1905(明治38)年
5月28日 日本海海戦④
夜明け前、連合艦隊主力(第1・2・4・5・6戦隊)は北進、鬱陵島付近でウラジオめざすバルチック艦隊迎撃する作戦。
バルチック艦隊は、①北行部隊、②退避部隊、③逃散部隊に別れ、ウラジオを目指すのは15隻のみ。
午前4時42分、夜明け。
午前5時25分、第5戦隊「巌島」ら、ウラジオへ向うネボガトフ少将指揮ロシア残存艦船「ニコライ1世」「オリョール」ら5隻を発見。
5時45分、瓜生外吉中将の第4戦隊・東郷正路少将の第6戦隊も発見。
同じく夜明けごろ、出羽が移乗した「千歳」は北上の際に単艦で行動していた駆逐艦「ベズプリョーチヌイ」と遭遇し、居合わせた駆逐艦「有明」とともにこれを攻撃、撃沈する。
午前6時5分、「三笠」は第4戦隊に敵艦隊との接触を命じ、南方へ転進。
午前6時30分頃、「信濃丸」ら3隻、沖島北東で戦艦「シソイ・ウェリーキー」発見。
7時20分、降伏意思表示。成川大佐は山田虎雄中尉以下31人を派遣し「台南丸」「八幡丸」に救命ボートを準備させる。乗員613、日本艦に収容。8時30分、マスト上桁に軍艦旗を掲揚し、捕獲宣言。11時2分、沈没。
午前7時、第4戦隊巡洋艦「音羽」「新高」、巡洋艦「スヴェトラーナ」・駆逐艦「ブイストルイ」を追撃。
午前9時、巡洋艦「アドミラル・ナヒモフ」、駆逐艦「不知火」に接近を知り自爆。仮装巡洋艦「佐渡丸」、「ナヒモフ」乗組員523救助、他101は対馬・茂木海岸上陸。
午前9時頃、「スヴェトローナ」はウラジオ行きをあきらめ朝鮮半島側に進路を変える。
10時、音羽隊の砲撃により「スヴェトローナ」は運動の自由を失い蛇行始めるが、勇戦し「音羽」に戦死4・負傷19の損害を与える。
10時34分、ネボガトフの指示により「ニコライ1世」は白い旗を掲揚し降伏の意を示したが、戦時国際法で必要な機関停止をしていなかったため、連合艦隊は砲撃を続けた。10時53分にネボガトフも機関を停止しなければならないことに気づき、機関は停止された。連合艦隊もこれを受けて砲撃を中止した。日本側は第1・第2戦隊の各艦がこの4隻の捕獲に当たる。しかし「ニコライ1世」の前方を進んでいた「イズムルート」はこれに従わず、東方へ逃走。東から大きく迂回してウラジオストクに向かう、ロシア沿岸で座礁して爆破の上放棄される。
10時36分、「春日」が「アリョール」に対して試射すると第2戦隊も一斉砲撃。「アリョール」も応射。
10時40分、「ブルストルイ」が逃亡し、「新高」がこれを追跡。「音羽」は黒煙に覆われた「スヴェトローナ」を距離1千で継続砲撃。
11時6分、巡洋艦「スヴェトラーナ」沈没。死者170・救出291。「ブイストルイ」は、朝鮮海岸に座礁させ乗員脱出後に爆破処分、乗員は山中逃亡するが全員捕虜。
午前11時20分、駆逐艦「不知火」、駆逐艦「グロムキー」を蔚山に追詰める。「不知火」と第20艇隊水雷艇第63号が「グロムキー」を攻撃するが、果敢に反撃。
午後0時4分、「グロムキー」は殆どの砲を破壊され、砲弾も撃ちつくし、旋回状態に入ったため、艦長は総員退去を命令。艦長戦死、自沈。乗組員54救助。
午前11時53分、連合艦隊主力は「ネボガトフ隊」を包囲、受降手続きを進め、東郷大将は参謀秋山中佐を軍使として派遣。 (既述)
午後1時37分、ネボガトフ少将と幕僚達、水雷艇「雉」で「三笠」に到着。
午後2時、装甲巡洋艦「磐手」(第2艦隊司令長官島村速雄少将坐乗)、「八雲」、海防装甲艦「アドミラル・ウシャーコフ」発見、降伏拒否、交戦。
午後2時30分、「佐渡丸」に追われた装甲巡洋艦「ウラジミール・モノマフ」沈没。乗員406は「満州丸」に収容。
午後2時30分、ロジェストヴェンスキー長官・幕僚、「ブイヌイ」より更に駆逐艦「ベドウィ」に移乗。駆逐艦「グロズヌイ」とウラジオに向う。「ブイヌイ」は巡洋艦「D・ドンスコイ」により撃沈。
午後3時、鬱陵島南東で駆逐艦「漣」「陽炎」に発見される。「ベドウィ」は降伏を決意。
4時45分、「漣」「陽炎」は距離3千で「ベドウィ」を砲撃。「ベドウィ」は応戦せず、赤十字旗を掲げる。「陽炎」は逃走した「グロズヌイ」を追尾し、「漣」は「ベドウィ」に接近し、5時15分、伊藤中尉ら8人を派遣。ロジェストヴェンスキー中将発見。重傷のため動かせずと主張するため、「ベドウィ」を蔚山に連行することにする。
午後4時30分、「磐手隊」、海防装甲艦「ウシャコフ」を発見、
5時10分、距離1万5千mにつめる。ネボガトフ降伏を万国信号旗で伝えるが、5時25分、「ウシャコフ」は砲撃を開始。午後6時10分、自沈。艦長以下83戦死、漂流339収容。
