2025年10月28日火曜日

大杉栄とその時代年表(661) 1906(明治39)年4月10日 「『坊っちゃん』は、国家が教育体系を整備したために生まれた、社会の新しい階層化を背景に書かれている。主人公坊っちゃんはそれとは逆に官吏になる途から外れ、中学教師というエリートからも外れ、立身出世から次第に落ちこぼれてゆく。行き着いたのが街鉄の技手である。 漱石が金銭について細かく記したのは、金のみがまかり通る世の中への反撥がある。主人公の身分を次第に零落させたのは立身出世主義への反撥がある。」(松山巌『群集』)

 


大杉栄とその時代年表(660) 1906(明治39)年4月1日~9日 「さらば日本よ。余は爾(なんじ)を愛せざる能はず。爾は幼稚なれども、確に大なる未来を有す。爾が理想を高くし、志を大にし、自ら新(あらた)にして、此美なる国土に爾を生み玉へる天の恩寵に背かざれ。爾の頭より月桂冠を脱ぎ棄てよ。『剣を執る者は剣にて亡びむ』。知らずや、爾が戦は今後、爾が敵は北にあらず、東にあらず、西にあらず、はた南にあらず、爾が敵は爾、爾が罪、爾は爾自身に克たぎる可からざるを。」(トルストイ会見に向かう徳富蘆花の日記) より続く

1906(明治39)年

4月10日

『吾輩は猫である』 (十) 〔『ホトトギス』4月号4月10日刊〕 (9巻7号)

招魂社(靖国神社)へお嫁に行きたいと言い出す主人の三人の娘(とん子、すん子、坊ば)

「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしやうかと思ってるの」・・・

「御ねえ様も招魂社がすき?わたしも大すき。一所に招魂社へ御嫁に行きませう。ね?いや?いやなら好(い)いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまふわ」

「坊ばも行くの」と遂には坊ばさん迄が招魂社へ嫁に行く事になった。斯様(かよう)に三人が顔を揃へて招魂社へ嫁に行けたら、主人も嘸(さぞ)楽であらう。


恐らく、この娘たちは、招魂社には(戦死した)偉い人、大事な人が祀られていると言われていたのであろう。だから、自分たちはそういう人の花嫁になろう、一身を捧げようと言い出したのだろう。

漱石は、たわいない子供の会話の中に、日本政府が戦死者を美化し神としてほめたたえることによって、兵士たちの死の恐怖や戦死者の恨みや遺族の悲しみなどを鎮め、戦争を継続するために利用した靖国神社の役割を鋭くとらえている。

『坊っちゃん』 〔『ホトトギス』4月号4月10日刊〕(9号7巻) (坊っちゃん号)

■小説の結末;

 「其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、屋賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくつても至極満足の様子であつたが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹つて死んで仕舞った。・・・」


 「この小説は主人公の無鉄砲な行動力と勧善懲悪の倫理性に支えられて明るい。けれど、つけ加えられたような結末は一転してほの暗い。淋しい印象は婆やの死から発しているのはむろんだが、校長狸が「一月立つか立たないのに」と驚くほど、短期間に職を離れた坊っちゃんが、人を頼って街鉄の技手になったことにも起因していると思える。」


 「『坊っちゃん』は、国家が教育体系を整備したために生まれた、社会の新しい階層化を背景に書かれている。主人公坊っちゃんはそれとは逆に官吏になる途から外れ、中学教師というエリートからも外れ、立身出世から次第に落ちこぼれてゆく。行き着いたのが街鉄の技手である。

漱石が金銭について細かく記したのは、金のみがまかり通る世の中への反撥がある。主人公の身分を次第に零落させたのは立身出世主義への反撥がある。」(松山巌『群集』)

街鉄は「東京市街鉄道株式会社」のことで、技手は技師の下に属する。月給は25円。辞した中学教師の月給は40円なので、読者は妨っちゃんの新しい職と月収を知って、彼の零落を悟った。


■『坊ちゃん』に挿まれている金にまつわる話;

坊ちゃんは父母の没後、兄から600円を渡され、「是を資本にして商買をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意に使ふがいゝ、其代りあとは構はない」といわれる。彼は600円を200円ずつ使って3年間勉強しようと物理学校に入学する。その後、就職先の四国まで、学資の余り30円ほどをもって行き、「汽車と汽船の切符代と雑費」で16円ほどを使う。

宿代に少し見得を張り5円。団子2皿7銭。温泉の入浴料金8銭、氷水1銭5厘。教頭赤シャツの下宿は立派な玄関構えの家でありながら、家賃は9円50銭。「田舎へ来て九円五十銭払へばこんな家へ這入れるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやらうと思つた位な玄関だ」とある。

