2026年3月31日火曜日

大杉栄とその時代年表(795) 1908(明治41)年7月26日~31日 「夜、何か書くつもりだつたが、些ともそんな張合がない。 うつらうつらと、気のぬけた様な心地で、蚊に攻められながら、いろいろの事を考へた。大薩パに言つてみようなら、自己の価値、文学の価値、それらが総て疑問だ。深い深い疑問だ。人生は痛切な事実だ。予は生れてから今が一番真面目な時だ。然し今でもまだ不真面目なところがある。」(啄木日記)

 

金田一京助

大杉栄とその時代年表(794) 1908(明治41)年7月24日~25日 「社会主義の巨頭幸徳秋水の来遊を歓迎して、新宮町の同志大石誠之助の発起によって大石の感化を受けて社会主義を奉ずるようになっていた町内の二、三の人々、たとえば真宗の僧侶や、川奥の山に働く青年やいかだ流しの若者、さては社会主義とは関係なく大石と親交のある町のインテリなど、大石の呼びかけに応じて集まり、季節柄熊野川に自慢の落鮎狩りを催して晩夏一夕の涼をとり、互に杯を交して親睦しつつ幸徳氏の旅情をねぎらい高話を聴こうと川舟を用意した。」(佐藤春夫『大逆事件の思い出』) より続く

1908(明治41)年

7月26日

武昌で湖北軍隊同盟会成立。

7月26日

「七月二十六日

(略)

十二時半から四時まで昼寝。

夜、何か書くつもりだつたが、些ともそんな張合がない。

うつらうつらと、気のぬけた様な心地で、蚊に攻められながら、いろいろの事を考へた。大薩パに言つてみようなら、自己の価値、文学の価値、それらが総て疑問だ。深い深い疑問だ。人生は痛切な事実だ。予は生れてから今が一番真面目な時だ。然し今でもまだ不真面目なところがある。


七月二十七日

忘るべからざる、最も真面目に過した一日として、此日の日記を書かう。

(略)

・・・女中の愛ちゃんが来て、先月分からの下宿料の催促。いふべからざる暗怒をかくして、自分は随分冷やかに応答した。女中は五六回つづけて来た。とうとう、先月分の十五円若干を、明夕までに払はなければお断りするといふ事になつた。

自分一個の死活問題が迫つたといふ感じが、妙に深く自分の胸にひびいた。と、一種の深い決心が起つた。決心!――あらゆる不安を圧搾して石の如くした様な決心!

平生自分が、一家の処置、其将来などを思ふ時は、悲しいうち、痛ましいうち、苦しいうち、にも、猶多少空想を容れる余地がある。が、この自分一個の生命に関する問題になると、寸毫のゆるみもなく、隙もない。

決心! に妙な怒りが伴つてゐた。然しこの怒りは、常の如く外に発しようとする怒りでなくて、却つて内に破裂した――自分の一切の自負とかプライドとかを一砕して了つて、………噫、かなしい事だ!

十二時二十分頃に出かけた。無論金田一君に頼めば、調停してくれるとは思ふが、否、否、自分一身の死活問題だ。今が今は何とか弥縫がついても、やがてまた繰返さるべき問題だ。何とか自分で解決せねばならぬといふ考。

九十三度の炎天。灰色になつた白地の単衣が垢にしめつて、昆布でも纏うてゐる様な心地だ。英和辞書――自分の最後の財産を売つて、電車賃と煙草代を拵へた。

江戸川の終点まで電車にのつた。・・・・・"

鶴巻町の八雲館に藤條静暁君を訪ねると、一昨日帰郷したとの事。・・・・・

戸塚村五番地! 自分は小栗風葉氏を訪ねて、旧交もある事であれば、居候においてくれと頼むつもりであつた。

然し、それから三時過まで探しに探して、遂々見つけかねた。アトで聞けば自分は完く別方面な戸塚町の方を探したのだげな。

若松町(?)とか、喜久井町とか、南町とか榎町とか、それはそれは、生れた以来初めての町許りアテもなく汗みづくになつて辿り歩いた。俺は死ぬのだといふ弱々しい決心と、無宿者といふ強い感じとを抱いて、初めて町の炎天の下を、両側を物珍らしげに見てあるいた。・・・・・

北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。・・・・・

いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。

(略)

