2025年10月16日木曜日

大杉栄とその時代年表(649) 1906(明治39)年1月26日~31日 1月31日付け宋教仁の日記 「午後三時、民報社に行ったとき、急に座骨に激しい痛みを感じたので、しばらく横になり、前田氏に願ってそこをたたいてもらった」とある。この前田氏というのは、漱石『草枕』の主人公那美のモデルと言われる前田卓である。

 

前田卓

大杉栄とその時代年表(648) 1906(明治39)年1月12日~25日 「ただ新たな運動の展開に対していささか希望を与えたものは、山県軍閥直系の桂太郎に代って、かつてはフランスに遊んで自由主義の新風に浴した西園寺公望が、新政府の首相に任じた事であった。西園寺首相は住友財閥の当主吉左衛門の実兄、蔵相の阪谷芳郎は渋沢栄一の女宿、内相の原敬は足尾銅山主古河市兵衛の大番頭、また外相の加藤高明は三菱の駙馬というように、少なくとも外観上はブルジョア的色彩の濃厚な政府であったから、その政策も桂内閣の武断政治に比して自由主義的であろうと予測させた。果然、新内閣は社会主義運動に対しても前政府の如く妄りに弾圧することなく、政綱の穏和なるものに対しては結社の自由を認める方針を明らかにしたのである」(荒畑寒村『続平民社時代』) より続く

1906(明治39)年

1月26日

駐露公使に本野一郎任命。

1月26日

「一月二十六日(金)、晴。東京帝国大学文科大学で、Tempest を講義する。

夜、寺田寅彦久し振りに来る。「結婚すると、そうも変わるか」とからかう。高浜虚子宛手紙に、『ホトトギス』編集について積極案伝える。

一月二十九日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講裁する。

一月三十一日(水)、晴。菅虎雄(清国南京三江師範学堂)宛手紙に、菊池謙二郎と衝突し、東京へ帰りたいということだが、狩野亨吉・藤代禎輔(素人)とも相談し、喧嘩の相手が辞職していないのだから辞職する必要はないこと、また、いま資金を投ずれば必ず儲かる方法が狩野亨吉にあるとのことだから、貯金の全額を投じて、収入の道を企てるのがよいと思う、賛成なら電報で知らせるようにと伝える。(二月十日(土)、賛成の電報を受け取り、十五日(木) に狩野亨吉に伝えると、金儲けの見込みはなくなったというので、再びそれを菅虎雄に伝える。)」(荒正人、前掲書)

1月27日

英、テムズ川に流出した石油炎上。

1月28日

日本社会党結成(堺利彦ら)

1月29日

濱尾新東京帝国大学総長・戸水寛人前教授と会談し、戸水の帝大教授復帰が決定。戸水事件が解決。

1月29日

在仏日本公使館(パリ)を大使館に昇格。駐仏日本大使に栗野慎一郎任命。

1月29日

デンマーク王クリスティアン9世(87)、没。

1月31日

岡山県山陽女学校、人生論に傾倒した生徒の自殺事件が起こったため、哲学書の読書禁止。

1月31日

この日付け宋教仁の日記

「午後三時、民報社に行ったとき、急に座骨に激しい痛みを感じたので、しばらく横になり、前田氏に願ってそこをたたいてもらった」とある。この前田氏というのは、漱石『草枕』の主人公那美のモデルと言われる前田卓である

宋の座骨神経痛はその後も続いたらしく、2月2日には「午後五時、民報社に行き、前田氏に願って薬を座骨の患部にはってもらった」とある。

宋はこの頃から、激務と人間関係で体調を崩し、神経衰弱になっていき、8月には豊島郡滝の川町田畑の東京脳病院に入院することになる。

卓は、宋教仁の下宿を訪ねて民報社のことを報告したり、帰国する留学生の送別会や滔天の家に遊びに行こうと誘ったりと、何かと気持ちを引き立てようとしている。宋の入院後は、引き払った下宿の荷物を整理し、民報社で預かる手配をした。また、黄輿らとたびたび病院に見舞い、「九州熊本の私の実家に住んだらどうだ。私の実家は海辺にあって、ごみごみした道からも遠く離れているからひじょうに静かで療養するには適している」と、転地療養を勧めた記述もある。本邸は焼失し、漱石らが泊まった別邸も明治37年には人手に渡っていただものの、鏡が池のある別邸はまだ人手に渡らずに残っていて、母親が住んでいた。病んだ神経には静かな環境が一番と考えたのだろう。

そして最終的に宋は、11月4日に退院し、卓や黄輿の勧めで新宿番集町の滔天と槌夫妻の家に落ち着く。


〈宋教仁、「中国同盟会」機関誌『民報』、前田卓〉

(前年)1905年(明治38年)7月、アメリカや欧米を廻った孫文が来日して、豊多摩郡内藤新宿番集町(現、新宿区新宿5丁目)の滔天の家に身をひそめた。

7月19日、宋教仁がその家を訪れて滔天に会い、28日に孫文が滔天とともに彼を訪ねる。同じ頃、孫文と並ぶ辛亥革命のリーダー黄興が、滔天と末永節(玄洋社社員)の仲介で孫文に会っている。

孫文、黄興、宋教仁という辛亥革命をリードした3人が日本で滔天らを軸に手を握った。もう一人の指導者章炳麟は少し遅れて来日する。

7月30日、彼らを中心に約70人が集まり、「中国(革命)同盟会」準備会のための話し合いが持たれた。場所は、赤坂区桧町3番地の内田良平の自宅兼黒龍会事務所。名称は、敢えて「革命」の文字は入れずに「中国同盟会」と称することを申し合わせた。

8月13日、宋教仁が中国人留学生を組織し、「留学生の孫文歓迎会」を開く。飯田橋河岸の富士見機で開かれた会には、午後1時の開催時間に600~700人の留学生がすでにつめかけた。警視庁発表によれば、11,000人の留学生が集まったという。孫文の演説は、1時から4時頃まで続き、その後、滔天や末永節らも来賓として演説した。

8月20日、「中国同盟会」の成立大会開催。孫文の「興中会」、黄興や宋教仁の「華興会」、章炳麟や察元培らの「光復会」が中心となり大同団結した。会場は、赤坂霊南の衆議院議員坂本珍弥宅。各省の代表者約百人が集まり、章程(規約)と役員をとり決めた。孫文が総理、黄興が庶務部長、宋教仁は司法部員に選ばれた。また、宋教仁が発行していた『二十世紀の支那』を機関誌にすることなどが決められた。

8月27日、『二十世紀の支那』は発禁処分となり、『民報』と名前を改めて、11月から発行することになる。

「中国同盟会」の機関誌『民報』の編集所は、牛込区新小川町2丁目8番地の民報社に置かれた。

前田卓(37)はこの民報社に住み込んだ。

上京した卓がこの家に住み込むことになった正確な日付は不明だが、宋教仁の日記などから推測して、民報社発足とほぼ同時と思われる。ここに集まる革命家や中国人留学生たちの食事や身の回りの世話をする「民報のおばさん」になっていった。


昭和10年10月発売の岩波版『漱石全集』第4巻「月報」(森田草平インタビュー)

前田卓「いよいよ上京して参りました時には、わたくしは最初養老院にでも入って、手頼りないお年寄のお世話でもしようと存じましたが、そんな事をする位ならと勧める方があって、当時日本に亡命していた支那革命の大立者黄興や孫文一党の民報社に入ってその世話をするようになりました。その間の事情は話せば長いことになりますが、「小母さん、小母さん」と重宝がられまして、随分危殆(あぶな)い橋を渡ったこともございます。支那革命の最初の旗を決めるときなぞも、いろいろ談論が岐れまして、所謂旗争いの果しがありませぬので、仕舞にわたくしが「それじゃわたしの腰巻がまだ一度締めたばかりだから、これでも使っては何(ど)うだ?」と、出してやったこともありました。つまり支那の国旗の最初の旗はわたくしの腰巻から出来たというような、滑稽なこともございます。」、

