2025年8月25日月曜日

大杉栄とその時代年表(597) 1905(明治38)年8月 「兎に角日本は今日に於ては連戦連捷 - 平和克復後に於ても千古空前の大戦勝国の名誉を荷ひ得る事は争ふべからずだ、こゝに於てか啻(たゞ)に力の上の戦争に勝ったといふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じ得るであらう。」(漱石の談話「戦後文界の趨勢」)

 

千駄木邸書斎の漱石(1906年)

大杉栄とその時代年表(596) 1905(明治38)年7月28日~30日 幸徳秋水出獄。幸徳は出獄直前から無政府主義に関心を惹かれはじめた。獄中から在桑港の友人アルバート・ジョンソンに宛てた書翰にも、「私は所謂『罪悪』ということについて深く考えるところがあり、結局現在の政府の組織、裁判所、法律、監獄が、実際、貧窮と罪悪とを誘導するものであると確く信じるようになりました……事実を申せば小生ははじめマルクス派の社会主義者として監獄に参りましたが出獄に際しては急進的なアナーキストとして立ち戻りました」と述べ、入獄という体験が、幸徳の国家権力の否定、無政府主義への思想的傾斜の原因になったことを語っている。 より続く

1905(明治38)年

8月

与謝野鉄幹長詩「ぐうたら」(「明星」)。

「明三十八年八月、鉄幹は「ぐうたら」と題して五連の自虐的なローマ字詩を発表している。(読みづらいので平仮名と漢字に書き直しました)


           第一連

           ぐうたら! ぐうたら!

           ぐうたら! 起きな! 蚊帳越しに、

           細帯姿、 乳もあらわ、

           がさつに呼ぶは、襟白き

           女剣舞の座頭よ!

                             ・・・

           第五連

           ぐうたら! ぐうたら!

           ぐうたら男! うしろより

           団扇使えば、物見高!

           粗木(あらき)の小屋のふしはみな

           目となり、ききとひそめいた

           「野郎! かかぁをあおいでる!」


 「ぐうたら」は鉄幹自身であり女座長は晶子を指している。

 「野郎! かかぁをあおいでる!」とは鉄幹に対する世間の目であろう。」

(ブログ「Merrydiary」与謝野晶子≪春泥集≫抄-5 より無断拝借しました)


8月

長谷川天渓「文芸観」(「文明堂」)

8月

漱石の談話「戦後文界の趨勢」(『新小説』戦後之文壇)


兎に角日本は今日に於ては連戦連捷 - 平和克復後に於ても千古空前の大戦勝国の名誉を荷ひ得る事は争ふべからずだ、こゝに於てか啻(たゞ)に力の上の戦争に勝ったといふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じ得るであらう。


と語る。

漱石は、「平和克復」によって「不安」(「中味と形式」)がなくなったことをよろこび、同時に、日本の「連戦連捷」や「大戦勝国の名誉」をよろこぶ。

漱石は、今回の戦勝が「精神界へも非常な元気」を与えることに期待をかけた。文学においても、「近松はセクスピアと比較し得る」といった「昔の国粋保存主義時代の考へ」ではなく、「我邦の過去には文学としては大なる成功を為したものはないが、これからは成功する、これからは大傑作が製作される、決して西洋に劣けは取らぬ」という「気概が出て来る」と述べ、「この趨勢から生れて来る日本の文学は今までとは違って頗る有望なものになって来るであろう」と語る。

また漱石は、「文学」ばかりでなく「文界」全般の発達を期待して、日露戦争の犠牲などにはあえてふれず、明るい展望だけを述べた。

さらに漱石は、われわれがこれまで「大和魂」などを「無暗に口にした」のは、「自信」があってのことではなく、いわば「恐怖」の叫びであった。しかし、「斯う勝を制してみると」、「今日まで苦しまぎれに言った日本魂は、真実に自信自覚して出た大なる叫びと変化して来た」と言う。また、「人間の気分が大きくなって、向ふも人なら、吾も人だといふ気になる、ネルソンもエライかも知れぬが、我東郷大将はそれ以上であるといふ自信が出る」とも言う。

漱石「現時の小説及び文章に付て」「本郷座金色夜叉」(談話筆記)〔『神泉』1号(8月号)〕

漱石「イギリスの園藝」(談話範記)〔『日本園芸雑誌』8月号〕

漱石「水まくら」(談話筆記)〔『新潮』8月号〕


「僕は芝居を見るくらいなら落語を聞きに行く。この前『パオロ・エンド・フランチェスカ』の芝居を見に行って、西洋人が出て来たりなんかして驚いて帰って来た。それっきり芝居見物というものに出かけたことがなかったのを、この頃ある人に招待されて本郷座の『金色夜叉』を見た。こんどはそれでも前よりは面白かった。それからまた落語の円左会だの、落語研究会だのに行って、近ごろ落語家の顔も大分覚えて来た。僕は落語家小さんの表情動作などは、壮士俳優のやるよりよほど旨いと思う。人が賞める高田などは、芝居のために芝居をするようで、肩が凝って面白くない。よほど不自然だ。まああの白(セリフ)などのやり口は、講談師松林伯知ぐらいのところだと思う。河合の女形はよい。あの詞調子態度などは死んだ円朝そのままだ。よほど巧でそれで自然だ。僕はむしろああいう重だった役をするものより端役をやるものの方が自然で旨いと思う」(「水まくら」)


