大杉栄とその時代年表(592) 1905(明治38)年6月21日~30日 ロシア、黒海艦隊ではかねてより1905年秋に武装蜂起する準備がされていたが、その前に戦艦ポチョムキンで反乱が突発した。 反乱突発の原因は、昼食のボルシチに腐った肉が使われていた(蛆が混ざっていた)ことであった。これにより日頃の不満が爆発。水平たちは、秘密集会で艦長に給食改善嘆願書提出を決定した。しかし、艦長ゴリコフ大佐は嘆願書を持参した水兵グリゴリー・ヴァクレンチュクを射殺し遺体を海に投棄した。 それに対し、水兵らはライフル銃を取り、艦長と上級士官、更に特に憎まれていた士官を射殺し、残る士官らを武装解除し逮捕した。
1905(明治38)年
7月
清国、憲政視察団、欧米・日本派遣。
7月
横浜正金銀行、鉄嶺に出張所設置。
7月
台湾銀行福州出張所設置。
7月
日比谷野外音楽堂完成。
7月
国木田独歩「独歩集」(「近事画報社」)
7月
三木露風「夏姫」(「血汐会」)
7月
松岡荒村「荒村遺稿」(「平民社」)
7月
綱島梁川「梁川文集」(「日高有倫堂」)
7月
小田島孤舟・堀内紫玉、啄木宅を初めて訪れ交流が始まる。
7月
産業界に企業合同の動き。講和後、国内での競争を排除し、外国資本の進出に対抗するため。農商務大臣大浦兼武が勧奨。
紡績会社:尾張・三重・名古屋・桑名・津島・知多・一の宮の9社。三重・尾張・名古屋の3会社は既に合同を決議。
ビール会社:日本・札幌・朝日の3会社。
石油トラスト:新潟県の石油業者がトラスト組織を協議。
石炭トラスト:北海道石狩炭鉱は合同を協議。
7月
田中敬信、東京小石川にセルロイド工場設立。1907年7月、三井家に買収される。
7月
王子製紙遠江工場ストライキ。
7月
栃木県、谷中村に対して潴水地用測量のため土木吏の村内立入を通告。また、村長のなり手が居ない為、下都賀郡役所書記を村長として送り込み、村民の一部を買収。
7月
福島県で羽二重検査施行。
7月
ベトナム、維新会による日本留学運動(東遊運動)開始(~1907年)。
ファン・ボイ・チャウ、日本から帰国。
7月
独領東アフリカ(現タンザニア本土部)で、住民が綿花の強制栽培と重税に抗議して蜂起(マジ・マジ反乱〔「マジ」は水の意〕 ~1907年8月)。南部地方へ波及。
7月
トーマス・マン、唯一の戯曲「フィオレンツァ」(『ディ・ノイエ・ルントシャウ』誌7、8月号)。フィレンツェの修道士サヴォナローラの内面生活。
7月1日
徐世昌、清国の政務処大臣となる。
7月1日
第一銀行京城(ソウル)支店、韓国の中央銀行として営業開始。
7月1日
『みずゑ』創刊。
7月1日
郵便貯金法施行。
7月1日
漱石『猫』第五回(『ホトトギス』7月号(8巻10号臨時増刊))
「吾輩」は、「先達中(せんだつてじゆう)から日本は露西亜と大戦争をして居るさうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓である。出来得べくんば混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻いてやりたいと思ふ位である」と語る。
「吾輩」が鼠をとろうと悪戦苦闘する日本海海戦のパロディ
「吾輩」は鼠をとろうと「作戦計画」を立てますが、「何だか東郷大将の様な心持がする」といい、「わが決心と云ひ、わが意気と云ひ台所の光景と云ひ、四辺の寂寞と云ひ、全体の感じが悉く悲壮である。どうしても猫中の東郷大将としか思はれない」と胸をはる。
そして、鼠には「三つの行路」がある。
