2025年8月20日水曜日

大杉栄とその時代年表(592) 1905(明治38)年6月21日~30日 ロシア、黒海艦隊ではかねてより1905年秋に武装蜂起する準備がされていたが、その前に戦艦ポチョムキンで反乱が突発した。 反乱突発の原因は、昼食のボルシチに腐った肉が使われていた(蛆が混ざっていた)ことであった。これにより日頃の不満が爆発。水平たちは、秘密集会で艦長に給食改善嘆願書提出を決定した。しかし、艦長ゴリコフ大佐は嘆願書を持参した水兵グリゴリー・ヴァクレンチュクを射殺し遺体を海に投棄した。 それに対し、水兵らはライフル銃を取り、艦長と上級士官、更に特に憎まれていた士官を射殺し、残る士官らを武装解除し逮捕した。

 

戦艦ポチョムキンと第267号水雷艇

大杉栄とその時代年表(591) 1905(明治38)年6月17日~20日 「対露硬同志会の豪傑連と、彼の英雄的博士組との気焔の凄まじさ想ふべし。戦争の当初、野蛮なる敵愾心を煽動せんがためには、是等の英雄豪傑も亦甚だ必要なる道具なりしが、今や外交の舞台となりては、さすが政府も少々持余しの気味に見受けらるゝこそ笑止なれ」(『直言』第20号社説「平和に急げ」) より続く

1905(明治38)年

6月21日

この日付け「読売新聞」の文芸欄、島崎藤村の企画する緑蔭叢書第一篇の「破戒」と、それに続けて出版する予定の第二篇の短篇集まで準備が出来たとのニュースが載る。

6月21日

仏、サルトル、誕生。

6月25日

黄興・宗教仁ら、東京で「二十一世紀之支那」発行。

6月25日

ハワイ、オーラア砂糖耕地会社の日本人労働者スト。耕地医師・診療所掃除人・通弁坂巻銃三郎の免職要求。翌日、収拾(抗議程度か?)。

6月26日

セオドア・ルーズベルト米大統領、ポーツマスを日露講和談判地に指定。

6月27日

シカゴ、世界産業労働者団(IWW)結成。17団体36,200人。17団体代表59人出席。サンディカリズム傾向。西部鉱山労働者連合ウィリアム・ヘイウッド、社会党委員長ユージン・デブス、社会労働党ダニエル・デ・レオン、アメリカ鉱山労働者連合の老活動家メアリー・ジョーンズなどが指導。未組織労働者を組織し鉄道ストなどを展開。後、デブスら社会党指導者とヘイウッドら労働組合指導者に分裂。後者が果敢に闘争。

6月27日

第13師団長原口中将と第3艦隊司令長官片岡七郎中将、青森で樺太上陸作戦について協定。

6月27日

(露暦6/14)ポチョムキン反乱

ロシア、黒海沿岸オデッサ停泊中の黒海艦隊巡洋艦「ポチョムキン号」水兵反乱。

黒海艦隊ではかねてより1905年秋に武装蜂起する準備がされていたが、その前に戦艦ポチョムキンで反乱が突発した。

反乱突発の原因は、昼食のボルシチに腐った肉が使われていた(蛆が混ざっていた)ことであった。これにより日頃の不満が爆発。水平たちは、秘密集会で艦長に給食改善嘆願書提出を決定した。しかし、艦長ゴリコフ大佐は嘆願書を持参した水兵グリゴリー・ヴァクレンチュクを射殺し遺体を海に投棄した。

それに対し、水兵らはライフル銃を取り、艦長と上級士官、更に特に憎まれていた士官を射殺し、残る士官らを武装解除し逮捕した。

艦を掌握すると、水兵たちは艦船委員会と指導部を選出し、武装や機関、および逮捕者の管理に関する艦の体制を整えた。蜂起の指導者には、パーナス・マチュシェンコが選出された。

蜂起には、第267号水雷艇の乗員も合流し、両艦艇は、革命の象徴として赤旗を掲揚した。

この日14時00分、ポチョムキンの乗員は革命を宣言し、同日夕刻には両艦艇はオデッサに到着した。オデッサでは、折しもゼネストが行われており、ポチョムキンの水兵らとオデッサの労働者たちは大規模なデモ行進と、ポチョムキンの蜂起の最初の指導者で銃殺されたグリゴリー・ヴァクレンチュクの葬儀を行った。その後、ポチョムキンは皇帝の軍と警察に対して若干の射撃を行った。

しかし、30日(露暦17日)、反乱鎮圧のため政府軍艦隊が派遣されることになった。艦隊は、黒海艦隊所属の艦隊装甲艦ドヴィエナザット・アポストロフ、ゲオルギー・ポベドノーセツ、トリー・スヴャチーチェリャ、水雷巡洋艦カザールスキイ、第255号、第258号、第272号、第273号水雷艇から編成されていた。皇帝ニコライ2世は、黒海艦隊司令官であるチュフニーン海軍中将に対して速やかに叛乱を鎮圧し、最悪の場合には叛乱艦を全乗員ごと撃沈すべしとする指令を与えた。サンクトペテルブルクにいたチュフニーンは、クリーゲル海軍中将に司令官代理として事態に対処するよう任じた。

