1906(明治39)年
4月11日
啄木(20)、妻節子の父堀合忠操の縁故で母校の岩手郡渋民尋常高等小学校尋常科代用教員となる。当時同校は遠藤忠志校長以下教員4名生徒283名(高等科68名尋常科215名)。教員秋浜市郎・上野サメ。受持は尋常科第2学年。月給8円。
14日初出勤。
「四月十四日本日石川代用教員出勤授業セリ高橋準訓導石川代用教員ノ送迎式ヲ挙行ス 秋浜訓導」(「明治三十九年度日誌渋民尋常高等小学校」)
21日、沼宮内町(現岩手郡岩手町)で徴兵検査。筋骨薄弱で丙種合格。徴兵免除。身長約158cm、体重約45㎏。
「予て期したる事ながら、これで漸やく安心した」。
「自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運(*兵役を望まない気運)の動いてるのは、此辺にも現はれて居る。」
14日に渋民小学校の教壇にはじめて立ったとき、「神の如く無垢なる五十幾名の少年少女の心は、これから全たく我が一上一下する鞭に繋がれるのだなと思ふと、自分はさながら聖(たふと)いものの前に出た時の敬虔なる顫動を、全身の脈管に波打たした」(「渋民日記」)と記している。
啄木が感激したのは、彼自身に教員資格がないにもかかわらず、郡視学が許可してくれたためであるのと、彼自身もこの学校で学んだからである。
啄木は「幼なくしてこの村の小学校に学んだ頃、 - 神童と人に持て囃された頃から、既に予は同窓の友の父兄たる彼等から或る嫉視を享けて居た」と書く。啄木には村人を見返したという思いもあった。
しかし不満もある。「八円の月給で一家五人の糊口を支へるといふ事は、蓋しこの世で最も至難なる事の一つであらう。予は毎月、上旬のうちに役場から前借して居る」。
漱石『坊っちゃん』の主人公が街鉄の技手になって月給25円(中学教師の時は40円)。東京の職人の日当は大工と左官65銭、石工80銭、煉瓦職90銭、普通人夫35銭である。街鉄の技手は職人より少し収入が良い程度。月給8円は、普通人夫が月25日働いて得る賃金を下廻る。しかも5人家族では、物価の安い渋民村でも生活は困窮した。
「月に三十円もあれば、田舎にては、楽に暮らせると - ひよつと思へる。」(『悲しき玩具』)と啄木は歌に託して嘆く。
4月11日
(漱石)
「四月十一日 (水)、鈴木三重吉の実家(広島市猿楽町。第五師団練兵場に近い)から、手紙と『千鳥』(原稿)を送ってくる。『千鳥』を読み感心し、「千鳥は傑作である。」「三重吉君萬歳だ。」と手紙を出す。高浜虚子宛に、「僕の門下生からこんな面白いものをかく人が出るかと思ふと先生は顔色なし。」と響き、『ホトトギス』に推薦する。朝、門柱を見ると夏目金之助という文字の両側から猫が向いあっている図を掲げてある。午後、辻村鑑訪ねて来る。門札をはずして、持ち帰って貰う。
四月中旬(日不詳)、高浜虚子来たので、二人で鈴木三重吉の『千鳥』を朗読する。」(荒正人、前掲書)
4月11日
帝国鉄道会計法公布。
4月11日
屠場法公布。
4月12日
日置臨時代理大使、米国務長官に対し日本は満州の門戸開放を尊重すべき旨通告。(5月1日より安東、6月1日より奉天を開放)
4月14日
台湾南西部大地震。全半壊1万余戸。
4月14日
西園寺首相、満州視察に出発。大蔵次官若槻礼次郎、外務省政務局長山座円次郎、農商務省農務局長酒匂常明、鉄道作業局建設部長野村竜太郎と。~5月15日。大連、旅順、奉天など視察。満州は、日露講和で日露軍撤兵が決定したが日本の軍政署は活動継続中。
4月14日
オハイオ州、群衆3千がはやし立て暴徒が黒人2人を焼殺。
4月15日
堺利彦編集「社会主義研究」第2号発行。
クロポトキン稿、白柳訳「無政府主義の哲学」など無政府主義の紹介研究が大半をうめる。
4月16日
荒畑寒村、「牟婁新報」を退社し田辺を去る。堺利彦宅に戻る。折から、3月15日の電車賃値上げ反対運動で活動家が拘引されていたため、「光」編集手伝い、「社会主義研究」「家庭雑誌」の雑務をこなし、夜は神田の正則英語学校に通う。
4月16日
新橋~神戸間に最急行列車運転開始。150マイル未満1等1円、2等60銭、3等30銭。急行料金徴収の最初。
新橋・品川・横浜・国府津・山北・沼津・静岡・堀之内・天寵川・浜松・豊橋・名古屋・岐阜・大垣・米原・能登川・馬場・京都・大阪・三ノ宮・神戸。時速44キロ。所要時間13時間40分。
4月17日
韓国統監府、保安規則制定[府]。治安取締規定。5月1日施行。
4月17日
児玉源太郎、台湾総督を解かれ、参謀総長に就任。
4月17日
日本製紙所組合、規約改正し、日本製紙連合会と改称。
4月17日
(漱石)
「四月十七日(火)、野村伝四宛手紙に、末松謙澄『日本の面影』(英文)の翻訳に関して、誰か訳者を世話して欲しいと頼み、具体的条件も伝える。(この話は少し前にも依頼した事がある)
出版社では、訳稿の締切が六月十日(日)、稿料は、原書一ページに付き一円五十銭である。三百七十二円になるから、珍仕事としてはよかった。野村伝四は、森田草平・栗原元春を推薦し、二人は、五月初めに着手する。但し、森田草平は、.""Rising Sun"" だと去っている。詳細はよく分らぬ。」(荒正人、前掲書)
つづく

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