1906(明治39)年
1月12日
第2軍司令官奥大将凱旋。
14日、第3軍司令官乃木希典大将凱旋。
17日、第4軍司令官野津道貫大将凱旋。
20日、鴨緑江軍司令官川村景明大将凱旋。
後、部隊の復員も進み、4月22日、陸軍は「全ク平時ノ姿勢」に復帰。
1月12日
英総選挙。自由党が過半数。キャンベル・バナマン、首相留任(~1908)。労働代表委員会から29名当選。
2月16日、労働代表委員会、「労働党」と改称。
1月14日
日本平民党結成。西川光二郎・樋口伝ら。普通選挙期成目的とする。
樋口伝は同志社を中退後、さまざまな職業を経て1904年頃から社会主義を唱え始め、西川らと行動を共にする。
日本平民党は、結党の目的として「普通選挙の期成を計るを目的とす」を掲げるにとどめ、社会主義を前面に出さなかったので、西園寺内閣はこれを受理した。
28日、堺利彦・西川光二郎・深尾韶ら、(綱領第1条)「国法の範囲内で社会主義を主張する」日本社会党結成。1901年の社会民主党から6年ぶりに、社会主義を掲げた政党が日本に成立することになった。
1880年生まれの深尾は教員をしていたが、平民社を訪ねて堺と会ったのがきっかけで、社会主義者となった。1905年夏には堺の由分社に入社して『家庭雑誌』の編集に従事している。
2月24日、両党合同し「日本社会党」結成。
1907(大正14)年2年22日、結社禁止命令。
「ただ新たな運動の展開に対していささか希望を与えたものは、山県軍閥直系の桂太郎に代って、かつてはフランスに遊んで自由主義の新風に浴した西園寺公望が、新政府の首相に任じた事であった。西園寺首相は住友財閥の当主吉左衛門の実兄、蔵相の阪谷芳郎は渋沢栄一の女宿、内相の原敬は足尾銅山主古河市兵衛の大番頭、また外相の加藤高明は三菱の駙馬というように、少なくとも外観上はブルジョア的色彩の濃厚な政府であったから、その政策も桂内閣の武断政治に比して自由主義的であろうと予測させた。果然、新内閣は社会主義運動に対しても前政府の如く妄りに弾圧することなく、政綱の穏和なるものに対しては結社の自由を認める方針を明らかにしたのである」(荒畑寒村『続平民社時代』)
1月14日
「一月十四日(日)、暗。野村伝四と共に、日本橋・神田・浅草を散歩する。女義太夫竹本組玉(くみぎよく))(浅草区瓦町二十八番地、現・台東区浅草橋二丁目)・竹本団昇(下谷区上野桜木町二番地、現・台東区根岸一丁目一、二、三番)・・落語家都々逸扇歌(二代め)の家を発見する。
一月十五日(月)、暗。野間真鯛、雉子と巻紙を届ける。(野村伝四が持って来る)
一月十七日(水)、暗。雉子を食べすぎて腋をこわす。
一月十九日(金)東京帝国大学文科大学で、Tempest を講義する。(第二学期の Tempest 講義開始は一月二十六日(金) からかもしれぬ)
一月二十日(土)時。夜、狩野亨吉宛葉書に、享保前後の漢学若の文集の名前十ばかり教示して欲しいと依頼する。
一月二十二日(月)、栗東帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)
1月15日
坂本竜馬の妻だったお竜(66)、横須賀の観念寺の裏長屋で没。
1月15日
添田壽一、ハリマンに南満州鉄道に関する覚書(桂・ハリマン覚書)の無効を通告。
1月16日
アルヘシラス会議開催(~4月7日)。モロッコ独立と領土保全を再確認。仏の特別な立場を容認。モロッコの支配権は仏とスペインで2分。仏優位の管理下に国立銀行創設。モロッコは仏・スペインの勢力範囲となり、独は国際的孤立。
1月18日
フランス大統領にアルマン・ファリエールが就任する。
1月19日
北京に巡警総庁設置。
1月19日
東京・芝公園で新聞同盟大会開催。桂太郎前内閣の新聞弾圧を徹底追及することを決議する。
1月20日
『光』第5号発行
署名「記者」(西川光二郎)社説「社会主義と宗教」
『時代思潮』に掲載された安倍磯雄論文(のちに『新紀元』に天災)への批判
「彼の宗教と社会主義との調和を説き、両者の一致すべきものなるを説く人の如きは、宗教より出でたる漠然たる人間平等の観念、及び貧民を愛する感情的の慈善心と、社会主義との区別を知らざる人なり。」
1月20日
ベルリンで社会民主党デモ。
1月21日
永田雅一、誕生。
1月21日
オークランド、「露国レッド・サンデー記念会」。参加400(うち、在米日本人社会主義者40余)。幸徳秋水演説。他に、IWW代表アンソニー、リオソーブ・ジョンソン夫人、社会党マウスチン・ルイス。
幸徳が、ロシアの同胞の革命は世界的革命の先駆であり、我等はこれを助けんがため全力を尽すべきであると述べて話し終えた時、十数名の亡命革命家たちが演壇に集まり幸徳の握手を求めた。その日会場では、ロシアの同志に送るために寄金58ドル余りが集められた。
翌日は、サンフランシスコのリリックホールで同じ会が開かれ、オークランドの3倍の人々が集まった。
当時のアメリカの労働運動の主流は、産業の平和を守りながら労働者の地位の向上を目的とするAFLであったが、それから除名されたIWWが、西部の坑夫や農業労働者や森林労働者の支持を得て、革命的な労働運動を続けていた。そのIWWに属するものは、17団体3万6200余の労働者であった。このIWWの中には革命的政治運動の必然性を認めるという意味の社会主義者と、個人的テロや経済的テロのような直接行動を説くアナーキストやサンジカリストがいて、両派の間に争いが起こり、後者のアナルコ・サンデカリズム系が勢力を得ていた。
既に獄中にある時からクロボトキンの影響を受けていた秋水は、この地に来てからアナーキストのジョンソンその他の人々に逢って、もっとその傾向を強めるようになった。ロシア系のアナーキストであるフリッチ夫人から、普通選挙無用論や治者暗殺論を聞かされた。またIWWの同志たちからはアナルコ・サンジカリズムの理論の影響を受けた。即ち、議会主義的政治行動を排して、産業別労働組合の組織力による経済的直接行動として大規模なストライキその他の行動を重視する傾向である。
そのようなものとして、ロシア革命の労働者の武装蜂起は、彼に強い印象を与えた。そして幸徳秋水は、次第に暴力を是認するアナーキズム系の思想を抱くようになっていた。
1月22日
ドイツ、社会主義的改革を求める政治集会(赤い月曜日)。選挙制度改革も要求。25万人参加。
1月22日
オーストリア・ハンガリー、セルビアとの国境封鎖。
7月7日、関税戦争「豚戦争」開始。
1月25日
東京朝日新聞記者・杉村楚人冠「雪の凶作地」(1月25日~2月20日)。
困窮する農民の姿を16回にわたって報告。戦勝の陰に泣く出征軍人家族などの惨状を、正義感とヒューマニズムに充ちた気魄あふれる文章によって描き出す。
このルポルタージュがはじまると、全国から新聞社に義捐金が寄せられ、各地に救援組織が作られ、政府もおそまきながら特別措置を急がざるを得なかった。
つづく

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