東京 江戸城(皇居)東御苑
*昭和17年(1942)
10月24日
・夜、ガダルカナル、第2次総攻撃失敗。
第2師団(丸山政男中将)夜襲。
右翼隊(東海林俊成大佐の第230聯隊)失敗、左翼隊(那須弓雄中将)第29連隊(古宮政次郎大佐)突進、頓挫。古宮連隊長、敵中脱出できず後自決。
25日、丸山第2師団長、再度夜襲命令。失敗。那須少将・第16連隊長広安寿郎大佐、戦死。
第29聯隊の損害:2日間で戦死522、戦傷と併せ損害は50%。
26日午前6時、第17軍百武司令官、ガダルカナル第2次総攻撃中止命令。
一木支隊、川口支隊に続き、日露戦争以来の伝統に輝く第2師団の攻撃も失敗に終わる。
【戦闘概観】
24日午前5時、師団長出発、予備隊と共に左翼隊後方を4km前進
(前日の辻の報告とは異なる。理由不明)。
正午、師団長の攻撃開始に関する最後の命令。
「・・・ 三 両翼隊ハ一七〇〇(東京時間)ヲ期シ突撃ヲ決行シ敵線深ク殺到スへシ
四 予ハ一四〇〇迄現在地二在り 爾後左翼隊後方ヲ飛行場ニ向ヒ前進ス」。
これと前後して、軍戦闘司令所に辻参謀から報告。
「第二師団の第一線は敵に察知せられることなく飛行場南方約二粁附近に進出し、両翼隊は各々四条のジャングル道により前進中。歩兵第十六連隊は『ムカデ』草原南側に集結しあり。師団司令部は今より『ムカデ』南側地区出発、前方に進出す。電話線の余力なき故、爾後軍戦闘司令所との連絡はきれるも、本夜は確実故次回に無電にて『バンザイ』を送る」。
12時20分、第17軍は、大本営とラバウルの司令部と連合艦隊に対し、
「一 第二師団ハ敵ニ発見セラルルコトナク一二〇〇頃飛行場南方約二キロ附近ニ達シ数条ノ「ジャングル」道ヲ続イテ敵ニ近迫中ナリ 二 第一線ヨリノ報告ニ依レハ予定時刻ニ突入シ得ル状態ニ在リ」と楽観的電報。
米軍は、マタニカウ川東方に住吉部隊関係(岡、中熊部隊)の動きを発見しており(住吉部隊正面は牽制作戦の意図があり、発見されてもよい)、24日午後遅く、第7海兵隊巡邏隊の落伍兵が戻り、双眼鏡でプラディ峰(ムカデ高地)を観察している日本軍将校がいたと報告。
同時に、分派偵察狙撃隊の一海兵は、プラディ峰南斜面の南方約1浬3/4、ルンガ川のU型屈曲部付近の密林に沢山の炊煙が昇るのを見たと報じる。
しかし、日も暮れており、防禦強化の工事を施すことが出来ず、長い戦線に薄く配備された第7海兵隊第1大隊で敵の攻撃を待ち受けた、となっている。(ジョン・ミラー書)
住吉部隊(砲兵部隊、岡部隊、中熊部隊)の状況。
住吉支隊砲兵隊は、当初計画に基づき、21日午後2時半~4時、第1砲兵群をもって飛行場滑走路、第2砲兵群によって「サル」「トラ」高地、マタニカウ川右岸陣地、砲兵陣地を砲撃するが、使用弾薬制限の為、砲兵火力をもって敵を打ちのめす本来の砲兵戦効果からは程遠い。
総攻撃が23日に延期されても、住吉支隊は攻撃を続行、岡部隊は支隊長から22日夕、アウステン山とマタニカウ川右岸の敵陣地攻撃を、23日以後は「ネコ」「シシ」高地陣地攻撃を命ぜられる。
岡部隊は、22日夜、その1中隊がマタニカウ川一本橋南東約1kmのアウステン山北西鶴に辿り着く、主力はジャングルに前進を阻まれ、22日は1日1kmしか前進できず。
22日夜、第17軍司令官は、住吉支隊を海岸方面の助攻正面としてでなく、独自の決戦任務を与える必要を認め、「住吉支隊ハ二十三日ナルへク早ク「マタこカウ」河右岸ノ陣地ヲ攻略シ爾後ノ攻撃ヲ準備スへシ(爾後の攻撃は飛行場周辺主陣地のこと) 住吉支隊ニ独立戦車第一中隊及独立速射砲第二大隊(一中隊欠)ヲ増加配備ス」と命令。
