艦隊第6戦隊6隻が目の前を横切るのを眺める。

午後1時53分、旗艦「三笠」のマストに信号旗「Z」がのぼり、下される。

(電報; 「日本海海戦の初め敵を発見したる後午後一時五十五分視界海内にある我か全艦隊に対し「皇国の興廃此の一戦にあり各員一層奮励努力せよ」の信号を掲揚せり」)

1時55分、「三笠」は敵に接近するため進路を西に戻す。

1時57分、「三笠」よりバルチック艦隊を視認。距離1万m。

午後2時2分、東郷大将は、バルチック艦隊に連合艦隊が「反航通過」すると思わせるべく、進路を「南五六度西」に変更。北東に進むバルチック艦隊の西側を逆方向に並進する形になる。

(ロシア艦隊と遭遇した日本艦隊の主力は「二時二分南西微南に変針し、先つ敵に対し反航通過するか如く装ひ、同五分に至り急に東北東に変針し、以て今や南微東に方り」、敵から8,000メートル離れた状態で「敵の先頭を斜に圧迫」した( 『明治三十七八年海戦史』))

午後2時5分、ロシア艦隊を南微東に距離8,000mで反航路で臨んだ時、東郷は急転回での左回頭(=取舵一杯)を命じる。

2時7分、先頭の「三笠」は回頭を終え東北東へ定針。

海戦図に拠れば回頭後の「三笠」は右横ほぼ正面に第1戦艦隊旗艦「スヴォーロフ」を望み、連合艦隊は基本戦策通りの有利な並航の形を開始

(連合艦隊は直前まで大回頭・並航戦開始の気配を見せず、バルチック艦隊側は単純な反航戦しか予期できなかった。)

2時8分、「三笠」に続く「敷島」が東北東に定針した。これを見て、単縦陣形(未完成)のバルチック艦隊の戦艦「スヴォーロフ」が「三笠」に砲撃開始。各艦も続く(第1戦隊は「三笠」に照準を合わせるが、第2戦隊は勝手に砲撃)。この頃、東郷大将は、戦場の北部を東進中の第3艦隊司令長官片岡中将に第5・6戦隊に敵の後部に対する攻撃を命令。

午後2時10分、「三笠」に6インチ砲弾命中、無線電信垂直線を切断。距離6,400m。連合艦隊、一斉砲撃開始。「三笠」は「スヴォーロフ」を、2番艦「敷島」は「オスラービャ」を砲撃。3本煙突の「オスラービャ」に砲撃集中。

バルチック艦隊は、不利な体勢のために、実際には全力砲撃を行えなかった。「スヴォーロフ」から見ると「三笠」は左前方約30度に位置したため後部砲塔の砲を向けることができず、第1戦艦隊隊列後方の艦も距離が遠すぎた。第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」は不利な位置体勢を改めようとして、速度を落とし右に蛇行し、第1戦艦隊殿艦「オリョール」の後ろへ付こうとする最中だった。

第2戦隊も第1戦隊の後に続き反航路を進んでいた、2時15分から同様に大回頭を始め、第1戦隊のすぐ後ろに付き単縦陣を作り、以後30分間、基本戦策通りに共同で並航戦砲撃を行った。

2時11分、回頭を終えた3番館「富士」が距離6,200で「オスラービャ」を砲撃。

2時12分、4番艦「朝日」が距離7000mで「スヴォーロフ」砲撃。5番艦「春日」が距離5,800mで「オスラービャ」砲撃。回頭していない「磐手」(第2戦隊最後尾)も距離8,500で「オスラービャ」砲撃。

2時15分、6番艦「日進」(第1戦隊最後尾)が距離5800で「オスラービャ」砲撃。「出雲」(第2戦隊1番艦)も距離8000メートルで「オスラービャ」砲撃。2番艦「吾妻」は「スヴォーロフ」砲撃。

2時17分、3番艦「常盤」は距離5500で「オスラービャ」砲撃。

2時20分、4番艦「八雲」・5番艦「浅間」は「オスラービャ」砲撃。最後尾「磐手」は敵第3戦隊先頭「ニコライ1世」砲撃に変更。

以上のように、連合艦隊主力12隻が2時7分~20分の13分間に敵前で回頭し、斜め右後方のバルチック艦隊を砲撃。日本の砲撃は「オスラービャ」に集中。「三笠」は12発被弾。その他の日本艦船は被弾なし。

午後2時20分旗艦「スヴォーロフ」のマストは折れ煙突は砕かれ火につつまれる「オスラービャ」は蜂の巣の状況、左舷12度に傾く。「アレクサンドル3世」「ボロジノ」「アリョール」も火煙に包まれる。

2時24分、「スヴォーロフ」司令塔塔蓋下に1弾命中。司令長官ロジェストヴェンスキー中将・参謀長クロング大佐ら負傷。甲板は火に覆われ羅針盤破壊・舵機損傷し戦闘行動の自由を奪われる。時刻は2時26分(戦闘開始後18分)


ロシア海軍中佐ウラジーミル・セメヨーノフ「対馬沖海戦」(『極秘 明治三十七八年海戦史』収録)によると、


日本艦隊は突然、ロシア艦隊の目前で左に回頭した。これを見たロシア側は次のような声を挙げ、感想を抱いた。

  「見よ見よこりや何たらうか彼等は何をして居るのたらうか」

  「ああこりや馬鹿なことをして居る、それては嚮導艦(きょうとうかん)から順繰に打沈めてやれ」

  「余もまた心中『占めたり』と考へ明に東郷は何物かを不意に思付く所あり為めに此の如き奇激の決心を執りたるものと思惟せり」

  「甘く行けは仕合せなり…撃沈とまては行かすとも僅一隻たりとも戦列を離れしめなは…さあさてどーなるものか…」

(「嚮導艦」は艦隊の先頭にたって進む船で、東郷平八郎長官が乗っている戦艦「三笠」)のこと)

しかし日本海軍の砲弾が命中した旗艦「スヴォーロフ」は火焔に包まれ、ロジェストヴェンスキー提督やセメヨーノフ中佐ら多数が負傷した。

午後2時30頃の状況。

バルチック艦隊は9ノットで北東の航進。その前方を連合艦隊主力12隻が単縦形で西から東に進む。速度15ノットの優足を利用して、敵と丁字型をつくりその頭を押えるのが連合艦隊の戦術。

連合艦隊は、「三笠」が22弾被弾・戦死傷100人、「富士」「朝日」は無傷。他艦は1発ずつ被弾。第2戦隊5番艦「浅間」のみ被害甚大(艦長寝室に被弾、前艦橋の舵輪動かず。列外に出るが、他艦を見失い孤立して集中弾を浴びる)。


つづく

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