2025年8月17日日曜日

大杉栄とその時代年表(589) 1905(明治38)年6月1日~8日 高平小五郎駐米公使、小村寿太郎外相の訓令によりセオドア・ルーズベルト米大統領に日本政府の意思を伝え日露講和の友誼的斡旋を依頼

 

高平小五郎

大杉栄とその時代年表(588) 1905(明治38)年5月28日~31日  「朝鮮海峡における海戦は、全世界の政治新聞の注意を引きつけた。ツァーリ政府は、最初、自分の忠良な臣民から苦い真実をかくそうと試みたが、すぐにこのような試みをしてもむだであることを納得した」  「戦争は、専制のあらゆる腫物をあばき、その腐敗をあますところなく明るみにだし、それが人民から完全に遊離していることをしめし、カエサル的支配の唯一の支柱を撃破した。戦争は、恐ろしい審判となった。人民は、すでにこの強盗政府にたいする自分の判決をくだしている。革命はこの判決を執行するだろう」(レーニン「壊滅」) より続く

1905(明治38)年

6月

岩野泡鳴「悲恋悲歌」(「有倫堂」)

6月

片倉組、200釜の仙台製糸所設置。

6月

末、若山牧水(20)、高等予科の課程を修了して坪谷に帰省。8月末に上京。

6月

(漱石)

「六月(日不詳)、『文理評論』講義(「十八世紀英文学」)のノートを作成し始める。(小宮豊隆)」(荒正人、前掲書)

6月

漱石『琴のそら音』(『七人』6月号)

夏目漱石『琴のそら音』(青空文庫)

久し振りに友人の津田君の家を訪問した「余」は、「幽霊」の研究をしている彼から「不思議な話」を聞く。

彼の親戚の女性が肺炎で死んだ。彼女の夫は黒木将軍の第一軍に属して出征していたが、ある朝、鏡を何気なく見ると、病気にやつれた妻の青白い姿がスーと現れた。出征前の妻の誓いのことばの通り、死んでも「魂魄(こんぱく)」だけはもう一度夫のもとへ会いに行ったのだ。あとで調べると、妻が息をひきとった時と夫が鏡を眺めた時とは同日同刻だった。・・・

6月

大杉栄(20)、巣鴨監獄の秋水に仏語選文の差し入れをする。

東京外国語学校のフランス人教師ポール・ジャクレー宅に他の卒業生らと招かれる。

6月

ロシア各地でストライキ、武装蜂起起。

6月

マックス・ウェーバー、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」第2章を『アルヒーフ』第21巻に発表。 

6月1日

日比谷公園、日露日本海海戦の大勝を祝う東京市祝勝会。

6月1日

「対馬海戦の勝利を祝い、東京帝国大学、臨時休校する。」(荒正人、前掲書)

6月1日

高平小五郎駐米公使、小村寿太郎外相の訓令によりセオドア・ルーズベルト米大統領に日本政府の意思を伝え日露講和の友誼的斡旋を依頼

アメリカ合衆国大統領ルーズヴェルトは、日本側の依頼を受けて6月1日に講和の斡旋に乗り出し、同9日に、日露両国に対して講和勧告を行う。

〈経緯〉

前年(明治37年(1904年))12月、欧州列強間での日露両国に対する講和斡旋の動きが「水面下」で始まる。この動きは、この年(1905年)1月2日の旅順陥落によって公然のものとなる。日本は、最初から合衆国による調停を期待しており、その任を帯びた金子堅太郎が前年から渡米し、各方面と折衝を重ねていた。また、外相小村寿太郎を中心に、開戦後早い段階から講和条件に関する討究が重ねられてもいた。

ロシア側では、この年1月22日の「血の日曜日」事件発生など国内情勢の急転が確認されたものの、主戦派の意見が大勢を占め、いまだ講和の機運は熟していなかった。その状況に転機をもたらしたのは3月初旬の奉天会戦であった。奉天の戦いの直後、のちに日露講和会議のロシア側全権となるヴィッテが、ニコライ2世に対して和議に関する上奏文を提出するなど、ペテルブルクにおける講和機運が高まる