22日午後10時、住吉支隊長はアウステン山西麓で、「岡部隊ハ万難ヲ排シ速ニ一本橋附近草原ニ進出シ「マ」河右岸ノ敵陣地ニ対シ攻撃ヲ準備スへシ(攻撃開始は砲兵協力の下に23日午後1時)」、「中熊部隊ハ岡部隊ノ「マ」河右岸陣地突入後機ヲ失セス「マ」河ヲ渡河シ「マ」河右岸敵陣地ヲ攻略スへシ」と、命令。
岡部隊は、23午前10時、アウステン山北端で攻撃準備を整え、午後1時30分攻撃前進。地形錯雑とし、敵間隙への潜入進出を図る部隊の企図は捗らず。23日の攻撃は24日払暁になって、第1線の歩兵第4連隊第3大隊と岡連隊第2大隊の先頭がようやく「イヌ」高地東方の草原地帯に連出し、先頭中隊は敵陣地攻撃を始めた筈だが、密林が深く連絡がとれず状況不明。
中熊部隊(歩四)は、配属された独立戦車第1中隊を第2大隊に配属し、23日午前11時20分、行動開始を命令。
第1大隊は、第2大隊がマタニカウ川右岸に進出すれば、クルツ岬南西地区に進出する予定。しかし、第2大隊は11時20分に命令を受け、午後3時に機動開始、4時30分、各中隊に攻撃前進命令。第1線が渡河点附近に達するまで、米軍第1線は沈黙し、突如、砲兵含む熾烈な射撃を開始し兵力を増強。中熊部隊は損害続出し前進停止。
中熊部隊第2大隊に配属された独立戦車第1中隊は、午後2時頃、マタニカウ河口方向に前進するが、歩兵の進出が遅れ、敵陣前200mで停止し、5時頃迄歩兵の進出を待つ。歩兵が追求し、戦車隊は、各車各個にマタニカウ川渡河攻撃を開始。味方砲兵の掩護はない。米軍は37ミリ砲を並べて対戦車戦の用意をしていたが、まずルンガ岬方面の砲兵陣地が15榴・迫撃砲で濃密な集中射撃。戦車隊10両全部が破壊。歩兵も、敵第11海兵隊がマタニカウ川・クルツ岬間の600~800ヤード幅に絶え間なく浴びせられる弾幕に遮られ、1人も渡河し得ず。
住吉支隊長はアウステン山西麓で無線により第1線両部隊と砲兵隊を指揮するが、統一的指揮がとれず、各大隊・各中隊が分離して相互連絡ない状態で戦況が推移。
支隊長も第1線連隊長も24日朝まで部下部隊を掌握出来ず。
○総攻撃(24日)。
午後2時頃~7時過ぎ、土砂降りの豪雨。
雨が止んだ時点で、突入時刻は過ぎているが、どの地点もまだ米軍と接触していない。
右翼隊第1線の歩兵第230連隊(東海林大佐。第2大隊欠)は、右第1線を第1隊(関谷少佐)、左第1線を第3大隊(大根田少佐)とし、各大隊から1個中隊を抽出し連隊予備としている。
東海林大佐が右翼隊長に任命されるのは前日23日夕方で、もともと東海林部隊は行進が遅れており、また右翼隊には歩兵部隊として本来川口少将直属の一色大隊(歩124第3大隊。一色少佐は前大隊長渡辺中佐の後任) があり、東海林大佐としては、密林内を難行軍中の右翼隊を掌握しきれなかったと推測できる。
24日総攻撃の夜の右翼隊の行動に関しては、戦史資料は3通りあるが、部隊掌握の不備が推測でき、敵側が右翼隊の攻撃を認めていないことを考慮すると、東海林右翼隊長の戦後の回想が真相に近いものと思われる。
「右翼隊は草原を北進し、零時敵陣地に接近したが、猛烈な敵火のため前進は頓挫し、敵陣地前において敵と近く相対したまま二十五日天明を迎えた」。
左翼隊は、歩兵第29連隊(古宮大佐)主力を第一線とし、第2大隊(第7中隊欠)を予備とする。
左翼隊も暗夜と豪雨と密林に悩まされる。
第1大隊は連隊進路の右方凹地を北進するが、右に偏し、連隊長との連絡を失う。
第3大隊第10中隊(1小隊欠)も第3大隊長との連絡を失い、第1大隊と行動を共にする状態となる。
