2025年8月19日火曜日

大杉栄とその時代年表(591) 1905(明治38)年6月17日~20日 「対露硬同志会の豪傑連と、彼の英雄的博士組との気焔の凄まじさ想ふべし。戦争の当初、野蛮なる敵愾心を煽動せんがためには、是等の英雄豪傑も亦甚だ必要なる道具なりしが、今や外交の舞台となりては、さすが政府も少々持余しの気味に見受けらるゝこそ笑止なれ」(『直言』第20号社説「平和に急げ」)

 

近衛篤麿

大杉栄とその時代年表(590) 1905(明治38)年6月9日~14日 「理は此方にあるが権力は向ふにあると云ふ場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、又は権力の目を掠(かす)めて我理(わがり)を貫くかと云へば、吾輩は無論後者を択(えら)ぶのである」(漱石「吾輩は猫である」(四)) より続く

1905(明治38)年

6月17日

夜、天皇、ロシア領樺太侵攻作戦、裁可。

〈経緯〉

樺太攻略;初めてのロシア領占領で日露戦争の講和条件を好転させた


参謀次長長岡外史は、開戦直後から樺太占領を主張し続けてきたが、兵力の分散を避けたい陸海軍首脳部の賛同を得らなかった。 その後、講和問題が日程に上ると、児玉源太郎大将や小村寿太郎外相の賛同を得て、長岡外史の樺太占領計画は息を吹きかえした。 また、日本海海戦後は海軍の協力が得られるようになり、樺太占領作戦決行が決まった。

この年5月1日から、作戦を担当する新設の第13師団の各部隊が弘前と敦賀に集結を開始。

6月17日、樺太占領作戦は天皇の裁可がおり、翌18日、原口兼済中将が指揮する2個旅団編成の新設の独立第13師団に出動命令が下る。

7月4日に青森県大湊港を出発した樺太南部占領部隊(第13師団第25旅団:旅団長は竹内正策少将)は、片岡七郎中将が率いる連合艦隊の第3・第4艦隊と第1駆逐隊(第1艦隊から臨時に転属)からなる北遣艦隊に護送され、7月7日には樺太南部のアニワ湾(亜庭湾=東伏見湾)岸のメレヤ(女麗)村に上陸。

樺太防衛のロシア軍は、樺太防衛には不充分な規模で、部隊には頑強に抵抗することなくパルチザン行動にうつるようにとの命令が下っており、大規模な抵抗なく日本軍は樺太に上陸。

9日、砲火を交えず樺太南部のコルサコフ(日本名:大泊)を占領、10日にはホムトフカ(清川)を経てウラジミロフカ(のちの豊原)を占領。ロシア軍は北方の密林地帯であるダーリネー(軍川)付近まで後退。

12日、ウラジミロフカ西方のダーリネー村に近い密林で、日本軍はロシア軍主力を「撃破して二百余人を捕虜に」した。

16日、ロシア軍指揮官アルツィシェフスキー大佐が降伏交渉を申し出る。

7月24日、第2次上陸部隊(第13師団第26旅団)は、北部のアルコワ付近に上陸を開始し、27日までに北樺太の要衝であるアレクサンドルフとルイコフを占領。

ロシア軍部隊は南方のオノールにまで退却し、そこでロシア軍長官のリャプノフ中将は、7月31日に降伏勧告を受けいれる。


6月17日

在米ロシア人自由協会代表ニコライ・ラッセル、麹町富士見軒での経済学協会例会で講演。23日、習志野の俘虜収容所で演説。現政府打倒・立憲政体実現を訴える。

ラッセルは、在日ロシア兵俘虜の間に新聞書籍を配布し自由思想を鼓吹する目的で来日。彼は米国に帰化したロシア人で布哇(ハワイ)の上院議員だったこともあり、リョフ・デイチ(幸徳秋水訳『革命綺談 神愁鬼哭』の原著者)の旧友。

17日の講演では、諸種の実例を引用して「世界の富はすでに余裕あり、もし十九世紀が自然征服に費やされたとすれば二十世紀はまさに社会的、政治的改造のために費やさるべく、その最も重要な改革は富の分配であろう。世界平等の教育、平等の文明は各国民の精神的結合を実現し、次第に人類的大家族を形成せんとする傾向を示している。諸君は日本封建制度の消滅を実見した、まさに世界に来らんとする大封建制度の消滅に関しては、諸君は最良の審判者であろう」(大意)と述べた。

23日の講演では、「今回の戦争はもとより武断派の頑迷に起因し、国民の利害に関係はない。諸君が戦闘に従ったのは祖国のためではなく、頑迷者輩の欲望の犠牲に供せられたに過ぎない。ロシアの為政者がなお反省しなければ、フィンランド、ポーランド、カフカーズ等はいずれ独立し、シベリアは列国に分割されるだろう。諸君が祖国将来の長計を想うならば、須(すべか)らく現政府を顚覆して立憲政体を実現しなければならぬ」と説く。

