中列:左から一人おいて、堺爲子、少女時代の堺真柄、山川の妻の大須賀里子。
1906(明治39)年
12月5日
日本と清国、営口還付に関する取極調印。
12月5日
永岡鶴造・南助松ら、大日本労働至誠会足尾支部結成、ストライキ準備。
翌明治40年2月「騒擾」。南は、「平民新聞」創刊後はその読者となる。
12月5日
(漱石)
「十二月五日(水)、第一高等学校で、家主の斎藤阿具が第二高等学校から第一高等学校に転任することを知る。斎藤阿具に現在の家を明け渡す必要があるかどうか問い合せる。(斉藤阿具、第一高等学校の原勝一郎が京都帝国大学文科大学へ転任するので、後任に来ぬかとの誘いを受け、中川元校長への恩義もあり、迷ったが、沢柳政太郎の忠告もあり、遂に第一高等学校への転任を承諾する。十二月末に、第一高等学校に転任する辞令を貰う。東京市本郷区千駄木町五十七番地(現・文京区向丘二丁目二十番七号)の持家を漱石に借してあったので、明け渡しを求める)
十二月六日(木)以前(推定)、小宮豊隆、漱石の許で、鈴木三重吉に初めて逢う。
十二月六日(木)、木曜会。松根東洋城・寺田寅彦・高浜虚子・鈴木三重吉・坂本四方太・中川芳太郎・森田草平.野間真綱.皆川正禧らのほか、俳人・歌人・記者二人なども集る。鈴木三重吉、『山彦』を持参する。初めは自分で読んでいたが、昂奮して読めなくなり、高浜虚子が代って読む。二、三か所を非難する。高浜虚子は、径(こみち)ばかり多くて大道がないと云う。但し、高浜虚子は原稿を持帰る。
十二月八日(土)(七日(金)かもしれぬ)、森田草平から手紙で、鈴木三重吉の『山彦』の批評を書いてくる。
十二月十日 (月)、『野分』(題未定)起稿する。」(荒正人、前掲書)
12月6日
英、トランスヴァールとオレンジ・リバー植民地に地方自治政府を認める。選挙権は白人男性のみに付与。1907年樹立。
12月7日
湖南の瀏陽で洪福会斎天会の蜂起(瀏陽革命)。
12月8日
満州製粉株式会社設立。
12月8日
(漱石)
「十二月八日 (土)森田草平宛手紙に、「山彦の評落手拝見一々賛成に候然しデカダン涙の感じは假令如何なる文學にも散點せざれば必竟駄目に候。ボードレール杯申す輩のは遂に病的の感に候。三重吉の方が艅程上等に候。君の方のデカダンは結構に候。但眞の為めに美や道徳を犠牲にする一派に候。夫もよろしく候。僕文學諭にて之を論せんと思ひし所時間なく其儘に相成居候。」(荒正人、前掲書)
12月9日
品川沖停泊の軍艦で、渡船の際の突風のため参観者58人が転落、溺死。
12月10日
合資会社桐生製作所設立。織物準備機の製作、資本金1万円、1907年3月開業。1917年、桐生機械株式会社となる。資本金10万円。
12月10日
旧函館中華会館が完成(ただし翌年大火により消失、現在の建物は1910年に完成)
12月10日
日露戦争終結に尽力のルーズベルト,ノーベル平和賞受賞.
12月11日
大阪砲兵工廠職工、賃上げを要求し、ストライキ。
12月14日、憲兵・警官750人が出動し、首謀者5人を拘引。
12月12日
市川左団次(2世、26)、横浜港から鎌倉丸で出航、ヨーロッパに向かう。
12月13日
(漱石)
「十二月十三日 (木)、家主の斎藤阿具に、西片町に家があくから、そこに移転することになろうと知らせる。」(荒正人、前掲書)
12月13日
英、労働争議法・労働災害保障法成立。タフ・ヴェール判決を覆す。
12月13日
独議会、危機。
植民地統括組織を改編し独領南西アフリカ(現ナミビア)で1904年以来続いているヘレロ族反乱鎮圧のための軍事費拠出法案を、中央党が拒否。帝国議会解散。改選後中央党と社会党の勢力後退。
12月13日
英仏伊3ヵ国、アビシニア条約を締結
12月14日
独キール軍港でドイツ海軍の潜水艦(Uボート)第1号艦U1が進水。
12月15日
逓信省、年賀郵便の受付を初めて開始。
12月中旬
山川均(26)、日刊『平民新聞』創刊に際して幸徳秋水に招かれて倉敷から上京。
『山川均自伝』には、1906年12月中旬に新橋に到着、すぐに新富町の平民社を訪ねて初めて堺に会った、と書かれている。山川は堺より10歳年下で、このとき26歳。以前、山川は有楽町時代の平民社を訪ねて幸徳秋水の講演を聴いたことがあり、秋水に手紙を書いていた。そのことを覚えていた秋水が、日刊『平民新聞』編集員として来ないか、と山川を手紙で呼び寄せた。
堺は同紙の「平民日記」欄で「諸君の中には山川均君の名を記憶せぬ人もあるでせう、山川君は曾て皇太子御結婚の当時不敬罪を以て処罰せられ、未丁年の故を以て酌量軽減せられながら、猶且つ三年六ケ月の長き月日を巣鴨監獄に送った人である」と紹介している。この「皇太子」はのちの大正天皇、山川は不敬罪で起訴されて重禁錮3年6ヶ月、罰金120円、監視1年の判決を受け、19歳から長く獄中で過ごした。
山川均は10代後半で社会主義に興味を持ち、友人の守田有秋と1900年から『青年之福音』という6~8ページの小冊子を毎月発行。同年5月は皇太子嘉仁と九条節子との「御成婚」があり、守田がこれを批判するような記事を書いた。山川はそれに後で筆を入れたにすぎなかったが、この記事が問題になって2人は不敬罪で投獄された。守田有秋はその後、『二六新聞』記者となり、社会主義運動の同志として堺らと交友するようになる。
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