2025年10月17日金曜日

大杉栄とその時代年表(650) 1906(明治39)年2月1日~4日 「・・・小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を恩ふと河上肇などゝ云ふ人は感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ・・・」(2月3日付け漱石の野間真綱宛て手紙)  

 

河上肇(1905年頃)

大杉栄とその時代年表(649) 1906(明治39)年1月26日~31日 1月31日付け宋教仁の日記 「午後三時、民報社に行ったとき、急に座骨に激しい痛みを感じたので、しばらく横になり、前田氏に願ってそこをたたいてもらった」とある。この前田氏というのは、漱石『草枕』の主人公那美のモデルと言われる前田卓である。 より続く

1906(明治39)年

2月

韓国の王族閔宗植,忠清南道で抗日の義兵。

11月、日本軍に捕われる

2月

二葉亭四迷、亡命ロシア、エスエル党員プロニスラフ・ピルスーツキー(ポーランド人)と知り合う。横山源之助とロシア革命支援を引き出すため、島田三郎、大隈重信、板垣退助、巌本善治らに会う。また、ピルスーツキーのために日本ポーランド協会を設立。ピルスーツキーからは福田英子を紹介される。この夏、同様に亡命者ポドパフと知り合う。

2月

木下尚江「日かげの女王」(のち「隣家の美人」と改題)(「新紀元」)。隣に引越してきたお鯉を見て、彼女を「日かげの女王」と観察、ここまでなり下がらせた社会に反省を促す必要を感じる。

前年9月5日の日比谷焼打ち事件の夜、隣家の井上子爵邸に避難するが、迷惑になるため榎坂の妾宅に戻る。

7日朝、町内代表が来て立退きを要求。引越しを決意して、転居先が見つかるまで「貸家」の札を出し身を潜める。

23日朝、桂の執事が来て手切れ金1万円を置いて行こうとするが押し返す。翌朝、桂よりこれまでの感謝と詫びの手紙。

25日、開き直って外出(「阿鯉御前都落の事」(「東京朝日」27日))。

10月初、実母の名義で借りて、麻布の奥の広尾の南部坂下に転居。家賃16円。麻布警察署警部が来訪し、隣家が社会主義者木下尚江なので転居するよう忠告するが応じず、お鯉の家にも刑事の立ち番ができるようになる。

2月

株式会社加賀製陶所創立(石川県)。

2月

京都市西陣、東京府八王子などの主要織物産地が中心となり、同業組合長の名で織物消費税改正の要求書を政府に提出。

9月、京都、東京、名古屋の3組合が中心となって京都市に織物消費税廃止同盟会の大会を開催。

2月

ハンガリー議会、兵士により解散。憲法停止。

2月

オーストリア、ガウチュ内閣、普通選挙法再上程。否決。11月、可決。

2月

南アフリカのズールーランドで、バンバタの反乱起こる。

2月

オスマン朝、シナイ半島南部の領有権主張。

2月

フィリピン、州知事・役員選挙。


2月1日

韓国統監府および理事庁開庁伊藤統監、黒龍会内田良平幕僚、内田は一進会顧問)。南山西麓。開庁式は臨時統監代理長谷川好道が行う。3月2日に統監伊藤博文着任。

日本軍常置部隊とともに、治安維持のため13道観察府(道庁)に日本人警務顧問の支部を置き、全国26の分遣所と123の分派所に日本警察官を配置して、軍事、警察支配を徹底させる体制を作る。

統監は天皇に直隷して、朝鮮の「安寧」の為に、韓国守備軍司令官に兵力の使用を命ずる権限を持ち、統監令によって刑罰を科す権限をも認められている。

列強の了解。

①明治38年7月、桂・タフト協定。日本がアメリカのフィリピン支配を承認するのと引換えに、アメリカは「日本の承諾なしに韓国が対外条約を結べない程度の保護権」を持つことに同意。

②同年8月、第2回日英同盟。日英同盟の適用範囲を、反英運動が盛んになりつつあるインドにまで拡大し、英国のインド支配に日本が協力することと引き換えに、英国は日本が韓国に対し、「指導、監理、保護ノ措置」をする権限を認める。

③ポーツマス条約で、日本が韓国で「軍事上経済上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコト」を認めていたロシアも、日本の保護権を了承。

④明治40年6月、日仏協商。日本が、フランスのインドシナ支配を認め、ベトナム独立運動の闘士の国外追放に協力することなどで、フランスもアジアにおける日本の地位を認める。

伊藤の統監政治の下で、鉱山開発でも外国資本・朝鮮民族資本の排除と日本資本の進出が進み、交通・通信機関の日本支配も実現。

新しく税務官(税務署)税務主事(税務分署)を設けた新徴税機構では、日本人警察官や憲兵が協力して税徴収に当たる

明治39年の土地家屋規則の設定で、日本人の土地所有に対する法的制限はなくなり、朝鮮での日本人地主は43年には2千人を超え、7万町歩近い土地を所有するに至る。

日本による植民地化が進む中で、「国権回復」の旗を掲げて反侵略と反封建の武力闘争に乗り出した反日義兵が各地で蜂起。

2月1日

西陣・八王子・米沢・桐生・伊勢崎・足利の各織物同業組合長、連署して織物消費税廃止を陳情。

2月1日

第2回社会主義研究会、来会20。

19日、幸徳秋水、アメリカ社会労働党本部視察。

23日、日本での日本平民党・日本社会党結成の報、サンフランシスコに伝わる。

2月2

(漱石)

「二月二日(金)、東京帝国大学文科大学で、 Tempest を講義する。」(荒正人、前掲書)

2月2

仏、政府官吏の教会財産目録作成に暴動発生。570人負傷。

11日 教皇ピウス10世、仏の政教分離政策非難。

2月3

日本政府、1908年までに海軍力をほぼ倍増することを決定。

2月2

高村光太郎(22)、横浜港から、カナダ太平洋鉄道の貨客船アゼニアン号で出航、自費留学生として美術研究のためアメリカに向かう。のちイギリス滞在などを経て、42年7月1日に帰国。

2月3

(漱石)

「二月三日(土)、野間真綱宛手紙に、「小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送つ居る。」と述べる。

午後一時、読売新聞社主催の通信講演会に、松波仁一郎と共に出席する。」(荒正人、前掲書)


この日付け漱石の野間真綱宛て手紙。河上肇の生き方を讃える。

「・・・小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を恩ふと河上肇などゝ云ふ人は感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ・・・」(『漱石全集』22巻)


河上肇は人道的社会主義論を展開していたが、突然擱筆し、一切の教職も辞して、伊藤証信(宗教運動家、1867~1963)の精神修養団体「無我苑」に入り、絶対的非利己主義を主張した。しかし、その後、無我苑を去り、読売新聞記者となる。このような河上の生き方を見ていた漱石の言葉である。

2月4

元オーストリア皇女エリーザベト、ヴィンディッデュグレーツとの間に三男ルドルフ誕生


つづく

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