午後5時50分頃、装甲巡洋艦「ドミトリー(D)・ドンスコイ」(「オスラビア」「ブイヌイ」から救助した乗組員270乗船)、第4戦隊(第4・2駆逐隊5隻が随行)に発見され追跡される。6時45分、「音羽」「新高」にも発見される。7時12分、鬱陵島南で「音羽隊」が追いつき距離6千で砲撃。ついで「新高」、7時40分には第4戦隊も発砲。第4戦隊先頭「浪速」は被弾・浸水し避退。8時23分、「音羽隊」は視認できず砲撃中止。かわって駆逐艦4隻が攻撃。戦死80。「ドンスコイ」艦長は日本艦隊の攻撃後、乗員を鬱陵島に上陸させ自沈。翌日、捕虜。
午後7時45分、第1戦隊、捕獲船「ニコライ1世」「アリョール」を引率して戦場を離脱、佐世保に向う。
午後9時、装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒモフ」沈没。乗員523、「佐渡丸」に収容。101は対馬琴村の茂木海岸上陸。琴村村民、丁重に介抱。
午後9時35分、第2戦隊は「アプラクシン」「セニャーウィン」を率い佐世保に向う。
27日夜、一等巡洋艦「オレーク」、「アヴローラ」、二等巡洋艦「ジェムチュク」、駆逐艦「ボードルイ」、「ブレスチャーシチー」の5隻はまとまって航行していたが、途中でウラジオストクへの直行をあきらめ南シナ海方面へ戻る。しかし「ブレスチャーシチー」は前日の被弾が原因で28日朝に沈没し、「ボードルイ」がその乗員を救助するが、「ボードルイ」は「オレーク」などとは再合流できなかった。
「オレーク」など3隻は6月3日にマニラへ入港してアメリカに抑留された。「ボードルイ」は燃料の欠乏により数日間漂流していたが、イギリス船に曳航を依頼して6月4日、上海へ入港して清に抑留された。
輸送船「スヴィーリ」は5月29日に、水雷母艦「コレーヤ」は5月30日に上海へ入港して清に抑留された。
輸送船「イルツイシ」は損害のため島根県沖まで逃れ、28日に船は放棄され29日朝に沈没。輸送船「アナディリ」は消息不明となっていたが6月27日にマダガスカル島へ到着し、そのまま本国へ戻っている。
バルチック艦隊はこの海戦によって戦力のほぼ全てを失った。ウラジオストクに到着したのは「陽炎」の追跡を振り切って30日に到着した「グローズヌイ」と、28日以降日本側に発見されなかった二等巡洋艦「アルマース」(29日到着)、駆逐艦「ブラーヴイ」(30日到着)の3隻のみ。
病院船「オリョール」と「コストローマ」は臨検の結果、「オリョール」に「オールドハミヤ」の乗員4名が拘留されていたことによって条約違反とされ、「オリョール」は拿捕されて「楠保丸」として日本海軍に編入された。「コストローマ」は問題が無かったため解放されて本国へ帰還している。
バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻。自沈を含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留6隻(ウラジオ着3隻)。兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名(捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれている)。
連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名。大艦隊同士の艦隊決戦としては史上稀に見る一方的勝利。
6,000名以上の捕虜は、多くが乗艦の沈没により海に投げ出されたが、日本軍の救助活動によって救命された。また自沈後に鬱陵島に上陸したり、対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも多く、各地の住民に保護された。
(28日、島根県石見江津市、運搬船「イルトゥイシ」乗員200余上陸。山口県阿武郡見島、工作船「カムチャッカ」乗員55上陸。)
日本は戦時国際法に忠実であり、国際社会に日本は文明国であるとアピールするためにも戦時法遵守が末端の小艇の水兵にまで徹底されていた。捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国した。
負傷し捕虜となったロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。ロジェストヴェンスキーは回復して帰国し、1906年軍法会議にかけられたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、無罪となり60歳まで生きた。
捕虜のうち、将校は、中将ロジェストヴェンスキー、少将ネボガトフ以下307名。階級別では、大佐4名、中佐16名、大尉74名、少尉92名、少尉候補生1名、不明119名である。本海戦の捕虜は、佐世保・舞鶴に上陸後、将校は似島、下士卒は大里で検疫を受け、中継収容所を経て、将校は松山(軽傷者扱いのみ)、仙台、金沢、伏見、大阪へ、下士卒は九州の福岡、久留米、熊本で収容された。
つづく

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