2025年10月26日日曜日

大杉栄とその時代年表(659) 1906(明治39)年4月 蒋介石の初来日 初来日して、東京で日本語を学んでいたところへ、幼なじみの周淡游が留学してきた。彼は警察官を養成する東京警監学校に入学したが、ふたりは毎日のようにつるんで銀座へ繰り出し、遊び歩いた。その周淡游の縁で、同郷出身の陳其美と知り合った。これが蒋介石の未来を運命づける決定的な出来事となる。

 

日本留学時の蒋介石

大杉栄とその時代年表(658) 1906(明治39)年3月25日~31日 「『破戒』はたしかに我が文壇に於げろ近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪へぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝はつた生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといつてよい。」(「早稲田文学」の島村抱月の批評 ) より続く

1906(明治39)年

4月

三井物産会社、三泰紡織有限公司設立。

4月

海老名弾正「国民の洗礼」(「新人」)。国家至上主義。

4月

添田唖蝉坊の登場

この年の春、荒畑寒村は堺家に居候して『光』『家庭雑誌』『社会主義研究』などの編集を手伝っていた(『うめ草すて石』)。その頃、世間でラッパ節という俗謡が流行っていたので、『光』でも社会党ラッパ節を募ったところ、多くの投書が集まったので面白いものを誌上に載せた。すると、ある日、「長髪白皙の美じょうぶ」が訪ねて来て堺に面会を求めた。

寒村は、どこかで見たような男だと思いながら堺に取り次いだ。男は添田唖蝉坊と名乗り、社会党ラッパ節を版に刷って売ることを許可してほしいという。もちろん堺に異議があるはずがない。その会話を聞いていた寒村は「この男だ、横浜の遊廓へ毎晩のように歌の呼び売りに来たのは」と思い出したという。娼妓たちが美声に聞き惚れていた壮士こそ、堺を訪ねてきた唖蝉坊だった。

その後、唖蝉坊の妻のタケも社会主義運動に加わり、堺の妻の為子と一緒に電車賃値上げ反対のビラをまいて警官に検束されたり、西川光二郎の妻の文子らと婦人演説会を開催している。

添田唖蝉坊が1916(大正5)年に出した『唖蝉坊新流行歌集』の序文は、堺利彦が書いている。

添田唖蝉坊の流行歌は、諷刺が利いていて思わずニヤリとせずにはいられないものが多い。「ア、ノンキだね」とくり返す大正時代の「ノンキ節」も広く知られているが1907年につくられた「あゝ金の世」など、現代の日本を皮肉った歌のようにも思えてくる。

堺の2歳年下の唖蝉坊は、横須賀で働いていたときに壮士節を聴いて感激し、各地を放浪しながら壮士節を歌うようになった。条約改正、廃娼問題、選挙干渉など政治に関する話題を歌にし、歌詞を印刷した冊子を売って日銭を得た。彼が通りに立って歌い始めると、黒山のような人だかりになったという。

1941(昭和16)年出版の『唖蝉坊流生記』には、時節柄、社会主義者との交友についてはあまり書かれていない。同書で唖蝉坊は堺との出会いを次のように述べている。

私は堺枯川を元園町に訪ねた。敬ふ気持ちがあつたが、着流しに兵児帯を無雑作に巻きつけて、「わたし、堺です」と出て来た、そのはじめての印象がよかつた。其の時堺氏は「家庭雑誌」をやってゐたが、一方新聞に、ラッパ節の替唄を募集したのが恩はしくないので、私のを入れたいといふのであった。私はラッパ節を新作した。社会主義喇叭節と題したら、社会党喇叭節の方がいゝといふので、私は党といふ字が嫌だつたが、それに従った。

4月

この頃、蒋介石(19歳)、第一回目の来日

明治39年、清国で日本留学ブームが起きていた年、蒋介石(19歳)は、軍人に憧れて矢も楯もたまらず、なんの準備もなく郷里の浙江省を出てきてしまった

そして、日本に来てみて分かったこと。日本陸軍士官学校へ入学できないのは無論のこと、その前段階として日本にある清国人専用の軍人予備学校にも入る資格がない。しかも清国人専用の軍人予備学校へ入るには、まず清国国内の軍人学校の学生になり、清国政府の実施する選抜試験に合格して正式に派遣される必要があった。