日本側でも兵力不足など軍事上の困難が深刻化し、次期作戦計画のみならず講和問題をめぐる政府と軍部の議論が活発化してくる。

4月8日「作戦並外交歩調一致ニ関スル件」、4月21日「講和条件予定ノ件」いわゆる「講和条約大綱」が閣議決定される。

さらに5月末の日本海海戦の勝利により、日本政府は講和条件を有利なものになしうると判断する。

ここに至り、小村外相は、駐米公使高平小五郎に対して講和交渉斡旋依頼の訓令を発する。これをうけた高平公使は、6月1日合衆国大統領ルーズヴェルトに訓令の内容を伝える。日本側の依頼に応じたルーズヴェルト大統領は、ロシア側に講和を勧告、6月7日までに承諾を取り付ける。

そして6月9日、日本政府も大統領のすすめにしたがい、講和交渉の席につくことを決定。

6月2日

セオドア・ルーズベルト米大統領、カシニー・ロシア大使に日露講和を勧告。また、ルーズベルトは駐ドイツ大使スペックから、ドイツ皇帝がロシア皇帝に講和勧告をしたと連絡受ける。

6月3日

(漱石)

「午後二時から文章会を行い、その後、夕食を共にする予定である。」(荒正人、前掲書)


6月3日

モロッコのスルタン、改革の協議のため列強を会議に招く。

6月4日

『直言』第18号発行

堺利彦「マルクスの学説」(連載、第18~24号(7月26日))。

イリー「近世社会主義史」・ハイドマン「社会主義経済学」により概説。

荒畑寒村の斡旋で竹久夢二のコマ絵掲載(この頃平民社の同志岡・荒畑と雑司ヶ谷で同居自炊)。 

竹久夢二の最初の絵『勝利の悲哀』を掲載

『寒村自伝』によれば、夢二が荒畑に厚い自筆の習作画帳をみせて、この中から適当なものを『直言』の誌上に発表してもらえまいかと相談し、荒畑が堺利彦に話して快諾を得たので、赤十字のマークのついた白衣の骸骨と並んで丸まげの若い女が泣いているのを抜いて掲載すると、諷刺が利いているので好評で、それからつづいて掲載することになった、と言う。

夢二は荒畑といつ知り合ったのか、確証はないが、音江舜二郎氏は、1903年末、幸徳秋水、堺利彦などによって結成された社会主義協会の最初の演説会がYMCAホールで開かれた頃、と推察されている。夢二からみれば、荒畑は約3歳年下であり、純朴な青年に気を許したのかも知れない。

夢二(竹久茂次郎)が上京したのは17歳の1901(明治34)年夏、早稲田実業本科に補充入学したのは翌年9月、本科3年卒業が1905年3月、同校専攻科に進学したのが4月で、その年の7月に退学。

6月4日

石川啄木、失踪騒ぎの後、節子のもとに現れる。盛岡市帷子小路に新居。啄木の両親・妹光子との同居。

9日、随筆「閑天地」(「岩手日報」~7月18日、21回)。25日、盛岡市加賀野磧町に移る。 

6月5日

(漱石)

「六月五日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。

六月六日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Hamlet を謹製する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

六月六日(火)または七日(水)、夕刻、中川芳太郎の下宿奥井館(本郷区駒込追分町、現・文京区向丘二丁目)を訪ね、散歩に誘う。」(荒正人、前掲書)


6月6日

ロシア・カシニー駐米大使、ロシア政府に講和意志ない事を米ルーズベルト大統領に伝える。

6月6日

米駐露大使メーヤーより、日本からの講和提案ならば、ロシアは同意の旨、ルーズベルトに入電。ルーズベルト、日・露両国に講和全権選出要請。

6月7日

岸田吟香(73)、没。

6月7日

ロシア皇帝ニコライ2世、セオドア・ルーズベルト米大統領に講和談判に全権委員を任命するべく回答。

6月7日

ドレスデン、芸術家集団「ブリュッケ」結成。

6月7日

ノルウェー議会、スウェーデンとの同君連合解消、独立を宣言。

8月13日、国民投票により批准。

10月26日、調印。

デンマークのカール王子がホーコン7世としてノルウェー王に即位(1957年まで在位)。

6月8日

(漱石)

「六月八日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


つづく

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