1905(明治38)年
5月19日
啄木、帰盛のため東京発。鉄幹からの餞別15円で節子への土産にバイオリンを買う。
20日夕方、仙台下車。大泉旅館泊。盛岡高等小学校時代の友人で仙台医専在学中の猪狩見龍・小林茂雄と遊び土井晩翠を訪問。「母重態」という妹光子の偽手紙を作り晩翠夫人から15円借用、仙台一流の旅館(大泉旅館)に10日余り滞留。
5月19日
津軽海峡防御司令部、設置。司令官宮岡直記大佐(大湊水雷団長)。
5月19日
三井物産合名会社傭船ノルウェー船「オスカル2世」、バタン海峡でバルチック艦隊に臨検。解放。この日、バルチック艦隊はルソン海峡を通過して太平洋にでる。
5月20日
(漱石)
「五月二十日(土)、午後、野間真綱・皆川正禧来て、夜まで閑談して帰る。『七人』三冊あったので、一冊ずつ与える。
五月二十一日(日)、夜、『琴のそら音』を読み、気の抜けたように感じ、「婆さん」の扱いが不自然だと思帝国大学文科大学書記の松永武雄に伝える。
午後、高浜虚子に招待されて能を見に行く。
五月二十二日(月)、休講。論文読む。
五月二十三日(火)、休講。論文読む。若月保治宛手紙に、新聞に掲げられた絵にふれて、「其時は第一に大學を辭職して千駄木で豚狩をして遊びます。」と書く。
五月二十四日(水)、五月初旬以来卒業論文の審査全て了える。」(荒正人、前掲書)
5月21日
『直言』第16号発行。
「露骨なる選挙干渉」(「日本之新聞」欄);
「一個の政治家あり、一国の人民に推されて候補者となり、同志数輩と共に選挙運動を試む、是れ憲法治下に於ける明白なる合法的行為なり。江間氏も是れ也、林氏も是れなり、彼の煩苛(はんか)なる選挙取締規則の一条一項と雖も之を禁止妨害すること能はず。而も政府は木下氏の運動に限り、此の合法的行為に対して彼の如き干渉を敢てせり、之を無法と言はずして将た何とか言はんや」
「治安警察法の存する限りは、政府は其の欲するが儘に憲法を蹂躙し、法律を無視し、如何なる兇暴と雖も為(なさ)んと欲して為し能はざるの事なし。民権の為に起れりと称する諸政党が、政府をして斯くの如き法律を作らしめ、而も恬然(てんぜん)として恥づる事を知らざるは真に驚くに堪へたるものあり。又世の政治家、新聞記者の輩が眼前に此の露骨なる選挙干渉の事実を見ながら、一言半句の攻撃の声をも発し得ざるは気の毒にも亦哀れなる次第と謂ふべし」
社会党の樹立(東京市補欠選挙の結果)」(「日本之新聞」欄);
「政府は無法にも形式上に於て社会党の存在を禁止せり、然れども憲法治下の選挙場裡に於て社会主義の候補者が兎も角も数十個の投票を得たるは、是れ豈(あ)に厳然たる事実に非ずや。・・・木下氏は・・・日本社会主義の同志に推薦せられ、明白にその主義政見を発表して立ちたる也。而して彼は兇暴なる政府の干渉と過重なる制限選挙法との下に於て、猶ほ且つ三十二個の投票を得たる也。是れ豈に厳然たる社会党の樹立に非ずや。社会党は今日以後、常に進んで政界の実際運動に着手し、悉く彼の紳士閥諸党派を敵とし、普通選挙の大武器を以て彼等に肉薄し他年一日、最後の決戦に於て大勝利の獲得を期すべき也。」
5月21日
バルチック艦隊、台湾東方海上、北上。
5月21日
イタリアで鉄道国有化法案可決される。
5月22日
三井物産口ノ津支店、海軍軍令部・佐世保鎮守府に通報。
5月22日
沖縄の帆船「宮城丸」、宮古島沖でバルチック艦隊と遭遇。
5月22日
ハーグ国際仲裁裁判所、日本と英独仏間の元居留地上家屋課税に関する提訴に判決。日本敗訴。
5月22日
バルチック艦隊、沖縄本島と宮古島の間の西南諸島線を突破、東シナ海に入る。
5月23日
午後4時、「オスカル2世」号の情報、軍令部次長伊集院五郎中将より連合艦隊に届く。臨検士官が「対馬海峡に向う」と述べたのは日本側を混乱させるためのものという見方が連合艦隊司令部では支配的で、北進論が浮上。
5月23日
宮本三郎、誕生。
5月23日
バルチック艦隊、沖縄西方海上到達。ここで、18日に続き、各艦は石炭を満載する。この日、「オスラビア」座乗の第2戦隊司令官フェルケルザム、病没。
この日午前10時、那覇の宮城仁王所有マーラン船(琉球帆船)「宮城丸」と接触。中国のジャンク船と判断して解放(実は日本船)。
奥浜船頭は、25日午前9時、直ちに宮古島庁に報告。
5月24日
連合艦隊司令長官東郷大将、各戦隊司令部に北進を指示する「密封命令」を交付。
5月24日
連合艦隊司令部から大本営に、艦隊の北方移動を表明した「北進第1電」が入る。大本営は現状に留まるべきという意見が支配的。
5月24日
17日にイギリスから提議された、日英同盟の強化を閣議決定。
5月24日
(露暦5/11)露、バクー県知事暗殺。アルメニア民族主義者の実行。
5月25日
京城(ソウル)で、京釜鉄道開通式挙行。日本の特派大使博恭王出席。
5月25日
連合艦隊旗艦「三笠」艦上で軍議。連合艦隊兼第1艦隊参謀長加藤友三郎が招集。第2艦隊司令長官上村彦之丞ら各艦司令官・参謀が出席。
席上の空気は殆ど北進(津軽海峡移動説)が支配。第2艦隊に北進反対の空気があるが、第2艦隊司令長官上村彦之丞は北進賛成発言。
反対は第2艦隊参謀長藤井較一大佐のみ(孤軍奮闘)。ここに第2戦隊司令官島村速雄少将が遅れて出席、北進反対を具申(遠路航海をしてきたバルチック艦隊は、太平洋を宇回しない)。軍議の空気は一転し、暫く待つとの結論となる。
5月25日
午前9時、「宮城丸」水夫が宮古島警察署で23日にロシア艦隊に出会ったと報告。
午後、後に「久松五勇士」と称される5人が集合。
翌朝、電信所のある石垣島への伝令となり出発。
5月25日
午後3時37分、翌日(26日)正午までに敵艦を発見できない場合は北進すると軍令部へ電報。軍令部は伊東大将・伊集院次長とも北進見合わせの意見。
5月25日
(漱石)
「五月二十五日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時あら十二時まで「英文学概説」を講義する。ロイドと合議して論文の採点結果を事務課に渡す。
五月二十六日(金)、山県五十雄宛手紙に、教授や博士になるよりも文章を書いて認められたほうが嬉しい、と書く。」(荒正人、前掲書)
5月25日
ロシア、イワノヴォ・ヴォズネセンスク、ストライキ開始。最初の労働者代表ソビエト結成(~8月4日)。
つづく

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