1905(明治38)年
7月8日
緊急勅令第194号公布。臨時軍事費支弁のためロンドン・ニューヨークで募集する公債の件公布。4分半利付・第2回、英貨公債3千万ポンド募集。
7月8日
永井荷風、この日、「△△子(従兄の永井松三)と四方山のはなしの末……」「米国の生活の更に余の詩情を悦すものなきを歎じ仏蘭西に渡りて彼の国の文学を研究せん事の是非を問ひぬ」とある。荷風にとっては一生の問題を相談している。商売とか実業の方面で道を切り開くより、やっぱり文学をやりたい。そのためにはフランスへ行きたいと思っていたが、父親に相談すれば反対されるに決まっている。
松三は荷風の意向に賛成し、「先づ其の旅費を才覚すべく暑中休暇を労働に当つべし」と言ってくれた。そればかりか、ワシントンの日本公使館に一時的なアルバイの世話もしてくれた。
7月19日、荷風はワシントンに移り、公使館に居住する。ワシントンの夏は過酷なもので「車中炎熱殆ど忍ぶ可からず」、温度計を見ると華氏百十度(摂氏で四十三度) だったという。
日露戦争終結に当たって公使館の業務が多くなり、人手を求めたのであった。荷風に与えられた仕事は「毎朝役人の出勤する前に事務室を掃除し郵便物を調べ電話の取次をなし新聞を取揃へる」くらいのことで、「夜間は読書の暇充分」。したがって「日露談判結了の日までこゝに労働し其の給金と故国よりの送金とを合算して秋風と共に一躍大西洋を越えて仏蘭西に行かん」と『西遊日誌抄』に記している。
7月8日
米人メイ・サットン、ウィンブルドン・テニス大会で優勝。初の英人以外の優勝者。
7月9日
樺太、第13師団第25旅団、コルサコフを進発し北進。
10日、第49連隊がウラジミロフカ(豊原)に進出。
11日、第49連隊第1大隊を先発、第50連隊(向井斉輔中佐)を主力としてダーリネーに向う。
12日午前8時40分、第50連隊第1大隊(西久保豊一郎少佐)が突進。損害出しながら敵陣突入、9時10分、ロシヤの南部樺太守備隊は逃走。損害:戦死14(西久保少佐ら)・負傷63。
7月9日
「講和問題同志連合会」結成。対露同志会、対外硬の代議士、弁護士団体、黒龍会など9団体。
委員:大竹貫一(45)、河野広中(55)、小川平吉(35)、黒龍会内田良平・高田三六・高橋秀雄・佃信夫など19人。
7月9日
『直言』第23号発行。
堺利彦「平民社より」
堺は「枯川」という雅号を廃すると宣言。深い意味はないといいつつ、少年、軍人、大臣、金持ちなど、誰もがキザで俗悪な号を使うのを見て不快や不安を感じている、と述べている。
この雅号廃止宣言はさまざまな反響を呼んだ。安部磯雄はすぐに「吾等は匿名の下に人を攻撃する様な卑劣な考はないから、天下何処にいっても、親の附けて呉れた名が一つあれば、充分だ」と葉書で賛辞を寄せた。もともと安部磯雄、木下尚江、片山潜などは号を持っていなかった。
一方、石川三四郎は「旭山、不尽」、西川光二郎は「白熊」という号を用いることもあり、幸徳秋水の「秋水」はもちろん雅号だ。結局、幸徳秋水、山口孤剣、荒畑寒村などは堺に追随せず、自柳秀湖も堺から「自柳君は号を廃さぬ方がよい」といわれたこともあり、雅号を使い続けている。
のちに秀湖は、当時の堺はかなりせっばつまった気持ちになっていて、世間の文学者並みに「枯川」という雅号で文章を書いたり、同志に呼びかけることができなくなったようだ、と推測している(『歴史と人間』)。さらに、秀湖によれば、堺の雅号廃止は平民社をめぐる人々はもちろん、文壇人にも注意を呼び起こした。徳富蘆花も雅号を廃して「健次郎」と本名で署名するようになったが、これは堺の影響だと本人が断っているのを、秀湖は何かの雑誌で読んだという。
