1906(明治39)年
4月18日
警視庁官制改正。警視庁は内務大臣直属となる。
4月18日
サンフランシスコ大地震。マグニチュード7.8。サンフランシスコだけで死者450人。全体で600人~700人死亡。
滞在中の幸徳、市中の光景に「無政府主義の実現」感銘。交通・食糧無料、運搬・介護・建設など全員で分担。「財産私有は全く消滅した」(「光」)。
3日3晩火事が続き、市街の大部分は焦土となり、30万の罷災者が出た。桑港平民社支部は辛うじて焼失を免れた。
幸徳は、その体験を次のように報じた。
「予は桑港今回の大変災に就て有益なる実験を得た。夫れは外でもない。去る十八日以来、桑港全市は全く無政府的共産制(Anarchist Communism)の状態に在る。商業は総て閉止、郵便、鉄道、汽船(附近への)総て無賃、食糧は毎日救助委員より頒与する、食糧の運搬や、病人負傷者の収容介抱や、焼迹の片付や、避難所の造営は、総て壮丁が義務的に働く。買ふと云ふと云つても商品がないので、金銭は全く無用の物となった。財産私有は全く消滅した。面白いではないか。併し此理想の天地も向ふ数週間しか続かないで、又元の資本私有制に返るのた。惜しいものだ。」
4月19日
宮崎民蔵・相良寅雄、土地復権主義の同志獲得のため全国巡歴に出発。
4月19日
仏、ピエール・キュリー(46)、没。
4月20日
堺利彦「日本社会党に餞す」(「光」第11号)。電車賃値上反対運動で活動家を奪われた社会党を鼓舞激励。
4月20日
(漱石)
「四月二十日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。
四月二十二百(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。
四月二十七日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。(推定)」(荒正人、前掲書)
4月21日
東京地裁重罪裁判に付された河野広中ら日比谷焼打ち事件関連者、全員無罪。検事控訴なく確定。
4月21日
米・カナダ間、アラスカ国境条約成立。
4月22日
田中正造、石川三四郎の「新紀元」社例会で谷中村の実状訴える(「土地兼併の罪悪」)。
この月14日、栃木県知事は谷中村と隣の藤岡村の合併を谷中村村会につきつける。これを契機に、石川三四郎・福田英子らの谷中村視察始まる。廃鉱流出により渡良瀬川・利根川の川床が上り、洪水頻発。政府は治山治水対策に代えて、渡良瀬川・利根川合流地域に遊水地を作ろうとし、谷中村買収を始める(明治37年12月、栃木県会が谷中村買収を議決)。
4月22日
近代五輪開催10周年を記念する中間大会開催(アテネ)。(〜5月2日)
4月23日
ロシア社会民主労働党第4回党大会(ストックホルム大会)で、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの統一に失敗。レーニンの農業綱領が採択される。
4月23日
(荷風)
「四月二十三日 銀行午餐後サウスフェリーとよぶ波止場の公園を歩む。春の海は空と共に青々と晴れ渡りたれば湾頭に屹立するかの自由の女神像はいつよりも更に偉大に打望まれたり。余はこの湾頭遥に大西洋を望めばまだ知らぬ仏蘭西の都と其の芸術の恋しさに今の我が身の果敢なきを思ひ無限の悲愁に打沈めらるゝを常とす。あゝ何事も思ふまじ何事も見まじとて急ぎ銀行に帰り帳簿の上に顔ひたと押当てぬ」(『西遊日誌抄』)
また、この月ニューヨークを訪問したロシアのゴーリキがひどく冷遇された経緯を記す。
4月25日
桜井忠温『肉弾』刊行。
桜井忠温(ただよし);
明治12年6月11日愛媛県松山市生まれ。松山中学校、陸軍士官学校(13期)、日露戦争出征。歩兵第22連隊小隊長として第1回旅順総攻撃で負傷(死体と間違われ火葬場寸前で息を吹きかえす)。病院で「肉弾」執筆(題字乃木希典)。
戦場の極限状態で、部下・親友の安否を気づかい、家族を思いやる兵士達を描いた作品。一大ベストセラーになり英米仏独伊等15ヶ国で翻訳・出版。天皇の特別拝謁栄誉をうける。独皇帝ウィルヘルム2世は、これを将兵必読の書として奨励。米ルーズベルト大統領は桜井宛に賞賛の書簡を寄せる。
しかし、陸軍上層部はこれを忌避、桜井は7年間執筆中断。大正2年「銃後」、昭和6年「戦いはこれからだ」、昭和8年「大将白川」、昭和14年「将軍木」刊行。陸軍省新聞班長を経て昭和3年少将で退役。昭和12年後備役編入、昭和15年文化奉公会副会長。昭和22年戦犯追放(5年後に解除)、昭和29年執筆再開、「落葉村舎」「哀しきものの記録」を残す。昭和40年9月17日松山市で没(86)。
『肉弾』と並ぶ戦記ものベストセラー『此一戦』を著し、後に反戦思想家になった海軍軍人水野広徳と対比される。
4月26日
啄木(20)は高等小学校の生徒を教えられぬことに不満を抱き、この日から「高等科生徒の希望者へ放課後課外に英語教授を開始」する。「余は日本一の代用教員である」という心意気である。
啄木は英語の自主講座のみならず、通常の授業でも「先ず手初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みて居る」。「文部省の規定した教授細目は『教育の仮面』にすぎぬのだ」という。
彼のほぼ1年だけ代用教員の活動
夏休みに生徒は禁じられている盆踊りに自ら興じ、生徒にも踊るよう教える。
自宅で早朝、20人ばかりの生徒を集め、「朝読」を行う。
希みどおり高等科の地理歴史と作文の授業を受けもつと、翌1907年(明治40)からは生徒に「自治的精神を涵養せむ」ために、上級生にわざわざ「種々の訊問」を問いかける。
毎日、5分間か、10分間、簡単な英会話を教える。
熱心に子どもに接している。「雪ふる夜も風の夜も、訪ひくる児等のために、十時過ぎまでは予自らの時間といふものなし」(1月13日)。
また、村の青年たちの相談にものり、やがて彼らのために夜学まではじめる。「華氏十七八度といふ寒い晩に風吹き通す教場に立って三時間も声を立てつゞけたので、遂々悪質な流行感冒の襲ふ所となった」。
3月20日。卒業生送別会を「一切生徒にやらせ」る。その日、「会の詳しい模様と、それから我が校に関する自分の希望とを細々と響いた手紙を平野郡視学宛に認め」る。
それから2週間余、臨時村会が開かれ、彼は免職となる。
啄木の性急さの裏には、村人たちとの確執、殊に父親の問題がある。
父石川一禎は宗費を滞納し、2年前、渋民村宝徳寺住職を罷免された。この事件が尾を引き、啄木一家が故郷に戻ることさえ認めない村人が多かった。父一禎は啄木が故郷に戻ってすぐに、懲戒赦免となるが、この処罪が村の内部を二分させる。一禎が再び住職になることを望む派と、石川一家を追い出す派の二派に分かれる。父一禎は村の空気に反応し、3月5日、家族に無断で家を出てしまう。
父の家出により、結局啄木は故郷渋民村を離れることになる。
彼は父の問題を抱えていただけに、村における自分の立場を得ることに躍起となり、積極的に子どもたちや青年に接近し、一途に自分の教育理念を進めようとした。
4月27日
清国、英とチベット条約(チベットに関する英清条約、西蔵条約)調印。英は不併合・不干渉を約束するが、チベットを統制下に置く。英はチベット国内に入る道路の全てを掌握。他の列強は、英の許可なくチベット領の占領・購入・租借が不可能に。露の拡大政策阻止が目的。
4月27日
「牟婁新報」社長毛利柴庵、出獄。筆禍事件で45日入獄。「牟婁新報」記年号には出獄歓迎の辞(境野黄洋、高島米峰ら)。菅野須賀子「篭城記」掲載。
4月28日
ミラノ万国博覧会開催(〜11月11日)
4月30日
征露凱旋陸軍大観兵式挙行(東京青山練兵場)。
4月30日
「四月三十日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八匹紀英文学」を講義する。
『吾誰は猫である』(十)の稿料として三十八円五十銭、及び『坊っちゃん』の分として、百四十八円(合計百八十六円五十銭)受け取る。
(森田草平、中判の洋罫紙に四十八ページの英文論文を響きあげる。四月十五日(日)か十六日(月)から書き始める。マーローを扱ったものである。)」(荒正人、前掲書)
つづく

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