1905(明治38)年
7月28日
幸徳秋水(35)、出獄。午前5時に巣鴨監獄前に同志が集合し秋水の出獄を迎える。淀橋町柏木の寓居で休養(『平民新聞』第52号事件(「小学教師に告ぐ」)で禁錮5ヶ月となっていた)。
さらに、第53号被告事件(『共産党宣言』)の控訴審は被告の幸徳が病気のため延期に延期を重ね、この時点でも決定を見ていない(第一審判決は幸徳、西川、堺、三被告に対する各80円の罰金刑)。
幸徳は出獄直前から無政府主義に関心を惹かれはじめた。獄中から在桑港の友人アルバート・ジョンソンに宛てた書翰にも、「私は所謂『罪悪』ということについて深く考えるところがあり、結局現在の政府の組織、裁判所、法律、監獄が、実際、貧窮と罪悪とを誘導するものであると確く信じるようになりました……事実を申せば小生ははじめマルクス派の社会主義者として監獄に参りましたが出獄に際しては急進的なアナーキストとして立ち戻りました」と述べ、入獄という体験が、幸徳の国家権力の否定、無政府主義への思想的傾斜の原因になったことを語っている。
大杉栄(20)、午前5時半、巣鴨監獄から出獄する秋水たちを迎えに行く。柏木の秋水宅の歓迎会に参加。
参加者;秋水の母多治、秋水の妻千代子、幸徳幸衛、堺利彦、石川三四郎、徳永保之助、斎藤兼次郎、吉川守圀、福田英子、彫保子、木下尚江、逸見斧吉、原霞外、樋口伝、幸内久太郎、千賀俊月(俊蔵)ら。
7月28日
『直言』第26号発行(通常発行日の7月30日を秋水の出獄日である28日に繰り上げ、「幸徳秋水出獄歓迎号」として発行)
第一面に秋水の写真を囲んで炬火を掲げる天使の像を赤色で印刷し、下段の英文欄に「同志幸徳の出獄」と題し、「上掲の肖像は彼の智性と強い意志を示す鋭い限にも似ず、いかに痩せ細っているかを示すであろう。彼はこの長期間、獄中で下痢を患っていたが、しかし多くの英書を読み仏語を学び、そして今や多大の蓄項した知識と久しく保留していた精力とをもって、われらの運動に新しい刺戟を与うるために帰り来った」と記した。
堺利彦「僕の衷情」:
「君の不在中、平民社が如何に其の重量を減じたか、『直言』の紙上が如何に落莫(らくばく)であったか・・・君の不在中に平民社と『直言』とに何事かあらせては、僕は実に居ても立ても居れぬのだ。然るに今兎に角、大過なくして茲に君の出獄を迎ふるを得た」歓喜の情を述べる。
荒畑寒村「忘れられた谷中村」:
寒村が東北伝道行商の途次、足尾銅山鉱毒問題の中心地、栃木県谷中村に田中正造を訪問し壮烈な光景を目撃し、感奮して執筆した。
7月28日
満州の戦地にある森鴎外(第二軍軍医部長)、妹の小金井喜美子に宛てて、「新派長短歌研究成績報告書」と題する戯文批評を書き送る。
「此頃の明星を見れば詩はわからないものとしてある。分らないとは特別の修養をせねばわからないと云ふことだとさ。(略)短詩から云うて見るが、譬へばこれまでの歌にない、機一髪、ハットおもふやうな処を巧者におさへてゐる。『春曙抄に伊勢をかさねてかさ足らぬ枕はやがて崩れけるかな』晶子。これは『恋ごろも』にある。おなじやうに品くだりらうがはしい嫌はあるがいかにも目前のさまをよく写したのが『小扇』にある。『そぞろなりや閨に筆よぶ夜半のうたなかば枕になかばをつまに』(略)以上晶子先生の事ばかしいふやうだが、跡は大ていあれの口まねだからね。次に長詩で一番ひねつたのは蒲原有明だ。詞をやや自在に使ふことを心得てゐる。(略)これと反対に一番ひねらないのは島崎藤村だ。国語は十分とはいへない。俗語が不調和につかはれてゐる。中にすなほで可なりなのが矢張り短いものにある。薄田泣菫は国語が丸でつかへぬ。『ゆく春』はよまうとするとふき出してしまふ。此頃出た『二十五絃』にも困る。神代の伝統をあんなに手広にとり出してよめるやうな詩にするにはあの百倍千倍の力量がいるのだ。あれを明星で批評を申上げるもおそれ多いやうにあがめてゐる人があるが、気がしれない。(略)前田林外。何か仏教のがはの雑書をのぞいたものと見える。岩野泡鳴。矢張り日本語にあかるくない。それから見ると与謝野鉄幹は流石家元だ。しかし今やうの事を七五で達者にやつてゐるといつか浄るりになつてゐるからをかしい。それから学者ぶつてあやしい事をいふにも困る。短歌、晶子にはかなはない。ここに一つをかしい事がある。それは此連中のごく若手に所謂新体詩の大家よりうまいのが出て来た事だ。石川啄木や平野万里がそれだ。平野は於菟坊と一しよにそだった久保だといふにはおどろいた。あれ等は泣菫なんぞより想像も豊富で国語もよく使ひこなしてゐる。大家先生しつかりせぬと子供にまけるやうだ。(略)」
7月29日
桂=タフト協定成立
ルーズベルト政権陸軍長官。
米のフィリピン優越権と日本の朝鮮優越権(保護権の設定)。
8月7日、大統領は協定承認を日本に通告。日本の韓国保護国化は、アメリカ(桂=タフト協定)、イギリス(8月12日第2回日英同盟)、ロシア(9月5日ポーツマス講和条約)に認められることになる。
7月29日
片岡北遣艦隊司令長官に、「北遣艦隊は天候の障碍を冒して陸軍を護送し其上陸を完ふせしめて樺太占領の基礎を成せり 朕深く之を嘉尚す」との勅語が下る。
7月30日
樺太攻略 。樺太北部ロシア軍降伏。上陸以後24日間。死傷者なし。
この月より、樺太民政長官が統治。1907年4月樺太庁設置、初代長官は樺太守備隊楠瀬幸彦(陸軍大将)が兼務。
7月30日
荒畑寒村、友人鈴木秀男の葬儀のため帰京。
7月30日
講和問題同志連合会の大演説会。歌舞伎座。正午~午後7時。弁士15人、破談を主張。
7月30日
バーゼルのシオニスト会議、1903年にバルフォア英首相が提唱したアフリカのウガンダをユダヤ人の祖国とする案を拒否。パレスチナの地を要求。
7月末
ハンガリー、内相クリシュト・ヨージェフと社会民主党指導部協定。警察の監視緩和、農業労働者の組織公認、選挙権拡大提案と組織労働者の政府支持。
つづく

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