2025年10月23日木曜日

大杉栄とその時代年表(656) 1906(明治39)年3月12日~18日 東京市電運賃値上反対第2回市民大会 「この頃になって警官隊が騎馬巡査を先頭に鎮圧に駈けつけて来た。それを見た西川は、『これで今日は解散する』と群衆に挨拶したが、納まらないのは戦闘的な土工たちであった。彼らは『ここまで人を連れて来てこのまま解散するとは卑怯千万だ』と西川らに詰め寄り、西川たちはその勢いに怖れをなして、逃げ出すような始末であった。」(吉川守邦「荊逆星霜史」)

 

大杉栄とその時代年表(655) 1906(明治39)年3月8日~11日 「明くれは十一日、...日比谷公園には各方面から参集する男女一千余名、...園内の芝山には「電車値上反対市民大会 日本社会党」と大書した赤旗を中心に数十旒の赤旗が林立し、...午後一時、主催者を代表して山路愛山(国家社会党)が全員の拍手喝采裡に左の二決議文を朗読した。(略)次いで主催者代表は、右の二決議を内務大臣に手交するため、...五人を委員に指名したが、大臣不在のため委員は決議文をのこして帰った。五委員は解散後、群衆とともに赤旗四旒、幟二旒を押し立て大太鼓を打ち鳴らしつつ公園を出て有楽町の堅く門扉を閉ざした街鉄会社に押し寄せ、...更に数千枚の檄を配布しつつ 『人民』、『日日』、『時事』、『毎日』、『萬朝』、『読売』の各新聞社前に至り、「資本家に買収された新聞」「電車賃値上げに反対せよ」「反対せざる新聞は購読せず」などと叫んで示威運動の威勢を示した。」(荒畑『続平民社時代』) ) より続く

1906(明治39)年

3月12日

東京市会、運賃値上げ4銭均一に決定

3月12日

4月30日に大観兵式を青山練兵場にて行う旨発表(この観兵式は明治における最大の祝典となる)

3月12日

(漱石)

「三月十二日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)

3月13日

第1師団招魂祭、青山練兵場にて挙行。

「遺族の参拝者午前六時より陸続詰め懸け信濃町停車場より下車するもの街鉄青山線を利用して来る者引も切らず」(読売新聞)

3月13日

臨時軍事費予算4億5,045万円追加公布。合計で15億3,045万円。

3月14日

五十嵐健治、洗濯業白洋舎を東京日本橋呉服町に開業。

3月14日

(漱石)

「三月十四日(水)頃、『坊っちゃん』の構想を突然、得たらしい。

三月十七日(土)頃から『坊っちゃん』書き始める。」(荒正人、前掲書)


3月14日

吾妻隼人(山中峯太郎)処女小説「真澄大尉」(「大阪毎日新聞」連載、~5月26日)。日露戦争での軍事探偵の物語。原稿料200円。峯太郎は、養父の説得により6月、陸軍士官学校(第19期)に復学(今村・本間と同期)。

3月14日

仏、サリアン内閣成立。

3月15日

東京市電運賃値上反対第2回市民大会激化(兇徒聚衆事件)。司会加藤時次郎。日比谷公園。反対デモ1,600人が市役所・東京市街鉄道本社に押しかけ、その後、山下門の前の電車線路を占拠。

夜、日本社会党員の西川光二郎、山口、樋口、斎藤兼次郎、市川守圀、岡千代彦、深尾が警視庁に拘引される(電車賃値上げ反対騒擾事件)。

3月20日、大杉栄(21)、竹内余所次郎、半田一郎とともに凶徒聚衆罪容疑で麹町署に拘引される。

共同弁護人花井卓蔵・今村力三郎・高木益太郎・布施辰治(山口孤剣担当、初めての社会主義者弁護)。

6月21日、保釈。

この値上げ問題は政府の不許可でひとまず治まる。まもなく、3会社が合併、値上げを再申請、政府はこれを認可。再び、反対運動

9月5日、諸団体連合市民大会で社会党は「乗らぬ同盟」を提議、可決される。"