6月18日

『直言』第20号発行

社説「平和に急げ」(大要)

吾人は米国大統領の講和提議を正義、人道の美挙とするものではない。フィリッピンを掠奪した帝国主義アメリカは、今や羊皮を被って平和の提唱を試みたるに過ぎないからである。しかし今は、アメリカ帝国主義を批判すべき時ではない、日露両国民をこの凄惨な戦禍から救い出す機会を与えられたために、むしろ多少の謝意を表さなければならぬ

両交戦国は平和法廷の訴訟人であって、判官となることは出来ない。実際上、戦勝国の要求が力をもつことは認めるが、しかし戦いに勝ったからといって、すべての主張を正しいとすることは非理である。開戦の正理は日露両国の主張であって、かくの如きは戦争の常であるから、勝敗によって正邪を分つことは太古蛮民の迷信を再現するにはかならない。しかるに日本の学者、論客、志士、政治家が講和の条件として、ロシアが満洲で支那から得ていた一切の利権を得ようというのは、ロシアの侵略主義政策を日本に継承せしめようとするにはかならない。

ロシアをして米国の提議に賛成せしめるのは、ロシア国内の革命運動の一大功績であって、もしロシアをして戦後ふたたび軍備拡張の暴挙に出でさせまいとするならば、是非ともロシア革命を成就させなければならぬ。顧みてわが国の世論を考えると、実に慚汗(ざんかん)背を潤おす感を禁じ得ない。日露両国の政府は小我を棄てて、速かに講和の堂に上るべきである

それなら、講和に関するどんな世論が、『直言』記者に慚汗背を潤おさしめたのか。まず進歩党の講和条件は、

一 サガレン島(樺太)の割譲

二 ウラジウォストーク港の永久自由化

三 沿海州の漁業権獲得

四 東清鉄道の日本領有

五 満洲におけるロシア既得権の日本継承

六 償金二十億円の対日提供"

しかし、これなどはまだ軽い要求の方で、いわゆる大学七博士の条件となると、

一 償金三十億円

二 樺太、カムチャツカのみならず沿海州全部の割譲

三 遼東半島(支那)におけるロシアの既得権全部の譲渡

四 東清鉄道および其敷地の譲渡

五 シンガポール以東にあるロシア逃竄(とうざん)艦船の譲渡

六 満洲にあるロシアの鉱山その他の敷設物の譲渡

七 太平洋および日本海におけるロシア艦隊駐留の禁止

八 バイカル(シベリア)以東のロシア守備兵制限

九 ロシアは日本の承諾なくして、支那の土地に関する利権を得てはならぬ

さらに対露硬同志会の条件に至っては、

一 ウスリー沿海州(黒竜江右岸)および樺太の割譲

二 東清鉄道および満洲における租借地の譲渡

三 満洲における軍隊の撤退、一切の利権ならびに将来の発言権抛棄

四 償金三十億円

五 中立港に逃竄して武装解除したるロシア艦船の譲渡

六 黒竜江の通航および漁業権の獲得、ならびにプラゴウェシチェンスク、ストロイチンスクの開放

「対露硬同志会の豪傑連と、彼の英雄的博士組との気焔の凄まじさ想ふべし。戦争の当初、野蛮なる敵愾心を煽動せんがためには、是等の英雄豪傑も亦甚だ必要なる道具なりしが、今や外交の舞台となりては、さすが政府も少々持余しの気味に見受けらるゝこそ笑止なれ」と、『直言』記者は冷笑している。

6月18日

ハンガリー、フェイエルヴァーリ・ゲーザ内閣。~1906年4月18日。「近衛兵」内閣。

6月18日

永井荷風(26)、カラマズ・カレッジの聴講生を終了し、この日、ペンシルバニアに学ぶ友人に会うため、カラマズを出てナイアガラの滝近くのキングストンに到着。そしてニューヨークに移動。

6月30日、マンハッタンにいる従兄の永井松三を訪ねる。

永井松三は荷風の父親の弟・永井松右衛門の長男。荷風より2歳8カ月年長。一高から東京帝国大学法科の政治学科を卒業、外務省に入る。このときはまだ大学を出て3年目で、ニューヨークの日本領事館に勤めていた。天津やニューヨーク、ワシントンに勤め、後年外務次官となり、昭和8年には特命全権大使としてドイツに赴いている。

6月20日

「中学世界」増刊号に竹久夢二の投稿挿絵「筒井筒」が掲載(竹久美人画の登場)。

6月20日

講和全権に小村外相・高平公使が決定。


つづく

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