中野好夫の評伝『蘆花徳富健次郎 第二部』によれば、1906年1月13日付の蘆花から石川三四郎宛の書簡に追伸があり、「小生は、堺利彦兄に倣ふて『蘆花生』の号を廃したり。今後は徳冨健次郎を以てすべての場合に御呼び被下度候」と書かれている。この私信の文面は、『新紀元』紙上に転載されている。
しかし、「徳冨蘆花」という名前は、当時「全国少女の憧憶の目標」だった。そのため、本人の希望に反して「蘆花」の号は使われ続け、中野好夫も「お気の毒だが致し方ない」と書いている。
中野好夫は堺の雅号廃止を、キザで俗悪な号への嫌悪から廃することにしたのだろう、「ただそれだけの話」としている。しかし、秀湖は、雅号廃止の決断をした背後には、堺の突きつめた心持ちがあったと記している。
堺が雅号で「同志に呼びかけることができなくなった」理由とは、平民社の解散につながる問題でもあった。それまでの同志相互の信頼関係に亀裂が生じた結果、「日本社会主義の拠点」はこの時点で空中分解してしまう。
問題の一つは、幸徳秋水の健康状態にあった。元来、秋水は身体が丈夫ではなかったが、獄中で病気になり、その後も体調を崩していた。
『直言』第24号の「平民社より」によれば、堺は延岡為子と巣鴨監獄の秋水に面会に行き、出獄後はしばらく養生するように勧めたところ、秋水も1、2ヵ月養生してアメリカにでも遊んでみようか、と話したという。
だが、非戦論を掲げて闘っている平民社にあって、秋水のアメリカ行きは敵前逃亡のようなものなので、堺は、平民社と周囲の人々には、その計画をしばらく隠していた。
さらに、もう一つの問題。
『直言』第29号の「平民社より」で、堺は、秋水・西川の不在中、不行き届きが多かったと謝罪し、自分の力量不足と信任の欠乏を認めた上で、しばらく平民社の経営責任者を去るのが当然だと述べた。
さらに次のように書く。
▲それに、小生は別に一身上の事情もありまして、家庭雑誌を発行して居る由分社の経営を助ける事になりましたので、数日前より麹町区元園町一丁目廿七番地に移り住み、こゝに由分社を置き、家庭雑誌の外に少しつゝ出版を試むる事になりました。小生は今後之を以て一身の衣食を支へる積りであります。而して延岡為子氏も亦た此の事業を助ける事になりました。
「一身上の事情」とは為子との結婚だった。
7月10日
荒畑寒村(18)、第2次伝道行商出発。
この日草加。11日大相模村。12日西方村。14日上都賀郡谷中村で田中正造と面会。通信文「忘れられた谷中村」。
16日佐野町。17日栃木村。18日鹿沼で車を預け西大葦村。巡査2人尾行。
19日足尾銅山に向う。午後3時、労働至誠会(長岡鶴造)入り。4日間滞在。
24日足尾~中善寺~日光。25日鹿沼に戻り、車を持って宇都宮。
26日市内小幡町の有限責任購買組合を訪問(会員160余、石川三四郎「消費組合の話」(平民文庫)が設立の契機)。27日氏家町。28日錫掛村。29日芦座町で鈴木秀男戦死を知る。
30日午後鈴木秀男葬儀通知を受取り横浜に戻る(葬儀には間に合わず)。第2次伝道行商は3週間で47冊のみ。
7月10日
「萬朝報」、選挙権拡張を主張し、戦時下に積もった民衆の不満を疏通させるためにも「戦後経営の第一事業」としてこれを実行せよと論じる。
7月10日
(漱石)
「七月十日(月)、菅虎雄夏休みで東京に帰る。
七月十一日(火)、雨。東京帝国大学の卒業式に出席する。午前十一時、明治天皇行幸する。午前十一時五十分から、午後一時近くまでかかる。山川健次郎総長祝辞をする。(松根豊次郎(東洋城)、東京帝国大学文科大学法律学科を卒業する。)
七月十三日(木)、東京帝国大学文科大学英文学科の入学試験の監督おえる」(荒正人、前掲書)
7月11日
兵庫県の塩田人夫3,600人、特別手当の減額に反対し、ストライキ。
7月11日
セオドア・ルーズベルト米大統領、日露和平交渉を提案。
つづく

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