「さて待望の三月十五日になった。その日は朝から寒く、強い風が吹いていた。しかし第一回の大会の会主である堺が一向に現われない。その間に、穏健派の加藤時次郎、田川大吉郎が少し藤棚のある丘で集会をはじめ、さっさと解散しだした。機を逸しては大変とばかり、いそいで西川が立上り、開会中の市会へデモをかけようと呼びかけた。それを合図に、『電車値上反対』『三銭均一万歳』『大示威運動』『我々は市会の決議を無視す』と大きく書かれた四本の赤旗を、山口、大杉、深尾、樋口がかついで芝山を駈け下り、デモの先頭に立った。デモは前回同様、東京市街鉄道会社を襲い、会社の窓ガラスを目がけてばらばらと石が飛んだ。だが、会社の方からはなんの手答えもないので、デモ隊は山下見付の電車線路を占領、電車は不通になり、運転手は一目散に逃げだした。その後、デモ隊は二手に分れ、一隊は鍛冶橋を通って市会へ、別の一隊は、東京市街鉄道会社変圧所の板塀や窓ガラスをこわしたりしながら、これまた市会へ向った。しかし、市会にも人影一つ見えなかった。デモ隊は市役所土木課などの建物を市会議事堂とまちがえて投石するなど暴れ廻り、馬場先門付近で線路工事をしていた三十人ばかりの土工も、鶴塀などをかついでデモ隊に合流した。そのため神田橋から日比谷へ行く電車は、みんなストップしてしまった。この頃になって警官隊が騎馬巡査を先頭に鎮圧に駈けつけて来た。それを見た西川は、『これで今日は解散する』と群衆に挨拶したが、納まらないのは戦闘的な土工たちであった。彼らは『ここまで人を連れて来てこのまま解散するとは卑怯千万だ』と西川らに詰め寄り、西川たちはその勢いに怖れをなして、逃げ出すような始末であった。」(吉川守邦「荊逆星霜史」)

3月15日

堺利彦主筆「社会主義研究」創刊(由文社)。社会主義運動史上最初の専門研究雑誌。

第1号~第5号、明治39年3月15日~同8月1日

先に、堺と秋水が『平民新聞』に「共産党宣言」を翻訳して掲載したが、発売禁止になる。大審院判決は、宣伝目的で掲載するのは禁ずるが、研究のためなら発表してかまわない、というものだった。そこで堺はこの判決を逆手に取って、『社会主義研究』創刊号の巻頭に「共産党宣言」全文を翻訳して掲載した。政府はこれは黙認せざるをえなかった。しかし、『社会主義研究』は思ったほど売れず、経営が困難になって第5号で終刊する

この号は、巻頭の幸徳・堺訳「共産党宣言」のほか、リープクネヒト稿・志津野訳の「マルクス伝」、カウツキー稿・堺訳の「エンゲルス伝」、大杉栄の「万国社会党大会略史」を掲載。


発刊の辞

「吾人は社会主義を信じて之を主張すると同時に、また常にこの主義の研究を怠る者にあらず。

吾人は本誌において自らこの主義を研究し、また世の同志のために、及びこの主義に趣味利害を有する人々のために、いささか研究の材料を供給せんと欲す。

故に吾人は、主として欧米の書籍、雑誌、新聞等により、この主義に関する理論、歴史、運動等をやや精細に記述せんことを勉むべし。

吾人はまた、常に読者諸君の質問に応じ、その説明を本誌に掲げて相互研究の道を開くべし。

吾人はまた、この主義に関する一切の理論に対し、常に批評弁護の労を惜まざるべし。

吾人はまた、本誌の一部(外国語欄)において、絶えず世界中の同志と思想上の交通を試むべし。

要するに、吾人は本誌が存在を許さるゝ間、世の需要に従いて誠実にその任を尽すべし。

                                                  堺  利 彦」


3月15日

「余が文章に裨益せし書籍」(談話筆記)〔『文章世界』3月号 (創刊号。3月15日発行)〕 (「雑録」として「夏目漱石氏」、「大町桂月氏」、「池邊吉太郎氏」の三人の談話が掲げられている。)

3月15日

田辺、夜、菅野須賀子、市内ミス・レビット(婦人宣教師)宅での田辺婦人矯風会例会出席。

翌16日、社長柴庵の病夫人を見舞い、夜、妹・寒村と3人で稲荷屋に琵琶歌を聞きにゆき、帰宅後、夜更けまで社会主義論をやる。

3月16日

第5回日比谷焼き打ち事件公判

3月16日

日本興業銀行,韓国政府と起業資金千万円貸付の契約を締結。韓国政府貸付金と、釜山水道事業及び韓国各地農工銀行に対する資金の融通を契約。

3月16日

鉄道国有法、議会通過。目的は全国の主要鉄道の買収。

3月17日

台湾嘉義地方で大地震。全半壊10,400戸、死者1,258人、負傷者2,390人。4月14日に再び大地震。

3月17日

電車賃値上げの第3回市民大会の計画を警視庁が開催禁止

3月18日

禁止の市民大会、上野公園にて挙行。

「旗竿の竿頭高く皇室中心社会主義大日本青年議団と大書せる旗ハ翻へり集団一斉に拍手歓声之を迎へたるが巡査ハ直ニ旗を引上げたる青年二名拘引」。実際の拘引者は6名。

電車被害「午後二時十分頃南行第一一五号が上野山下筒井牛肉店の前まで進行し来るや群衆一時に押し寄せ、その中の一人突然車掌清水竹次郎に向つてステッキを以て打ち蒐り同人の腕に軽傷を負はし且つ同時に硝子三枚を破壊したる」(読売新聞)


つづく

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