1905(明治38)年
7月12日
厳谷一六(71)、没。
7月12日
ロシア、ニコライ2世、講和主席全権大使に元蔵相ウィッテを任命。「大ロシア帝国の名誉を傷つけ、或は一片の償金、一握の領土を割譲することも許さず」と訓令。
7月13日
デュボイス,トロッターら黒人運動指導者、ナイアガラに集り宣言発表。ナイアガラ運動を開始。
7月14日
仏、老廃者救助法制定。
7月15日
(漱石)
「七月中旬(推定)、『神泉』の小沢平吾に招待され、本郷座の『金色夜叉』を見る。野村伝四・三浦吉兵衛も一緒に行く。
七月十五日(土)、洞泉寺(本郷区駒込吉祥寺町、現・文京区本駒込三丁目十九番四号)の近くで、金子健二に逢う。山形県立庄内中学校から英語教師を依頼されたので、推薦しようと思い、手紙を出したところだと伝える。金子健二の下宿している洞泉寺に立ち寄り、俳句書画について話す。荻生徂徠「天狗説」原稿直筆の掛軸を見せられ、感想述べる。
中川芳太郎宛手紙に、「先達日本新聞がきて何でも時々かけといふから、僕もつくづく考へたね。毎日一欄書いて毎日十圓もくれるなら學校を辞職して新聞屋になった方がいゝと。然し是は日本新聞で承知する譯のものでないから矢張り赤門の中で紗な事を云つて暮らす積りです。」と書く。」(荒正人、前掲書)
(註)「三浦吉兵衛」;「明治三十六年東京帝国大学文科大学独逸文学科卒。明治四十年二月九日から、明治四十四年七月九日まで第一高等学校でドイツ語を教える。」(荒正人、前掲書)
「この後で、小沢平吾は漱石に手紙を出し、『金色夜叉』について批評を求めるため伺いたいと云う。漱石は、二言三言ですむから雑誌に載せる必要もあるまいと、断りの手紙を出したところ「飯を食ふから來いと云ふことで、さうして今来たら捉まつてしまつた」という。漱石が何処かに食事に招かれ、その席で座談会が行われたという意味であろうか。「本郷座金色夜叉」として発表されているのは、漱石の発言を中心にした座談会で、発言者は、ロ○△Xである。口は漱石、Xは小沢平吾と推定される。○△は誰か分らぬ。野村伝四は、自分も出席していてよい筈だが、記憶にないと云う。「本郷座金色夜叉」は、『神泉』八月号(創刊号 八月一日発行) に掲載されている。」(荒正人、前掲書)
「漱石が金子健二の下宿に立ち寄ったのが、この時だけだったかどうかわからないが、当時の漱石を語っている文章を掲げると、「女子の服装をその人の性格と一致させる事は非常に困雛なものである。私は最近此の問題に苦しめられた結果、本郷三丁目の丘に出掛けて、一時間以上も、往復の若い女性の服装を視察した結果、僥倖にも私のモデルとしての條件…・・白い顬(こめかみ)の賢げな顔をした、白い頸巻、白い手袋白い足袋を穿いた一女性を發見したから非常に渦足した。今夜はこれを材料として書くつもりだ。」とある。(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)
7月16日
南樺太を守るロシア軍が降伏交渉を申し出る。
この日、攻撃に先立ちロシア軍に「試みに」歓降書を送る。提示した降伏条件は、
①陸海軍人と軍属はすべて捕虜とする
②武器、弾薬、食料その他軍需品は日本軍に引渡す
③各地の義勇兵に対してアルツィシェフスキー大佐が降伏を命令する
④将校には帯剣を許す
であった。
③に対しては「各地の部隊長に独立行動を許せしか故に」同大佐には指揮権がないとの返答があったが、ほかの点では合意に達し、アルツィシェフスキー大佐以下が降伏し、身柄が拘束された。
7月19日
(漱石)
「七月十九日(水) (推定)、金子健二から卒業もしたので、祖母の葬式に帰郷するとの手紙来る。」(荒正人、前掲書)
7月19日
午後8時30分、日本講和全権団、シアトル港外着。翌20日、入港。
7月19日
ロシア、講和主席全権大使、ロシア発。
7月19日
永井壮吉(荷風)、ワシントンの日本公使館に赴く。講和会議対応で多忙になった公使館で小使として働き始める。
7月20日
三菱合資会社、神戸市和田岬に三菱神戸造船所開設。8月8日開渠式。
7月20日
英インド総督ジョージ・カーゾン、ベンガル州分割令公布。ベンガル州を東西分割。分割反対運動おこる。
7月22日
ロシア全権ウィッテ、フランスのエリゼ宮でルーべ大統領・ルヴィエ首相と会見。外債募集または借款援助要請。フランス側は戦争継続のためなら資金援助は拒否。講和のための賠償金のためなら協力すると回答。
7月23日
大阪アルカリ会社で賃上げ要求をしていた職工6人、技手を殴打したため拘引される。25日、120人が解雇に。
7月24日
第13師団第26旅団(第51・52連隊)、樺太北部アレクサンドロフスクに無血上陸。第3艦隊(片岡七郎中将)第6戦隊(東郷正路少将)は巡洋艦2・駆逐艦4隻で間宮海峡対岸の沿海州カストリー湾を武力偵察。湾内に侵入すると砲撃をうけたため、艦隊も応戦。やがて沈黙し、火薬庫を自爆させ退却。第6戦隊はここで撤収するが、ウラジオでは住民の避難が始まる。
7月24日
(漱石)
「七月二十四日(月)、鹿蔦松濤楼苑絵葉書に俳句一句おくる。
七月二十六日 (水)、『一夜』脱稿する。」(荒正人、前掲書)
7月24日
独皇帝ヴィルヘルム2世・露皇帝ニコライ2世、ビョルケ密約(~24)、両国政府の反対により不成立。再度の露独同盟画策、仏の参加拒否により失敗。
7月25日
午前10時、小村寿太郎ら、ニューヨーク着。副全権高平小五郎駐米公使、金子堅太郎出迎え。
27日、小村全権・高平副全権、ルーズベルト大統領訪問。領土要求は樺太のみと伝える。
7月27日
樺太北部の要衝・アレクサンドルフとルイコフを占領。
ルイコフを占領し、「無益なる作戦の継続を停止するの勧告を」サハリン島ツイモフ州長官セルギー・ソーゾフを通じて、ロシア軍長官リャプノフ中将に対して行う。降伏条件は、、、
①兵器、馬匹、糧食其他の軍用物件及官に属する金銭有価証券其他の動産不動産は現状の儘引渡すこと
②薩哈嗹島行政に必要なる凡ての書類を引渡すこと
③薩哈嗹島守備軍編成表及防衛計画書に関する地図及書類を引渡すこと
この降伏勧告条件は受け入れられたが、③の防衛計画に関する書類は「軍機に属する者として現行法律に照し軍事行動の開始と同時に皆之を破棄」したとリャプノフは回答した。最終的に降伏文書に調印し、オノール付近にいたリャプノフ以下将校70名、下士卒4,319名は武装を解いて日本軍の捕虜となった。
つづく
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