1906(明治39)年
1月7日
第1次西園寺内閣成立。
初めて薩長人以外が首相となる。政党総裁が首相となる。但し、政友会員は原・松田のみ。山縣派・薩派・貴族院代表の混成。
首相西園寺公望(56)、外相加藤高明、内相原敬(50)、蔵相阪谷芳郎、陸相寺内正毅、海相齋藤實、法相松田正久、文相西園寺公望(臨時兼任)、農商務相松岡康毅、逓信相山縣伊三郎、内閣書記官長石渡敏一、法制局長官岡野敬次郎(1月13日~)。
蔵相阪谷芳郎(元老伊藤の希望)、文相牧野伸顕(薩摩出身、同郷の元老松方正義への配慮)、農商相松岡康毅(貴族院への配慮、桂の推挙)、逓相山県伊三郎(山県有朋の養嗣子、元老山県への配慮)等、元老や桂に配慮。
組閣過程で、桂は西園寺としばしば面会、新内閣組織の「手伝人」という状態と、桂は自ら述べる(井上馨宛桂太郎書状、1月4日付)。
内相原敬の奮闘:
①内務省(山縣派官僚の拠点)主要ポストを腹心で固める。次官吉原三郎(前地方長官)、警保局長古賀廉造(前検事、司法学校で同窓)、警視総監安達兼道、地方局長床次竹二郎。
②警視庁改革。首相・内相両属を内務省直轄に変更、山縣の腹心大浦兼武の勢力を一掃。大浦の横暴に反感を持つ山縣派筆頭内務官僚芳川顕正の賛同を得て実行(旧勢力の内部矛盾を利用)。
③地方官75人大異動(内、知事6名)。ボス的老朽官僚を一新、新進を起用。
④事務整理委員会設置。時代遅れの法令40余を改定。
⑤山縣派官僚の地方における牙城である郡制に廃止は、明治39~40年の第23議会の貴族院で否決。
⑥社会主義運動に対する弾圧政策をある程度まで自由と合法性を認める方向に修正。
西園寺は2代目お鯉を世話し、桂はお鯉を呼び戻す。4人がお鯉の妾宅で酒をのむこともあったらしい。
1月7日
在米日本公使館(ワシントン)・在独日本公使館(ベルリン)を大使館に昇格。駐米日本大使に青木周蔵、駐独日本大使に井上勝之助を任命。
1月7日
徳富蘆花夫妻、伊香保に引き籠る。
これまでの生活を清算し伊香保に山籠りを始める決心をした徳富蘆花夫妻は、年末から1月6日までを逗子の父母の家に泊まり、6日は青山の兄、蘇峰の家に泊まって、この日、伊香保に出発した。
大晦日には、蘇峰夫妻とその子供たちが逗子の家に集まったので、老父母は満足していた。
蘆花は家財を整理し、家を畳んだとき、三菱銀行に1,000円の貯金があった。1年間は心配なしに暮らせるだけの金であった。"
伊香保で、蘆花は、石川三四郎に長い手紙を書き、その手紙の末尾に蘆花は、この頃堺利彦が長く使っていた枯川という号をやめたのにならって、蘆花という号をやめた旨を宣言して次のように書いた。
「小生は堺兄に倣ふて『蘆花生』の号を廃めたり、今後は徳富健次郎を以てすべての場合に御呼び被下度候」
この手紙が「新紀元」に発表されると、同人の安部磯雄が、世間多事の今日山に引籠るのは賛成できない、と書いて来た。それに対して徳富健次郎は「小生は大兄の健美を羨む、小生の傷は重い」と返信をした。
徳富健次郎の伊香保温泉での日常生活は、第一が四福音書を読むこと、第二にトルストイの著作を読むことであった。彼は9年前30歳のとき、民友社発行の十二文豪叢書の一巻として「トルストイ」を書いて出版したこともあり、昔からトルストイは愛読していた。その小説類はたいてい読みつくしていた。いま彼は英訳の”What to do?”を読んでいた。
伊香保へ来てから、彼はトルストイあての英文の手紙を書き、それに英訳の「不如帰」と民友社版の自著「トルストイ」を添えて送った。
1月7日
(漱石)
「一月七日(日)、晴。七草粥。午後、野村伝四来て、障子の張り替えをする。寺田寅彦来る。キュラソーと緑色の羊羹を馳走する。夕方、神田の多質羅亭(寺田寅彦)に行き、三人で夕食をする。(「蹄途駿河臺を通る。寒月暈(かさ)ありニコライの巨利眠るが如し。」(「寺田質彦日記」)と記されているのは、漱石と同行したものかと思われる)
(大学の講義ノートを作製しょうと思っていたが、一月六日(土)まではできぬ。毎朝遅くまで寝る。)
一月十一日(木)、午前六時頃、南支那海に発生した台風が東京湾に襲来する。午前八時までに降雨量五十・四ミリ。隅田川その他の河川も増水。東京市の浸水家屋千八百戸余り。一月には珍しい風水害である。
一月十三日(土)、寺田寅彦に結婚祝いとして、綿糸と熨斗を届ける。」(荒正人、前掲書)
1月7日
永井荷風(27)、この頃、銀行勤務の余暇はコンサートや観劇に費やされている。前年12月23日の日記(『西遊日誌抄』)には、「そもそも余が最初海外の旅行を思立ちたるは西洋劇の舞台を看ん事を欲したればなり」と記しているように、この年の記述には、ファウスト、トリスタン、トスカ、タンホイザー、アイーダ、ハムレットなどの演目が頻出し、枚挙に暇がない。
元旦は朝までニューヨークの悪所で放蕩。
1月7日の『西遊日誌抄』。「仏蘭西人の家に行李を移す」とあり、その家の「主婦は年六十ばかり」で「余はこれより日々仏語の会話を練習するの機会を得たるを喜ぶ」とある。荷風のフランスへの憧れは高まっていく。
1月8日までメトロポリタン歌劇場で、毎夜、ファウスト、トリスタン、ドン・パスクワーレ、トスカを観覧。
この頃からワシントンの娼婦イデスが毎週末にニューヨークへ会いにくる。この頃集中的にオペラを見る。
「一月九日……家に帰るに机上一封の書ありイデス余を見んとて次の週間に紐育に来るべしと云ふなり。イデスは華盛頓の娼婦なり去年の夏かの都に遊びし折ふと馴れ染めその後は折々文取りかはしゐたりしなり」
「二月十四日 娼婦イデスの手紙来る事連日なり わが心歓喜と又恐怖に満さる」
2月はタンホイザー、アイーダー、ローエングリーン、パルシファルなどワーグナーの劇が多い。
3月はワルキューレ、ライン、そしてカーネギーホールでクラシック音楽を鑑賞。
1月10日
英仏、軍事協議開始(海軍も含む)。仏が独から攻撃を受けた場合、英に対仏協力義務を課す。
1月11日
[露暦1905年12月29日]社会革命党(エスエル)党、第1回大会(~17日)。綱領採択。
1月11日
幸徳秋水「日米関係の将来」(邦字新聞「日米」)。将来起こるべき日米戦争未然防止の訴え。
つづく

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