2025年8月16日土曜日

大杉栄とその時代年表(588) 1905(明治38)年5月28日~31日  「朝鮮海峡における海戦は、全世界の政治新聞の注意を引きつけた。ツァーリ政府は、最初、自分の忠良な臣民から苦い真実をかくそうと試みたが、すぐにこのような試みをしてもむだであることを納得した」  「戦争は、専制のあらゆる腫物をあばき、その腐敗をあますところなく明るみにだし、それが人民から完全に遊離していることをしめし、カエサル的支配の唯一の支柱を撃破した。戦争は、恐ろしい審判となった。人民は、すでにこの強盗政府にたいする自分の判決をくだしている。革命はこの判決を執行するだろう」(レーニン「壊滅」)

 

ネボガトフ海軍少将

大杉栄とその時代年表(587) 1905(明治38)年5月28日 日本海海戦④ バルチック艦隊の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻。自沈を含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留6隻(ウラジオ着3隻)。兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名。 連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名。大艦隊同士の艦隊決戦としては史上稀に見る一方的勝利。 より続く

1905(明治38)年

5月28日

『直言』第28号発行。

「世界之新聞」欄は「ブンド連合大会」。

ブンド:ロシア、ポーランド、リトアニア在住のユダヤ人から成る革命的労働組合。社会民主党に加盟し、メンシェヴィキ派のマルトフが指導。

5月28日

(露暦5月15日)、イヴァノヴォ・ヴォズネセンスク市に最初の「ソヴィエト(評議会)」結成

ソヴィエト:工場を基礎として一定割合で選挙された全市労働者代表会議(労働者500人につき代表1人を選出)、地区労働者の闘争指導機関。

5月29日

(漱石)

「五月二十九日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。

五月三十日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。          

五月三十一日(水)、午後二時、卒業論文の成綬発表行われる。)」(荒正人、前掲書)

「日本海海戦の直後、野間真綱来て、東郷大将をしきりに褒めるので、「東郷さんはそんなに傑いかね。僕だつてあの位置に置かれたらあれ丈けの任務は立派にやって除けるね。」という。(野間真綱『追想』)」(荒正人、前掲書)

「「午後二時卒薬論文の成績發薮表があった。私のクラスには一名の不合格者もなかった。夏目先生の『そんな事はどうでもいゝ主義』宣誓と、ロイド先生の『太っ腹な樂天主義』との恩恵で私もどうやら『及第の境を徘徊する程度』で三途の川に残留しないで救ひ出されたのだと思った。英文科三年生の卒薬口頭試験は六月十四日に行はれる事になった。」(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)


5月30日

石川啄木(19)・節子、結婚式。啄木の帰郷間に合わず節子のみの式。盛岡で謹慎中の父を考慮し式に欠席(?)。

5月30日

連合艦隊司令長官東郷平八郎、旗艦「三笠」で佐世保着。

ネボガトフ司令官との降伏条件、ロシア皇帝への戦況報告など伊東軍令部長、天皇、承認。

午後0時45分、ロジェストヴェンスキー中将乗船駆逐艦「ベドウィ」、佐世保入港。佐世保海軍病院入院。

6月2日、東郷司令長官・参謀秋山真之中佐ら、佐世保海軍病院にロジェストヴェンスキー中将見舞う。

午後2時30分、「ニコライ1世」他降伏ロシア艦隊、佐世保入港。

ネボガドフ少将は降伏条件に基づき大本営経由で皇帝に報告の電奏を許される。ロジェストヴェンスキー少将も同様。ロジェストヴェンスキーには慰労と武勇を讃える勅電が返るが、ネボガドフにはなし。

ネボガドフ以下降伏将校らは皇帝の許可がなく宣誓帰国ができず、暫く捕虜収容所で過ごすが、やがて「宣誓帰国を准許せず」との報が入り、講和後、他の捕虜と共に帰国。帰国後は、官位を剥奪され軍法会議。ネボガドフら3艦長は死刑宣告、のち禁固10年に減刑。ロジェストヴェンスキーら「ベドウィ」乗組員も軍法会議にかけられるが、降伏時に人事不省であったとして無罪。

5月30日

この日付け幸徳秋水の堺利彦宛て手紙。

入獄中は「安否の報知と用事の外はかけぬ手紙」だが、この日の手紙では、ボストンの教授レーン氏の『The Level of Social Motion』を読んで面白かったこと、クロボトキンの『田野(ママ)、製造所及工場」、エンゲルス『フォイエルバハ論』、ヘッケル『宇宙の謎』 (英訳本)などを読んだことに続いて、


若し夫れ今の僕の宇宙観、人生観を問う者あらば、依然として唯物論者、科学的社会主義者也と報ぜよ。今後六旬の読書と思索と、想ふに此主張を強く固くするに過ぎざる可し。

社会に於ける我等の事業は、多くの迫害にも拘らず目覚しき発達を為せりと聞く。数の自然とは言へ、全国同志諸君の労苦と活動の如何に激しく且つ大なりしかを想うに足る。殊に木下兄の三十二票の如き寧ろ望外の好果なり。快哉を叫ばざらんや。諸君は却て此三箇月間に於て実に数年に価するの仕事を為せり。僕覚へず感謝の涙を堪ふ。


5月30日

独、仏首相にデルカッセ外相の更迭を要求。

6月9日、仏外相、対独強硬策が入れられず辞任。

5月31日

小村寿太郎外相、高平駐米公使にロシアとの講和締結意志伝達と米ルーズベルト大統領に講和仲介依頼訓令。同時に、ロシアを講和につかせるために更に軍事行動が必要かの質問し、回答を求めるよう指示。

5月31日

ロシア、各紙が初めて日本海海戦の敗北を報じる。

責任論が沸騰するが、制海権を奪われても満州での征陸権には影響しないとする強硬論強い。30日の軍事会議でも講和拒否を決定。ロシアはまだ「寸土」も占領されていない。

レーニンは「壊滅」と題し、ロシア軍の連敗はロシアの専制体制(ツァーリズム)の崩壊の引き金になると評価した。


 「朝鮮海峡における海戦は、全世界の政治新聞の注意を引きつけた。ツァーリ政府は、最初、自分の忠良な臣民から苦い真実をかくそうと試みたが、すぐにこのような試みをしてもむだであることを納得した」

  「戦争は、専制のあらゆる腫物をあばき、その腐敗をあますところなく明るみにだし、それが人民から完全に遊離していることをしめし、カエサル的支配の唯一の支柱を撃破した。戦争は、恐ろしい審判となった。人民は、すでにこの強盗政府にたいする自分の判決をくだしている。革命はこの判決を執行するだろう」


5月

~7月初。ハンガリー、ブダペシュト、鉄鉱労働者ゼネスト、3万人

農業労働者2万5千ストライキ。軍隊5千・予備労働者6千動員、逮捕5千。


つづく

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