2025年10月18日土曜日

大杉栄とその時代年表(651) 1906(明治39)年2月5日~16日 イギリス、戦艦ドレッドノート第1号鑑、進水。ポーツマス。世界最強の戦艦。ドレッドノートの出現により、戦艦三笠、ボロジノなどは一挙に旧式化した。以後、建艦競争開始。

 

戦艦ドレッドノート

大杉栄とその時代年表(650) 1906(明治39)年2月1日~4日 「・・・小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を恩ふと河上肇などゝ云ふ人は感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ・・・」(2月3日付け漱石の野間真綱宛て手紙) より続く

1906(明治39)年

2月5日

石川島造船所職工750人、賃上げを要求してストライキ。

2月5日

菅野須賀子(26)、「牟婁新報」入社。この日、初出社。前年11月6日から半自伝小説「露子」を連載、また度々執筆。堺利彦の紹介で入社。「牟婁新報」創立者の1人岡本庄太郎、ついで石田庄七(和歌山紡績社長)宅に下宿。

3月初旬、妹を呼寄せる。のち、荒畑寒村と知合う(寒村は須賀子より6歳年下、須賀子は寒村を「かつ坊」、寒村は須賀子を「姉ちゃん」とよびすぐに親しくなる)。


2月5日

(漱石)

「二月五日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)

2月5日

『光』第6号発行

堺利彦「由分社より」

社会主義理論の研究を目的とする新雑誌(月刊『社会主義研究』)発行の計画発表

「◎外に.一つ、小生の新計画があります。それは『社会主義評論』と題する月刊雑誌の発行であります。小生はこれまで毎度御披露いたした通り、社会主義の理論、歴史、運動について、やや詳細に記述した一書を作りたいと考えておりましたが、一人の力を以て急にまとまった冊子をこしらえる事はなかなか容易でありませぬので、その代りに『社会主義評論』を出そうかと考えております。

◎されはこの『社会主義評論』の目的は、主として欧米の社会主義書類を解説し、翻訳し、批評し、及び社会党の新聞雑誌の記事論文を紹介するのであります。然しこれはなかなかの難事業でありますが、小生も自分の勉強かたがた同志友人の助力をも借りて、出来るだけやって見たいと思います。

◎我々は既に運動の機関として『光』を有しておりますから、直接世と戦うには皆この『光』の城に拠って力を併せたいと思いますが、別にまた退いて静かにこの主義を研究せんがためには、『社会主義評論』も亦その必要があろうと思います。尤もその実行は、早くも三月中旬の事でありますから、なお改めて広告するつもりであります。」

2月7日

中国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀、誕生。

2月7日

英総選挙。ヘンリー・キャンベル・バナマンを首班とする自由党が政権をとる。ジェイムズ・ギア・ハーディ率いる労働代表委員会は、29議席獲得し、27議席の増加となる。

2月8日

タヒチに台風。死者数千人。

2月9日

韓国駐箚憲兵、統監の指揮で軍事・行政・司法警察を掌る勅令公布。

2月10日

『新紀元』第4号発行

石川三四郎「平民の覚悟」

2月10日

(漱石)

「二月十日(土)、快晴。中川芳太郎ほか三人と共に夕食をして談す。

二月十日(土)から二月十三日(火)の聞(推定)、森田草平からの手紙続いて来る。その返事として、二月十三日(火)に二度、二月十五日(木)と続いて出す。二月十三日(火)の二回めの手紙は、森田草平が『芸苑』に批評を執筆したことの感想である。

二月十一日(日)、晴。紀元節。九日(金)に降った雪で道が悪い。

二月十二日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)

2月10日

英、戦艦ドレッドノート第1号鑑、進水。4ヶ月で建造。ポーツマス。世界最強の戦艦。ドレッドノートの出現により、戦艦三笠、ボロジノなどは一挙に旧式化した。以後、建艦競争開始。

2月11日

普選同盟会、普通選挙全国同志大会開催(東京両国伊勢平楼)。300人参加。日本社会党は、普通選挙連合会に加盟し、国家社会党、日本平民党、直行団、新紀元社などと統一行動を組む。

2月20日に中村太八郎、西川光二郎、堺利彦ら60人が、日比谷音楽堂から隊列を組んで衆議院に押しかけ、奥野市次郎、森本駿、上野安太郎、吉根庄一郎の4代議士に面会して2,405名の請願書と普選大会の決議文を手交。普選デモの先駆となる。堺利彦、山路愛山、加藤時次郎らが代表委員に選ばれる。

2月11日

スペインでドリダリタート・カタラナ結成。1907年4月の選挙で躍進。

2月14日

東京市第2回凱旋軍歓迎会。日比谷公園。乃木は式を終えた後、園遊会には参加せず密かに帰宅。

2月15日

堺利彦「菅野須賀子君の入社に就て」(「牟婁新報」)。堺の紹介状。

2月15日

(漱石)

「二月十五日(木)、東京帝国大学で姉崎正治(潮風)に会い、英語学試験嘱託のことで立ち話する。(漱石が英語学試験委貝を断ったことへの忠告か)帰宅後手紙出す。

森田草平宛手紙に、「僕が二十三四にかきかけた小説が十五六枚残って居た。よんで見ると馬鹿氣てまづいものだ。あまり耻かしいから先達て妻に命じて反古にして仕舞った。」と洩らす。

二月十六日(金)、東京帝国大学文科大学で、Tempest を講義する。

二月十七日(土)、姉崎正治(潮風)から、英語学試験嘱託のことで回答あり、返事出す。(推定)」(荒正人、前掲書)

2月16日

伊藤博文、山県・井上2元老、西園寺首相・加藤外相・大山巌元帥・児玉源太郎大将を大磯の別荘に招き、南満州における陸軍の態度について議論。

2月16日

東京市第二回陸軍凱旋大歓迎会。

「各軍隊代表等総計三千五百余名、各大臣(西園寺首相を除く)共催の賓客一千余名、一同着席するや、数万の参列者帽を振り、手を拍ち万歳の声鳴りも止まざる。……上野公園に雲霞と許り集合せる群衆は、上野の森も動き出さん許の大歓呼のみにては足らず、偖(さて)は帽を振り、旗を振り、あらん限りの歓喜を以て熱心に此名誉ある大行進を送り」(東京朝日新聞)

2月16日

啄木(20)、16日~21日、一家の窮状打開のため次姉トラ宅(夫は函館駅長)を訪問、不調。帰途、野辺寺常光寺に一禎を訪ね善後策を相談。

25日、長姉田村サダ(31)、秋田県鹿角郡の小坂銅山で没。結核(啄木一家で最初)。子供5人。夫は小坂銅山の塗装工。啄木は旅費を新渡戸仙岳に借りる、生活費に回して葬儀に出ず。  

2月16日

英総選挙(1/12)で下院29議席獲得のイギリス労働代表委員会、イギリス労働党と改称。


つづく

0 件のコメント: