2025年8月26日火曜日

大杉栄とその時代年表(598) 1905(明治38)年8月2日~10日 「事実を申せば、私は初め『マルクス』派の社会主義者として監獄に参りましたが、出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆に立戻りました。ところが此の国に於て無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑を求めることに外ならず、危険千万でありますから、右無政府主義の拡張運動は、全然秘密に之を取運ばざるを得ません。(略)私は次の目的から欧米漫遊をし度いと思って居ります。(略)若し私の健康が許し、費用等も親戚や友人達から借り集めてこれを調達することが出来ましたら、私はこの冬か来春のうちには出発したい考で居ります。(略)」(幸徳秋水のアルバート・ジョンソンへの手紙)

 

幸徳秋水

大杉栄とその時代年表(597) 1905(明治38)年8月 「兎に角日本は今日に於ては連戦連捷 - 平和克復後に於ても千古空前の大戦勝国の名誉を荷ひ得る事は争ふべからずだ、こゝに於てか啻(たゞ)に力の上の戦争に勝ったといふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じ得るであらう。」(漱石の談話「戦後文界の趨勢」) より続く

1905(明治38)年

8月2日

ロシア講和主席全権大使、ニューヨーク着。

4日、ウィッテ、ルーズベルト訪問。ロシアの不利な条件拒否。賠償金も拒否の態度示す。

8月3日

(漱石)

「八月三日(木)、浜武元治の就職の件で、山形県立庄内中学校長羽生慶三郎来る。

八月四日(金)、野村伝四宛葉書に、「事業如山多く時間かくの如く短かし僕が二人になるか一日が四十八時間にならなくて〔は〕到底駄目だ。」「千駄木は不相變豚臭くて厄介だ。」と書く。(署名は「こまる先生」)」(荒正人、前掲書)


8月5日

日・ロシア両国全権の初顔合わせ。ルーズベルト大統領専用ヨット「メイフラワー」号上。

8月6日

幸徳秋水(35)、小田原の医師加藤時次郎の別荘で出獄後の身を養う。24日帰京。

8月6日

幸徳秋水「柏木より」(「直言」)。獄中生活の報告。

8月7日

(漱石)

「八月七日(月)、中村鈼太郎(不折)宛手紙に、『吾輩は猫である』の挿画を依頼する。

八月八日(火)、夜、橋口清(五葉)来る。『吾輩は猫である』の表紙その他に就いて相談し、依頼する。

八月九日(水)、晴天、風強い。野村伝四宛葉書に、「今日晴天大風にて障子を立て切り密室内にて空気風呂に入浴仕候處至極工合宜敷(後略)」と書く。」(荒正人、前掲書)

8月7日

ロシア側委員、陸路ポーツマス着。巡洋艦「チャタヌーガ」乗船。

8月8日

日・露両国全権、ポーツマス上陸。ホテル「ウェストウォルス」入り。

8月9日

午前10時、両国全権(日本側主席全権小村寿太郎、全権高平小五郎駐米日本公使。ロシア側主席全権セルゲイ・ウィッテ大蔵大臣ら)、非公式講和予備会談。仏語使用。2回/日会議など運用取決め。

〈交渉開始から調印迄の概観〉

仲介をつとめたアメリカ大統領ルーズヴェルトが指定したポーツマスにおいて、日露講和交渉開始。

交渉にあたり、日本政府は閣議で講和条件案を決定(1905年4月21日)

そこでは ①韓国を日本の自由処分に委すこと 

②日露両軍の満州撤兵 

③ロシアが清より得ている遼東半島租借権およびハルビン-旅順間の鉄道譲渡 の3点が「絶対的必要条件」とされている。 

会議開催日程

   8月 9日 非正式予備会議

   8月10日 第1回本会議

   8月12日 第2回本会議

   8月14日 第3回本会議

   8月15日 第4回本会議

   8月16日 第5回本会議

   8月17日 第6回本会議

   8月18日 秘密会議,第7回本会議

   8月23日 秘密会議,第8回本会議

   8月26日 秘密会議,第9回本会議

   8月29日 秘密会議,第10回(最終)本会議

   9月 1日 非正式会見(当日2回開催)

