1905(明治38)年
12月30日
稲垣浩、誕生。映画監督。
12月30日
徳富蘆花(38)、これまでの生活を根本から改めるため、千駄ヶ谷の借家を引き払い伊香保温泉へ移り住むことを決意。この日、「山へ転居」と書いた紙を門に貼り付け、差しあたり正月を逗子の父母のもとで過すために、新橋駅から汽車に乗る。
■蘆花と前田河広一郎
新橋駅には前田河広一郎(18)が見送りに来ていた。
前田河は、仙台の生れで父は大工。宮城県立第一中学校を中途退学して上京、苦学生の友人の神田の下宿に1ヶ月以上も滞在していた。蘆花の愛読者だった彼は、この年の秋、「思出の記」の巻末に書かれていた蘆花の原宿の家まで神田から歩いて行った。
蘆花邸では応接室に通され蘆花と面会することができた。
前田河広一郎は、自分は前から先生を尊敬し、先生の作品を読んで来たものであるが、先生の所で書生として使って頂きたい、と言った。2年前の明治36年、同じ仙台出身で、第二高等学校医学部を中途退学したという真山彬という文学青年が訪ねてきたときは、蘆花は、自分には人の師になる資格はないと断った。
しかし、今回はこの青年の律儀そうなところが蘆花の気に入った。彼は前田河に言った。
「私の宅で麦めしを食べて下さるということは、主義でないから出来ない相談です。けれども何か書いたものがあるなら見せて下さい。じゃ、こうしましょう。一つ抒情文のようなものと、叙事文のようなものと、その作文の課題のような二つを持って来て拝見させて下さい」
二週間待って下さい、と言って前田河は神田の友人の下宿へ帰った。友人もその話を聞いて喜んだ。しかし二週間が過ぎ、三週間目になっても前田河は文章を書くことができなかった。参考書がなかったので、彼は神田の本屋を一軒一軒立読みして歩き、駿河台の坂を下りたつき当りにある洋書輸入商の中西屋でべインの英文の「ロシア文学史」を拾い読みしたり、民友社から出ている「マキシム・ゴルキー」を読んだりした結果、毛筆で半紙五十枚ほどに「マキシム・ゴルキーを論ず」という文学論めいたものを書き、1ヶ月目に蘆花のところへ持って行った。
蘆花はその間、民友社へ出かけて校正かなにかの仕事がないかとたずねたが、今のところ空きはないとのことであった。前田河が原稿を持って来た日、彼はそれをすぐ半分ほど読んで「ふむ、面白い」と言った。ちょうど、「新紀元」を出したばかりの石川三四郎のところへ行く用があったので、蘆花は前田河を連れて渋谷から院線電車に乗った。前田河は、電車の中の大学生たちを見て内心得意になって考えた。「見ろ、おれはいま、天下の徳富蘆花と一緒に乗ってるんだぞ。」
結局、前田河は石川三四郎の「新紀元」の校正を手伝うことになった。
そのあとも時々前田河は原宿の徳富家へやって来た。蘆花は彼の身なりのみすぼらしいのを見て、古くなった鳥打帽や二重廻しをくれてやった。また小遣銭をやった。前田河は烏打帽はかぶったが、紳士然とした二重廻しは着たこともないものだったので、すぐ売りとばして、大好物の菓子を買って食べた。
この12月30日、新橋駅へ見送りに来た前田河は、その二重廻しを着ていなかった。寒そうにしている前田河を見て、蘆花は、あの二重廻しは牛鍋に化けたんだな、と思って黙っていた。
12月末
伊藤左千夫が小説「野菊の墓」を書いて、「ホトトギス」の文章朗読会なる山会に持参し朗読。
この年、山会は、しばしば夏目家で開かれていたが、妻鏡子の出産が近づいたので、年末頃は高浜家で開かれた。夏日は原稿で多忙であったので、それに出席しなかった。
文章は、口語体の中に文語体が混ったぎごちないものであったが、叙述は素朴平明で、少年と少女の素直な愛情が全体に溢れ出ていた。自分の真情を確信し、また男女の愛情を何よりも尊いと考えている伊藤左千夫は、この小説を読みながら、人前で泣き出してしまった。そしてこの作品は正月号の「ホトトギス」に載せられた。
12月29日、「ホトトギス」が夏目の家に届き、夏目はこの小説を読んで感動した。彼はすぐ伊藤左千夫へ次のような手紙を書いた。
「拝啓只今ホトゝギスを読みました。野菊の花は名品です。自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です。あんな小説なら何百篇よんでもよろしい。三六頁の
民さんの御墓に参りに来ました
と云ふ一句は甚だ佳と存じます。只次にある「只一言である云々」の説明はない方がよいと思ひます。
小生帝文に趣味の遺伝と云ふ小説をかきました君の程自然も野趣もないが亡人の墓に白菊を手向けるといふ点に於て少々似て居りますから序によんで下さい。(略)
十二月二十九日 金
伊藤大兄」
そして2日後の31日、夏目は森田あての手紙の中に、この作品のことを書いた。明治39年正月早々森田は「ホトトギス」を買って来てこの作品を読み、その批評を夏目に書き送った。また伊藤左千夫は、漱石から来た手紙を読んで、有頂天になった。そして彼は更に続けて小説を書こうと考えた。