電車で春日町まで来て、広い坂をテクテク上ると、また汗が出た。電車が一台勢ひよく坂を下つて来た。ハット自分は其前に跳込みたくなつた。然し考へた。自分は自分の歌をかいた扇を持つてゐる。死ぬと、屹度これで自分だといふ事が知れるだらう。――かくて予は死ななかつた。・・・・・

金田一君が留守だ。

七時半に駿河台なる長谷川氏を訪ねた。・・・・・愉快に話して十時に辞した。

生温かい夜の風に、一日の汗で濡れた単衣の裾が脛に絡まつて心地悪い。怎やら少し気が軽くなつて、尻端折つて帰つて来た。金田一君へ行つて半時間許り話した。疲労のためグッスリと寝た。」(啄木日記)

7月26日

アメリカ連邦捜査局設立

7月27日

(漱石)

「七月二十七日(月)、村上半太郎(霽月)宛手紙に、「九月初より兩新聞に又々顔をさらす始末にて只今腹案を調へ中三四日中に執筆に取りかゝり度と存居候へども何だか漠然として取り留めなく自分ながら恐縮の體に御座候。」と述べている。

七月三十日(木)、Benno Erdmann(1851-1921)(エルトマン)の主著""Kants Kritizisms""1878(『カントの批判主義)読む。暑いので水二、三回浴びる。蚊幾らか少ない。筆に発疹生じる。猫、無暗に嘔吐し始末悪い。

(七月末(日不詳)、森田草平、植木屋の下宿を引き払い、正宗院(牛込区横寺町四十番地)の裏座敷(六畳)に移る。)

七月下旬または八月上旬に、東京帝国大学理科大学実験室に、寺田寅彦を訪ねる。寺田寅彦は大河内正敏子爵と共に、鉄砲の弾丸を発射する時のシュリーレンを写真に撮っている。」(荒正人、前掲書)

7月28日

大杉栄、初の翻訳単行本『万物の同根一族』(ハワード・ムーア、有楽社)出版

7月28日

「七月二十八日

(略)

昼飯を食つて出懸かた。日本橋本町の博文館、其編輯局の三階の応接室で長谷川氏と逢つた。風通しがよくて莫迦に涼い。

稿料今月は駄目。

それから知らぬ町をうろつき廻つて鎌倉川岸から濠端、神田橋外から電車に乗つて芝に吉井君を訪ねた。・・・・・四時頃辞した。

・・・・・燻んだ顔をして室に入つて、岩崎君からの手紙を読んでると金田一君。莞爾として入つて来て、“主婦が乱暴な事申上げたと云つて頻りにあやまつてました。”!!!

宿では金田一君から話してくれたので、今後予に対して決して催促せぬと云つたといふ。友の好意! そして十六円出してこれを宿に払ひなさいと!

予はあまりの事に開いた口がふさがらなかつた。何と言つてよいやら急に言もない。

厚い厚い友の情に感謝する。その深い、言葉の裏には、また、家族を函館の友の情に頼んでおいて、然も自分自身さへも友の情に泣かねばならぬ有様に対して、言ふ許りなき悲しみも湧いた。

又一方には、昨日から今日、自分が一生懸命になつて考へ、奔走した事が、朝日に消ゆる霧の跡方なく吹き払はれた様なので、張合が抜けて了つた様な笑も催された。

然し、これは無論此度だけの事である。自分はこれによつて、今後の事を全く安心しえたのではない。焦眉の急が消えたといふだけで、同じ問題が依然として、自分の長い将来に暗雲の如く横はつてゐる。噫、奈何にして活くべき乎?

(略)

七時半に千駄ヶ谷のステーションに降りると夏草にすだく虫の声! 晶子さんと楽しく語つた。新詩社解散の事、その後継雑誌の事について、少し乱暴と思ふ程自分の思ふ通りの異見も言つた。女史は親身の姉の様な気がする。話が長くなつて、帰りには甲武線の電車がなく、四谷まで暗い路をテクテクと歩いて電車で帰つたのは十二時過ぎであつた。八月から大盲動すると許り心で叫んでゐた。」(啄木日記)

7月31日

パリ、24時間スト・市内デモ中の採炭労働者に騎兵隊が襲いかかり200人死傷者。

7月31日

ブリティッシュ・コロンビア州で山林火災。損害約700万ドル・死者100人以上。ファーニーの町は跡形もなく焼失。



つづく


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