8月

大杉栄(20)、8月頃、エスペラントの学習を開始。岡山でエドワード・ガントレットが始めた通信講座に入会し、ガントレットが作った謄写版のエスペラント講習録を読む。

8月

王子製紙会社、王子工場で500キロワットの電力を応用。

8月初

(漱石)

「八月初め、(日不詳)、服部国太郎来て、『吾輩は猫である』を出版させて欲しいと云う。承諾する。」(荒正人、前掲書)

「服部国太郎は、大倉書店の番頭である。『吾輩は猫である』の出版は、服部国太郎の企画であったと云われる。そのため、大倉書店・服部書店の共同出版の形式をとったものである。」(荒正人、前掲書)


8月上旬

(漱石)

「八月上旬、『神泉』を発行している小沢平吾から月見に来るように云われたが断る。」(荒正人、前掲書)

8月1日

木下尚江・山田金一郎、東北遊説出発。13日間。郡山、山形、楯岡、福島、仙台、盛岡、宇都宮。

8月1日

水谷八重子、誕生。

8月1日

東京日比谷公園内音楽堂開堂式。陸軍軍楽隊が演奏。以後、陸・海軍楽隊が交互に月二回演奏。

8月1日

島崎藤村は、この年7月に出版された国木田独歩の短篇集「独歩集」を小諸の神津猛に送った。藤村は、明治30年頃から柳田国男や田山花袋等の仲間になっていた独歩に、この年はじめて逢い、その人となりと仕事に注目していた。

この日付け藤村の神津宛ての手紙。


「昨日開き封にて御送りしました一書は新刊の小説集で、これは近頃懇意になりました国木田独歩といふ人の作です。君の許へ送る為に特に一冊とりよせました。是非この集は精読して下さい。批評を聞かせて下さい。 - 無瑕なものばかりでも有りませんが、兎に角新らしい思想で書いたもので、田山君などもツルゲネエフの作風に肖てゐると賞めたものであります。」


国木田独歩はこの時、数え年35歳、まだ作家として志を得ていなかった。

明治32年、矢野龍渓の紹介で「報知新聞」に入ったが、翌年退き、明治34年1月には星亨の下で「民声新報」編輯長となったが、半年後星が暗殺されて失職し、西園寺公望の神田駿河台の屋敷に寄寓したりしていた。

この頃から翌年、貧困に追われながら「牛肉と馬鈴薯」、「富岡先生」、「運命論者」、「空知川の岸辺」、「少年の悲哀」等のすぐれた短篇小説を書いて、二三流の雑誌に発表し続けていた。「空知川の岸辺」は、田山花袋の世話で金港堂の「青年界」に発表されたが、この作品は旅行記と見なされ、その随筆欄に載せられ、稿料も1枚50銭と安いものであった。

明治35年末、矢野龍渓の主宰する敬業社(のち近事画報社)に入って、やっと生活の安定を得るようになった。

明治37年、日露戦争が起ると、「近事画報」は「戦時画報」と改題されて、戦争の情報を主として載せ、売れ行きがよくなった。

妻治子との間に、明治32年に長女貞が、明治35年に長男虎雄が、明治37年に次女みどりが生れた。

明治37年、若い画家小杉未醒が近事画報社に入り、独歩と親しい交りがはじまった。

この年1月19日、父専八が死んだ。父が病気の間、奥井君子という附添看護婦が同居していたが、独歩はこの女性と関係が出来た。そのため君子は病人が死んでも国木田家を去らず妻妾同居の形となった。妻の治子はそのことに悩んだが、子供に手がかかるので君子の手助けが役立つこともあり、その不自然な生活が続いた。独歩には古風な男性中心の意識があり、そのことをあまり苦にしなかった。

独歩は、前年からこの年にかけて、「非凡なる凡人」、「女難」、「春の鳥」などの幾つかの短篇小説を書いた。彼は作品集を出そうとしたが、中々引き受ける本屋がなかった。近事画報社の営業主任・山本秀雄がそれを聞いて義侠的に自分の社から出すようにはからってくれたが、部数は500にすぎなかった。

そしてこの年7月、自分の勤めている近事画報社から「独歩集」を出版した。素朴で鋭い生の感情をとらえた彼の作品は、花袋や柳川国男など友人の間では早くから認められていたが、文壇人たちはこの作品集によってはじめて、独歩の鋭いものの見方を知り、急に注目が集った

「独歩集」が各地の書店へ送られた時、佐渡中学に学んでいた数え年16歳の青野季吉は、町の本屋でこの本を買った。それは彼が初めて買った小説本であった。青野季吉は姉の持っていた蘆花「不如帰」を読んだことがあったが、その古い感じが彼を引きつけなかった。この「独歩集」の中の「女難」や「少年の悲哀」や、同じような少年の夢を描いた「春の鳥」などが、人生の真実に触れた小説を読むという新鮮な喜びを彼に与えた。

彼は佐渡の沢根町で酒造業や海運業をしている家に生れたが、幼い時代に生家が没落したので、極めて貧しい漁師夫婦のところに里子にやられた。彼は、貧民の子として育てられたので、独歩の描いた貧しい庶民の生活を実感をもって味わった。

彼は明治36年未に出た「平民新聞」を創刊号から終刊号まで購読する少年であり、この明治38年には千山万水楼主人という名で河上肇が「読売」に連載した「社会主義評論」も愛読していた。


つづく

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