   9月 2日 非正式会見(当日2回開催)

   9月 5日 講和条約調印


第6回本会議までには日本側の求める講和条件はほぼロシア側も認めるところであったが、

①樺太(サハリン)割譲 ②賠償金の支払い ③ロシア艦艇の引渡し ④ロシアの極東における海軍力の制限 の4点をめぐって対立が続く。特に①樺太の割譲と②賠償金の獲得は、日本の国内世論が強硬化していたこともあり日本側としては譲れない条件となっていた(当初は「比較的必要条件」という位置づけ)。

このため一時は交渉決裂も危惧されたが、日本側は賠償金断念・樺太の割譲は南半分のみと譲歩し(第8回本会議)、講和成立を優先させた。

8月29日の第10回本会議で日露双方は講和条件に合意し、その後の非正式会見による調整を経て9月5日午後3時に日露講和条約の調印式となる。公布は10月16日、批准交換は11月25日。

ポーツマス会議の首席全権小村寿太郎は、講和条約締結直後に病に倒れる。そして、帰国した病み上がりの小村を待ち受けていたのは、都市部を中心に高まっていた講和反対運動であった。


8月10日

幸徳秋水、無政府主義者への転向を吐露。休養先の小田原より、この日付のサンフランシスコの友人(アナキスト)アルバート・ジョンソン宛手紙。

アルバート・ジョンソン(ジョンソン老人):

アメリカの無政府主義者、秋水は前年から文通している。無政府主義者クロボトキンを秋水に紹介した。


「事実を申せば、私は初め『マルクス』派の社会主義者として監獄に参りましたが、出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆に立戻りました。ところが此の国に於て無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑を求めることに外ならず、危険千万でありますから、右無政府主義の拡張運動は、全然秘密に之を取運ばざるを得ません。(略)私は次の目的から欧米漫遊をし度いと思って居ります。(略)若し私の健康が許し、費用等も親戚や友人達から借り集めてこれを調達することが出来ましたら、私はこの冬か来春のうちには出発したい考で居ります。(略)」


秋水はジョンソンに、次のように書いた。

5ヵ月の禁錮生活は健康を害ったが、社会問題に関する多くの知識を得たこと、罪悪について深く考え、実際に貧窮と罪悪とを誘発するものは、結局は現在の政府の組織、裁判所-法律-監獄であると確信するようになったこと。

獄中での読書の主なものは、ドレーバーの『宗教学術の衝突』、へッケル『宇宙の謎』、ルナン『耶蘇伝』など、それにジョンソン老が送ってくれたラッド『ユダヤ人及クリスチャンの神話』と、クロボトキン『田園、工場、製作所』とは幾度も読み返した。

秋水は続けて、事実を申せば、「私はマルクス派の社会主義者として入獄」したが、出獄する時は、「過激なる無政府主義者」となった。しかし、日本で「無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑」を求めることになるので、「危険千万」だから、無政府主義の拡張運動は、秘密に取運ばざるを得ないので、運動の進歩と成功とを見るには、長い年月と忍耐を要すると考えること。

そこで、次のような目的から欧米漫遊をしたい、と記している。

一、コムミニュスト又はアナーキストの万国的連合運動に最も必要な外国語の会話と作文とを学ぶため。

二、多くの外国革命党の領袖を歴訪し、そして彼等の運動から何物かを学ぶため。

三、天皇の毒手の届かない外国から、天皇を初めとし其の政治組織及経済制度を自由自在に論評するため。


このジョンソン老への手紙は、秋水の無政府主義への転化の時期を示唆し、3ヵ月後の渡米の意図についての貴重な参考資料。「天皇の毒手の届かない外国」という表現も、秋水の天皇制意識として解釈できる。

8月10日

ポーツマス、日露講和会議。午前10時15分、本会議開始(第1回)。12条の日本側条件示す。


つづく

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