7月1日(露暦18日)早朝、上級指揮官クリーゲル海軍中将の将官旗を掲げた艦隊は隊形を組んで停泊地に接近し、雷撃と砲撃をもって謀反人たちを撃滅せんとしていた。

ポチョムキンでは、自分から発砲しないことが決議され、艦隊に向かって出航した。交渉のため艦隊に赴くようにとの申し出を拒絶したポチョムキンの水兵らは、今度は艦隊の指揮官をポチョムキンへ招く申し出をした。クリーゲル艦隊指揮官の乗った旗艦ロスチスラフでは、「投錨せよ」という信号が上げられた。ポチョムキンはロスチスラフの衝角の前に進み出るように見せかけて、最後の瞬間になって進路を変更し、装甲艦ロスチスラフと、ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将の乗る副旗艦トリー・スヴャチーチェリャのあいだを将官の艦に砲門を向けつつ航行した。

しかし砲門が開かれることはなかった。艦隊の艦艇の水兵らは叛乱者たちを砲撃することを拒否し、禁じられていたにも拘らず、甲板上に出て接近するポチョムキンに「万歳!」の歓声を送った

乗員の気運を危惧したクリーゲルは、全速力で公海上へ艦隊を移動させる指令を出した。ポチョムキンのもとには、装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツが留まり、ゲオルギー・ポベドノーセツの乗員は、自艦の士官たちを逮捕し、蜂起に合流した。

しかし、のちにゲオルギー・ポベドノーセツの水兵たちのあいだには仲間割れが生じ、ポチョムキンのもとを離れ、艦を政府に引き渡した。

ポチョムキンは、オデッサの町から水と食料の供給を拒否され、黒海の対岸のルーマニアのコンスタンツァに向かうが、ここでも必要物資の提供するのを拒まれ、フェオドーシヤへ引き返すことになる。ルーマニア政府から食料、燃料、水の補給を拒否されたポチョムキンは、危機的な状況に陥った。海水をボイラーに補給した結果、ボイラーは故障した。

7月5日(露暦6月22日)朝6時、ポチョムキンはフェオドーシヤに辿り着くが、そこではすでに皇帝の正規軍と憲兵団が待ち構えていた。上陸した水兵のグループは銃火を浴びせられた。そのため、艦は再びコンスタンツァに向けて出航した。

7月7日(露暦6月24日)、ポチョムキンがコンスタンツァへ到着すると、水兵らは艦をルーマニア政府に引渡した。

翌日、艦は赤旗を降ろし、水兵らは政治亡命者として上陸し、この日正午、ルーマニアの国旗がポチョムキンに掲揚された。しかし、第267号水雷艇の乗員は艇の引渡しを望まず、港内停泊地に一旦錨を下ろすが、同日、セヴァストーポリに向けて出航した。

7月9日(露暦6月26日)には、コンスタンツァへ黒海艦隊の分遣隊が到着。

翌日、ルーマニアはロシアにポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還した。

7月14日(露暦7月1日)、艦はセヴァストーポリに到着した。

反乱に参加した水兵の大部分は、1917年の2月革命までルーマニア国内に残る事を選択した。反乱の直後にロシアに戻った水兵も居たが、少なくとも56人が反乱罪で投獄され、うち7人が首謀者として処刑された。一方、下士官の中には「水兵の脅迫の下に行動したのみである」と主張して免罪を受けたものも居た。

ルーマニアには約600人の水兵が残留した。首謀者の一人マチュシェンコは1907年に恩赦の約束の下に4人の同僚と共にロシアに帰国したが、約束は反故にされ絞首刑に処された。別の首謀者の一人であるジョセフ・ディムチェンコは、1908年に31人の元水兵と共にアルゼンチンに脱出し、彼の地に定住した。最後まで生存した元水兵はイワン・ベショフ(ロシア語版)で、トルコとロンドン(彼はロンドンでレーニンに会ったと主張していた)を経由してアイルランドに脱出、ダブリンに定住した。彼はダブリンでフィッシュ・アンド・チップスの販売店を経営し、1987年10月25日に102歳で死去した。


6月29日

英、ドライバーの利権保護目的の自動車協会創設。

6月30日

閣議、講和全権委員に訓令。

「絶対的必要条件」:韓国を「全然我自由処分に委すること」を承認させること、遼東半島租借権・ハルピン~旅順間鉄道譲与など、「飽迄之が貫徹を期せらるべし」とする。賠償金・サハリン割譲は「許す限り之が貫徹に務めらるべし」という「比較的必要条件」。7月5日裁可。

6月30日

(漱石)

「六月三十日(金)、午後五時から東京帝国大学構内山上御殿で、英文学科卒粟生の謝恩会に、上田敏・ロイドと共に出席する。謝恩会の後、望月写真館の写真師が出張して来て、マグネシウムを焚いて、記念搬形をする。(十四日(水) の写真はうまく撮れなかったが、今度はうまく撮れたらしいという)」(荒正人、前掲書)

30 ・アルバート・アインシュタイン、特殊相対性理論についての最初の論文が受理される(「物理学年報」)。


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