1905(明治38)年
8月11日
石川啄木(20)、友人大信田金次郎(落花)の援助を得て文芸雑誌「小天地」を刊行することになり、友人の小笠原迷宮ら文学仲間と原稿を依頼する。
8月11日
(漱石)
「八月十一日(金)、中川芳太郎葉書に、「船へ乗つて月を見て美人の御酌でビールが飲みたい。」と書く。『吾輩は猫である』を美しい本で出版する喜びを伝える。」(荒正人、前掲書)
8月12日
第2回日英同盟協約調印
林董駐英公使とランスダウン英外相、ロンドン。日英同盟の期限を10年延長。適用範囲をインドにまで拡大。即日実施。9月27日公布。
英のインド領有・国境防衛措置承認。日本の朝鮮「指導・監理及保護」承認(韓国の保護国化を認める)。日英軍事「攻守同盟」関係。
8月12日
ポーツマス、午前9時45分、第2回会談。
ロシア側、樺太割譲・賠償金支払・海軍力制限、中立国抑留船舶の日本引渡しの4条件拒否。残り8条は条件付受諾を回答。
8月13日
「韓国沿海及内河の航行に関する約定書」。沿海航行権及び河川遡行権の獲得。
8月13日
『直言』第28号発行
社説「日本人排斥と社会主義」;
昨年の第二インタナショナル・アムステルダム大会で、米国の代表委員は東洋移民排斥の決議案を提出して否決されたが、本年2月、サン・フランシスコの新開『クロニクル』は日本移民排斥の論陣を張り、州議会は日本人排斥を決議するに至った。平民社社友・斯波貞吉はこの排斥の理由なきことを論証し、米国の社会主義者に対して、彼等がさきに万国社会党大会に提出した決議案の不当を詰(なじ)り、次の3問に対する回答を要求。
一、社会主義は単に白人のみに適用せらるべきものなりや。
二、日本人は万国的社会運動に加はる能はざるものなりや。
三、社会主義は単に或る人種に限りたる利益を増進せしむべきものなりや。
この詰問状に対しては、社会主義労働党首領・シカゴ大学経済学教授デレオンが、機関紙『ニューヨーク・デイリー・ピープル』紙上で答えた。
デレオンは斯波の意見に完全に同意し、かつ憤慨を同じくするものであるが、アムステルダム大会に提出された東洋移民排斥の決議案は米国の「社会党」、「社会民主党」、「公有党」と称する委員の所業であって、「社会主義労働党」の委員はかくのごとき非社会主義的決議案に加わることを拒絶し、同案はために議題にも上らなかったと述べる。
デレオンはさらに「社会党」、「社会民主党」、「公有党」の本質を知らせようと称して、アムステルダム大会の米国委員ヒルクイット、シュルーテル、リーはニューヨークに在るドイツ語新聞『フォルクス・ツァイツング』の株主や社員にほかならぬことを暴露した。
幸徳秋水「小田原より」;
明治20年「保安条例」により15歳の秋水が東京追放、小田原での宿泊中、深夜に警官に手荷物検査をされた恨み。この日、箱根より来た林泉寺の内山愚堂・堺枯水と語り合う。
8月13日
東京で清国からの留学生主宰の孫文歓迎会開催。
8月13日
モスクワで全ロシア農民同盟創立大会。
8月13日
ノルウェー、スウェーデンとの同君連合解消を国民投票により批准。10月26日調印。デンマークのカール王子がホーコン7世としてノルウェー王に即位(1957年まで在位)。
8月14日
桂・原第3回秘密交渉。
原は西園寺と相談した上で講和には反対しないと言明。政権移譲時期は西園寺の都合次第。但し、政友会一党の政党内閣にしない、憲政本党と連立しない、を条件とする。原は了解。
22日、再度秘密打合せ。伊藤・山縣元老への伝え方、桂辞職の時期などについて。
8月14日
大阪商船(株)、大阪~清の安東県間航路開設。
8月14日
ポーツマス、講和談判。
日本側提出講和12条件のうち、①日本の韓国管理、②満州撤兵、③満州の清国還付の条件可決。
ヴィッテは韓国における日本の「自由行動」は容認するが、条文に「韓国皇帝の主権を侵害すべからざること」の挿入を主張。論争の結果、「日本国が将来、韓国に於て執ることを必要と認むる措置にして、同国の主権の侵害とすべきものは、韓国政府と合議の上、之を執るべきことを茲に声明す」と会議録に定めることで妥協。
8月15日
(旧姓延岡)為子「台所方三十年」によれば、8月15日頃、堺から結婚を求められ、直ちに応じたという。
8月15日
ポーツマス、講和談判。
条件④満州における商工業の機会均等、可決。⑤樺太割譲巡り対立、難航。棚上げして、午後は、⑥清国におけるロシア権益の譲渡の討議。字句を修正して合意。
8月15日
ドイツ領東アフリカ、「マジマジの反乱」。
この年7月末、大規模反乱勃発、ドイツ領南部全域に拡大。反乱軍兵士達は白人の力を弱める「魔法の水(マジ)」を飲むことから「マジマジの反乱」と呼ばれる。
マジを管理するホンゴ(神の使者)達が部族20以上を反ドイツに結束させ、8月15日、県庁1つ占領。反乱軍装備は貧弱(ンゴニ族軍勢5千中銃携帯は200のみ)で、本国の鎮圧軍の機関銃で蹴散らされる。ゲリラ戦はこの後2年間継続するが、ドイツ軍は抵抗する村の家や畑を焼き払い、そのための飢饉・徹底的掃蕩作戦のため10万人余が死亡。
1901年、ドイツ領東アフリカへの白人移民増加、サイザル麻・コーヒー・ゴム等の農園建設が進む。1902年、労働力不足のため、総督ゲッツェンはダルエスサラーム南部の村々で年28日の「共同作業」(現地民の強制労働)を開始。報酬はごく僅かで28日という規定も無視されがちの状況下。
ドイツ本国は植民地統治見直し検討開始。
1907年時点でドイツ人入植者2,700名は植民地(白人だけの)自治を要求するが、総督レッヒェンベルクはアフリカ人の農業を補助による税収拡大を目指す新政策を打ち出す。内陸部アフリカ人に商品作物を栽培させるための鉄道建設が進み、東アフリカ沿岸地帯に勢力を持つインド商人も内陸部へと進出。綿花・コーヒー以外、鉱山・消費材生産も進む。ドイツは特に最奥地3地区(ルワンダ・ブルンジ・ブコバ)に意を用い、これらを「自治区」とし、地元首長の権限を認め、外国人立入制限を施行。
1913年のドイツ領東アフリカ白人人口5,336。他に海外植民地は、西南アフリカ(現、ナミビア)、トーゴーランド、カメルーン、ニューギニア東北部、太平洋の島々。
8月16日
ポーツマス、講和談判。
⑦南満州鉄道および付属権益の譲渡は、長春・吉林線を日本の所属とし寛城子(長春)を区分点とすることで合意。⑧満州横貫鉄道の非軍事化、合意。
つづく

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