主人公坊っちゃんは、文中の記述から判断すると、明治15年4月か5月の生まれ。明治29年に母が亡くなり、明治30年春、兄は高等商業学校に、彼自身は中学校に入学する。いずれも5年制。明治35年正月に父が没し、その年兄弟共に学校を卒業する。兄は就職し実業家の途を進む。彼は7月頃、偶然通りかかった物理学校で生徒募集の広告を見て入学。明治38年9月頃、四国の中学に数学教師として赴任する。

もし清の思い通り、官吏になることを希んだのなら、坊っちゃんは中学卒業時点で、専門学校であろうと法律学校へ進むべきであった。このときから彼は清が思い描いた「将来立身出世して立派なものになる」コースから外れる。それでも物理学校卒はかなりの高学歴である。専門学校は坊ちゃんが卒業した時点では、まだ公私併せて50校ほどしかなかった。


坊っちゃんが辞めるきっかけとなる、中学校生徒と師範学校生徒との「衝突」;

坊っちゃんは 「中学と師範とはどこの県下でも犬と猿の様に仲がわるいさうだ。なぜだかわからないが、丸で気風が合はない」と考えるが、師範学校と中学校とでは求める人材が異なる。

師範学校は、卒業後10年間地元で教職に就くことが義務づけられている代わりに、学費は地方税によってまかなわれた。師範学校生徒は貧しい家庭の子弟が多く、上級学校へ進学する途は開かれていない。

逆に中学校生徒は学費は払わねはならず、資格を得ることもないが、より高い学業への途が残されていた。

各地の師範学校と中学校の生徒とが反目する原因は学歴の差にあった。学歴によって将来の身分が定まる学歴社会である。

■漱石は小説『坊つちやん』についてどう言っているのだろう。(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』より)


「漱石は『坊つちやん』を推賞してくれた英文学者の大谷繞石に、その返信の中で、登場人物の山嵐(堀田)の如きは、「中学のみならず高等学校にも大学にも居らぬ事」、野だいこ(吉川)の如きは、「累々然としてコロガリ居」り、「小生も中学にて此類型を二三目撃致し」、「サスが高等学校には是程劇(ママ)しき奴」はなく、「(尤も同類は沢山)」ある。

要するに、「高等学校は校長抔に無暗にとり入る必要なさ故」、山嵐や坊っちゃんの如きものがいないのは、人間として存在していないのでなくて、「居れば免職になるから居らぬ訳」、と述べ、作者漱石の好みとして、「僕は教育者として適任と見倣さるゝ狸や赤シヤツよりも不適任なる山嵐や坊つちゃんを愛している」(『漱石全集』二二巻)と言う。


漱石は俳人村上霽月にも、『坊つちやん』を褒めてくれたその返信に、「赤しやつも野田もうらなりも皆空想的な人間」、津田の所(漱石が下宿した津田安五郎方)は少し書いたが、「過半はいゝ加減なもの」、「実歴譚でもない様に候」と答えている。褒めてくれる人は大概は愉快だといい、村上霽月もそう言っている。漱石は「ある人はあれをよんで」神経衰弱が癒ったと言っている」(同二二巻)と追記のように書いている。


また漱石は談話「文学談」の中で


人生観と云つたとて、そんなにむづかしいものぢやない。手近な話が、『坊ちやん』の中の坊ちやんといふ人物は或点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物であるが、単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今の様な複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が感じて合点しさへすれば、それで作者の人生観が読者に徹したと云ふてよいのです。                                (『淑石全集』二五巻)


と語っている。


4月10日

(漱石)

「四月十日 (火)、嵐。夜遅く、差出人の署名のない葉書来る。「先生は高名な文学者だから門標なぞなくても世間によく知れてゐるけれど、先生の門標を見ると雨風にさらされて文字が見にくゝなってゐる。どうせ門標を懸ける位ならはっきりした方がよいと思って新しいものを差上げる。お用ひにならうとなるまいと御随意です。


辻村鑑の記憶(昭和二十八年)による。この門標は、郵送してきたものではなく、打ち付けたものと想像される。古い門標をどう処理したかはよく分らぬ。」(荒正人、前掲書)


4月10日

啄木(20)の知らせで父一禍帰郷。その後啄木一家の宝徳寺再任の懇請により檀家一同協議の結果、すでに提出中の代儲住職中村義寛の住職跡目願を撤回、一被の再任を曹洞宗宗務局に願い出る。

4月10日

(露暦3/28)露、ゲオルギー・ガポン神父、殺害。


つづく


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