戸棚から出るときには吾輩之に応ずる策がある、風呂場から現はれる時は之に対する計(はかりごと)がある、又流しから這ひ上るときは之を迎ふる成算もあるが、其うちどれか一つに極めねばならぬとなると大に当惑する。東郷大将はパルチック艦隊が対馬海峡を通るか、津軽海峡へ出るか、或は遠く宗谷海峡を廻るかに就て大に心配されたさうだが、今吾輩が吾輩自身の境遇から想像して見て、御困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況に於て東郷閣下に似て居るのみならず、此格段なる地位に於ても亦東郷閣下とよく苦心を同じうする者である。
「吾輩」と東郷大将は「苦心を同じうする者である」と主張することで「吾輩」を滑稽化すると同時に、東郷大将も相対化させる。海戦勝利に対する国民の愛国的熱狂や東郷大将に対する英雄崇拝を冷却させる。
7月上旬
(漱石)
「七月上旬(推定)、畳替えをする。春陽豊の本多直次郎(嘯月)、初めて訪ねて来る。『新小説』のために、「戦後文學の趨勢」と題する談話筆記に応じる。畳替えのため座敷を変えながら、二時間ほど話す。(本多嘯月)
七月上旬(推定)、『日本新聞』から不定期の執筆を依頼され受ける。」(荒正人、前掲書)
7月1日
米、モンロー宣言廃棄の米国務長官ジョン・ヘイ(66)、没。
7月2日
石川達三、誕生。
7月2日
大杉栄(20)、「物を食ふ事を耻づる人民」が『直言』に掲載される
7月2日
(漱石)
「七月二日(日)、野村伝四宛葉書(朱書)に、今日、本郷の唐物屋で買ったパナマ製夏帽を被って歩くことを御届する、と書く。」(荒正人、前掲書)
「『吾輩はは猫である』の原稿料十五円が入ったので買う。」(荒正人、前掲書)
7月3日
清国、英の福中公司から道清鉄道を回収。
7月3日
講和全権委員に小村寿太郎外相、高平小五郎駐米公使を任命。桂太郎、外務大臣臨時兼任。
7月3日
『婦人画報』創刊。編集長国木田独歩
7月4日
樺太攻略第1陣(南部攻略部隊)第13師団第25旅団(竹内正策少将、第49・50連隊)基幹の主力1万401人、青森大湊港出撃。総兵力は1万7,561を準備。
ロシア軍は北部に5,917、南部に1,363(うち、追放農民・囚人からなる義勇兵団2,400の半数は逃散)。
樺太占領作戦に参加した山路中将が、戦後の史談会で語ったところによると、ウラジオストックにいたロシア艦艇や樺太のロシア陸軍などよりも、「当時一番怖いのはこの時分の霧だった。寧ろ敵よりも霧に対する十分の準備をして置かなければなら」なかったことという。
7月4日
小村寿太郎、講和全権委任状下賜。また、駐米公使高平小五郎も全権委員に任命。ほかに全権委員随員選任。駐メキシコ弁理公使佐藤愛麿・外務省政務局長山座円次郎・外務省参事官安達峰一郎・外相秘書官本多熊太郎・外務官補小西孝太郎・駐米公使館付武官立花小一郎大佐・同海軍武官竹下勇中佐・外務省顧問デニソン。
6日、主席特命全権大使小村寿太郎、参内。後、首相から改めて正式に日本側条件を訓令。
8日、小村寿太郎ら、新橋駅発。午後4時、「ミネソタ」号出港。
7月4日
新聞「日本」(陸羯南)、「租税を負担する国民は、之が支出を議するの権あり、立憲政治の原理玆に存す、兵役を負担する国民、豈戦争を議するの権なしと謂はんや。」 民衆の発言権を主張。
7月5日
浦瀬白雨譯『ウオルヅヲォスの詩』序〔6月執筆(隆文館刊)
7月6日
大杉栄(20)、外語学校仏語科(選科)を卒業。
この頃すでに10歳ほど「年上の女」と同棲していたと自叙伝にある。"
7月7日
午後3時、第13師団第25旅団、南樺太コルサコフ東方メレイに上陸、午後10時15分、コルサコフ占領。ロシア軍は焦土後退作戦。
コルサコフから逃れてきたロシア人(ロシア国の囚徒でトルコ人と称す)によれば、コルサコフ付近の守備兵は、約1,200人で、そのうちの400人は現役兵で、その他に外国人より徴募した義勇兵もいたという。また、コルサコフには重砲2門と軽砲が7、8門配置されていただけであった。
つづく
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