卓の名は、編集部の中心にいた宋教仁の日記にたびたび登場する。日記は、宋が黄興らとの蜂起に失敗し、日本に亡命することになる1904年(明治37年)10月30日から、途中の中断もあるが、1907年(同40年)4月8日までの2年半分が残っている。

宋教仁は、1882年湖南省桃源県の生まれ。代々「秀才」を排出した地主の家柄で、彼自身も院試に合格して「秀才」となったが科挙試験には応じず、革命家の道を歩んだ。

1904年12月13日に東京に来るとたちまち日本語を習得し、通訳や翻訳をするまでになった。亡命での来日だったが、偽名で官費留学生の資格を得ていた。法政や早稲田大学に通い、熱心に日本の新聞を読んで情勢を分析し、中国の歴史や西洋の政治体制の研究に打ち込んだ。

20代前半の若さながら同盟会の中でも理論派で、孫文や黄興から信頼された。辛亥革命後、中華民国で政党政治の共和体制を実現するために、いち早く憲法や各種の法制度の整備と民衆の啓蒙に打ち込んだ。自らも国民党という政党を組織し、1913年2月の中国史上初の国会選挙で圧倒的に勝利した。しかし、その選挙結果として内閣総理になる直前の3月20日、共和体制を圧殺し自ら皇帝になろうとした袁世凱によって暗殺された。享年30歳。


1月31日

日本とカナダ、修好通商航海条約調印。正式の貿易関係成立。7.12 公布。

1月31日

コロンビア沖でマグニチュード8.8の大地震


1月末

島崎藤村の『破戒』浄書が370枚に達した。

1月に入って、「読売新聞」「新小説」「文芸倶楽部」「芸苑」などに『破戒』の新刊予告が出された。

そして印刷は、改めて田山花袋の紹介で銀座数寄屋橋の秀美合へ依頼することになり、浄書済みの分から組みにかかった。藤村は、真冬の寒さの中をその印刷所や、その近くの石版屋の泰錦堂へしばしば出かけて細かい相談をし、帰っては浄書を続けるという多忙を生活を送った。田山花袋などはそれを見て、「よく君はそんなことをやるね」と言ってあきれ顔をしたが、藤村は、印刷屋の職工や女工たちの働きぶり、そこの仕事場の仕組みなどにも興味を覚え、自分の仕事がそこで組まれ、校正されて行くのを見るのに生き甲斐を感じた。

この頃、藤村の旧師木村熊二がアメリカ風の実践的農業教育を理想として苦心経営していた小諸義塾は遂に閉鎖廃校になった、という噂を藤村は聞いた。

木村熊二は長いアメリカでの勉学生活から帰って、明治18年、東京に明治女学校を創設し、妻鐙子をその校長とし、自分は高輪の台町教会の牧師をしていた。この学校は鐙子の死後、巌本善治に経営をゆだねられた。

藤村は、少年時代神田の共立学校に通っていた頃から、そこの講師であった木村に英語を習い、明治20年、ジェイムズ・ヘボンの創立した明治学院に入ってからも木村の家に寄寓し、木村の手で洗礼を受けた。

木村は明治26年、信州の小諸を選に農業学校としての小諸義塾を創設した。藤村は旧師のその理想に賛成し、そこの教師になったが、官立学校が出世の近道となる傾向が濃くなった明治中葉の日本では、このような田舎の学校に学ぼうとする生徒は数少く、経営困難になった。

藤村がそこに勤めた明治32年頃、木村の手では経営困難になり、塾は町営に移され、その後、教師の俸給を減俸したりして苦境を切り抜けようとしたが、遂に明治38年末、塾は廃され、木村は塾頭を免せられ、小諸商工学校という別の学校になった


つづく


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