途方に暮れたが、気を取り直して日本語でも勉強しようと、日本へ亡命した改良派知識人・梁啓超が創設した清華学校へ入学した。

・・・清華学校は日本語以外に英語や代数、三角、幾何、物理、化学などの全科履修生がいたほか、1科目だけ選択する専科履修生もいた。蒋介石がどのような身分で在籍したかは不明だが、子供時代から頑固で気性が荒く、勉強嫌いで落ち着きがなかったというから、日本語だけの専科履修生だったと推測される。清華学校は、蒋介石が学んだ後に短期間で閉校されてしまう。

蒋介石は1887年10月31日、浙江省奉化県(現、奉化市)渓口鎮の塩商人の家に生まれた。父・蒋粛菴は働き者だったが、次々に妻に死に別れ、三番目の妻・彩玉との間に蒋介石を長男として4人の子供が生まれた。蒋介石、幼名は周泰、学名を志清、字は瑞元、号を介石という。後半生は、辛亥革命後に孫文から拝命した「中正」をずっと名乗りつづけた。

彼は幼時より頑強な体格で、無鉄砲なうえに人一倍我が強かった。5歳から家庭教師についたが長続きせず、祖父と父親がつづけて亡くなったことから家産が傾いた。

母は孤軍奮闘して子供たちを養い、14歳になった蒋介石に4歳年上の毛福梅を嫁に取らせたが、遊びたい盛りの蒋介石は結婚に興味がなかった。16歳になった1902年、母は家庭教師毛思誠先生をあてがい、科挙の第一段階の子供用試験である「童試」を受けさせたが不合格。蒋介石は「もう二度と受験などしない!」と宣言して、勝手に新式教育を行う鳳麓学堂へ入学したが、激昂型の性格に手を焼いた周囲の学生たちから「紅臉将軍」(真っ赤な顔をして怒る威張り屋)とあだ名をつけられ、ここも2年で退学。

今度は軍人になりたいと言い出して、勝手に日本へ行ってしまった。後のことだが、母親から子供を作るよう懇々と説得された蒋介石は、日本と郷里を行ったり来たりしながら、1910年3月、22歳のときに長男を授かり蒋経国と名付けた。

初来日して、東京で日本語を学んでいたところへ、幼なじみの周淡游が留学してきた。彼は警察官を養成する東京警監学校に入学したが、ふたりは毎日のようにつるんで銀座へ繰り出し、遊び歩いた。その周淡游の縁で、同郷出身の陳其美と知り合った。これが蒋介石の未来を運命づける決定的な出来事となる。

陳其美(30歳)は、「冒険こそ天職なり」と公言して憚らず、上海の裏社会とも通じていた。蒋介石はすっかり魅了され、周淡游と3人で義兄弟の契りを結び「桃園の義兄弟」と豪語した。だが年の瀬になり、母からもらった留学資金もそろそろ底をつく頃、郷里の母から妹が結婚するから帰国せよと言ってきた。

1906年12月、蒋介石は日本滞在僅か9ヶ月にして帰国した。

帰国後は、郷里でぶらぶらしていた時、清国初の近代的な陸軍士官学校・通国陸軍速成学堂が創設されることになり、第一期生を募集するとの情報を耳にした。勇んで応募した蒋介石は首尾よく合格し、さらに日本語を少し話せることを売りにして、日本留学の選抜試験にも合格した。2年越しの日本への軍事留学の夢を叶えた。

4月

足尾で日本鉱山労働会結成。この頃、足尾銅山の長岡鶴造の労働至誠会に長岡の同志南助松が夕張炭坑から移り運動は活況を呈す。

4月

大阪・天満・金巾・三重・岡山の5紡績会社により、日本綿布輸出組合設立。満州市場への綿布輸出組合。1912年解散。

4月

富士製紙、富士工場改造。資本金460万円に増加。

4月

報徳会設立。

4月

ロシア、フランス銀行家、フランス政府後援のもと22億5千万フラン借款を露ツァーリ政府に供与。

4月

ロシア、第1回選挙でカデットが多数党に。

4月

ロシア社会民主労働党第4回統一大会(ストックホルム大会)。トロツキーは獄中にあり欠席。後、ボルシェヴィキ、メンシェヴィキは再分裂。

4月

アンリ・マチス(37)、G.スタイン宅でピカソと会う。


つづく

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