■直情径行、負けず嫌いの伊藤佐千夫
この年伊藤左千夫こと伊藤幸次郎は数え年43歳。
伊藤左千夫が正岡子規を訪うて弟子になったのは、明治33年1月。子規の死んだのは、その2年半あまり後の明治35年9月19日。
本所茅場で牛乳搾取業を営んでいた伊藤左千夫は、子規に従って、歌の作りかたを全く変えようとしていた明治33年に、
牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる
という、自己の生き方を確信する気分の漲った歌を詠んだ。以後左千夫は、同期の子規の歌の弟子長塚節、岡麓と並んで子規の指導のもとに熱心に歌作をした。
しかし子規没後は、彼等は俳句においての「ホトトギス」のような機関誌もなく、また高浜虚子のような雑誌経営に慣れた中心人物も持たなかった。子規の死んだ翌年の明治36年6月、左千夫等は、その根岸短歌会の機関誌として「馬酔木」を創刊した。編輯同人は、伊藤左千夫、香取秀真、岡麓、長塚節、安江秋水、森田義郎等。やがてこの雑誌経営には、左千夫と蕨真が主として当ることになり、最年長者で強い性格の人であった左千夫が、自然にこの一群の歌人たちの指導者の地位に就いた。
しかし、歌壇全体では新詩社の「明星」が、小説家・詩人などの寄稿家を包含して歌壇の中心にあり、青年たちに大きな影響力を及ぼしていた。写実を主とし、表現の抑制に努めていた根岸短歌会の作風は、社会的には全く認められていなかった。この頃から伊藤左千夫は仏教信仰に関心を抱き、雑誌「新仏教」を刊行していた高島米峰と交際し、その雑誌に「仁徳天皇之御歌」という文章を載せた。また彼は、佐佐木信綱の「心の花」に「神楽催馬楽管見」を書き、「万葉論」、「新古今集愚考」等の評論を「馬酔木」に載せ、歌作のほかにその歌についての意見を積極的に発表しはじめた。
翌明治37年、彼は古典研究に力を入れ、「馬酔木」に「万葉集通解」を連載しはじめた。左千夫の歌論が公けにされるとともに、その作風は子規時代のものに較ぺて、もっと積極的なものに変って行った。この頃から、左千夫の周辺に新しい弟子たちが集まった。
更に翌年の明治38年、伊藤左千夫は浄土真宗系の新仏教の指導者なる近角常観と知り合い、親鸞の思想に傾倒、「歎異抄」を愛読するようになった。
伊藤左千夫は、子親在世中は、3歳年下の子規の言を絶対のものとして尊重し、それに違わぬことを第一義とした。そして子規没後も、歌については子規はこのように言った、散文についてはこのような意見を持っていたと、子規の思い出に忠実に生きようとした。
しかしかれ自身は、熱狂癖のある我の強い性格であったので、「馬酔木」を中心になって発行編輯するようになってから、彼の我執が表面化するようになり、あたり構もずそれを人に押しつけた。仲間はそれに対して、彼の考え方が狭いと批判した。すると左千夫は「永世的なる詩は狭くとも即ち高からむことを要す。人が予を目して狭隘なりと云う。予は寧ろ之を名誉と感ず」と反駁した。彼の作品について仲間が批判をすると、彼は「人が何程非難しても、自分に面白ければよろしい。自分に安心が出来れば構わない。これは我執でない。我執と安心とは根本が違う。我執では安心が出来るものでない」と言った。
左千夫と同時に子規に入門し、左千夫と最も親しかった長塚節は、傍観的態度でこの時の左千夫を見ていた。子規が没してから後、左千夫が急に功名心に駆られ、また子規の前では出し得なかった我執を現わすようになったのだ、と節は感じていた。そのため左千夫は、間もなく発行名義人森田義郎と争い、
「(略)貴兄は野生を狭隘なりとし、野生は貴兄を以て雑駁なりと存じ居候」と述べた。遠慮のない性格の森田は腹を立てて発行名義人たることをやめ、この雑誌から遠ざかった。他のものたちは、左千夫の客観性の欠けた性格に当惑しなから、それを我慢していた。左千夫の強すぎる性格のため、仲間は常に不満を感じていたが、彼の自信と攻撃的性格は、外部に向けられたときには、最もその力を発揮した。世間はまだ伊藤左千夫を一流の歌人として認めなかったが、左千夫は自分こそ大いなる先師子規を正しく継ぐものであると確信して、「明星」系の短歌の論難を続けた。彼は子規没後1年の明治36年9月に書いた。
「予は今先師の遺志を継ぎて新派討伐の進につき、一切新派の諸士に砲弾を見舞はうとするのである。予に一面の識ある諸君、今諸子の製作を論評するに至つたと云ふも、斯道研究上止むを得ないからである。私情的礼儀を欠くの一点は予め諸子の寛恕を乞うて置かねばならぬ。」
このような前置きをして、伊藤左千夫は容赦のない攻撃を他派の歌人たちに加えた。そして、彼のひるむ所ない、新派攻撃は次第にそのカを発揮し、「馬酔木」はその攻撃の故に歌壇で煩さがられ、怖れられ、またその故に注目されるようになった。左千夫は直情径行で負け嫌いであり、競争心が強かっだ。
つづく

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