そこで、連隊長は、初めの軍隊区分と任務を変更し、第1大隊を右第1線、第3大隊を左第1線(混入した中・小隊をそのまま配属)とし、連隊の攻撃重点を第3大隊正面とする。
「戦闘詳報」では、
「・・・漸ク二十四日二時三十分頃敵陣地前ノ林縁ニ達セリ、然レ共地形意外ニ錯雑シ準備ノ為ニ時間ヲ要シ突入ノ機ヲ失シ天明トナリ、而モ敵前ナリシ為メ敵火ノ爆撃ノ為ニ損害続出スルこ至り、巳ムナク一時密林中ニ兵力ヲ集結シ爾後ノ攻撃ヲ準備ス」とあり、第1大隊は突入せず。
第3大隊では、尖兵中隊の第11中隊の路上斥候が、午後10時30分頃、米軍陣地の鉄条網に衝突し、忽ち激しい火力を浴び、中隊長以下決死の突撃も挫折。
左翼隊長那須少将は、左第1線増加の為、予備の第2大隊を連隊に復帰させる。
歩29連隊長古宮大佐は、第1線の突撃頓挫を見て、付近に進出の第3機関銃中隊(重機4・自動砲1)に火力発揮を命じ、第3大隊と連隊予備の第7中隊を自ら率いて突撃敢行。敵火力は熾烈をきわめ、戦線は前後に分断され、連隊長以下の連絡は途絶える。
「・・・連隊長ハ軍旗ヲ奉シ十数名ノ残存兵卜共ニ敵飛行場近キ森林中ニ在リテ十月二十九日夕ニ至ル迄軍旗ト共ニ孤軍奮闘シ敵ニ多大ノ損害卜恐慌ヲ与へ、三十日遂ニ軍旗ヲ完全こ処置シ(推定)タル後戦死セリ」(「歩兵第二十九連隊戦闘詳報」)。
「優勢ニシテ而モ組織的縦深火網ヲ有スル堅陣飛行機絶対卜各種ノ近接察知ヲ講シアル敵ニ対シ 三週日ニ亘るル疲労ト餓ノ為メ其ノ困憊極度ニ達シアル軍隊カ 敵前錯雑不明ノ密林ヲ溢過シ敵情捜索其ノ準備ナスノ余裕殆トナク所謂夜襲必勝ノ信念ニ到達セスシテ勇敢無比白兵ノミヲ以テ猪突セサスヘカラサルニ至リタルハ寔ニ遺憾ノ極ミニシテ ソモ何ノ誤リソヤ 第一線軍隊ノミノ失敗ナリヤ 翻ツテ作戦計画ヨり其適否ヲ検討セハ 其ノ禍根ノ何レニ在リヤ明瞭ニ断シ得へシ」(「同」)。
(左翼隊の攻撃:異なる説明)
軍旗を先頭にした古宮政次郎大佐の第29連隊は、プラー中佐陣前の前哨点を突破。
守備の海兵46人中45人が忍び寄る日本軍に刺殺。
午前零時半、プラー中佐の前線に殺到。鉄条網を銃剣で切り破り、手楷弾を投げ、小銃を乱射して突進。米第164歩兵連隊第3大隊が来応援し、後方の曲射砲隊の射撃開始により日本軍の突撃は鈍る。地形が悪く、古宮連隊は全力を集中できず、攻撃したのは第3大隊だけの為、第3大隊は大損害を受け攻撃頓挫。
古宮大佐は予備の第2大隊を動員し、午前3時軍旗を先頭に再び攻撃。暗闇の戦闘で連隊長と第2大隊の連絡は途切れ、一旦プラー中佐の前線を突破したものの、連隊長と軍旗は敵陣内に取り残される。
第2師団戦闘司令所は左翼隊後方約3kmを前進するが、通信不良で第1線の状況は全く不明。
午後3時、師団長は平間参謀を第1線に派遣。
午後8時頃、右翼隊から後方通信所を経て、「右翼隊ハ敵線ヲ突破シ 目下飛行場東方ノ草原地帯ヲ北方ニ向ヒ前進中」との朗報が、また左翼隊からは「左翼隊ハ第一線部隊ヲ以テ攻撃中ナルモ細部不明、目下連絡中」と報告が来る。
午後10時過ぎ、左翼隊長から「第一線ハ攻撃中 本夜中ニ誓ツテ飛行場ヲ攻略スル」と希望的な連絡。後半夜、米軍の猛火を浴びていると想像される銃砲声。右翼隊から、「前回ノ報告ハ誤リニシテ、右翼隊ハ二十一時頃依然方向地点ヲ判定シ得ス、飛行場方向ヲ求メツツ前進中」と報告。
25日午前1時、玉置師団参謀長が左翼隊前線へ出発。夜明け近く、「左翼隊ノ一部ハ攻撃奏功セサルモ 歩兵第二十九連隊長以下主力敵陣地ヲ突破シ敵陣地内ニ突入セリ 其ノ後連絡遮断セラレ目下同連隊ノ状況不明ナリ」と師団参謀長の電話報告。
第17軍戦闘司令所は、第2師団からの朗報を待ちわびる。
真夜中、第2師団参謀から飛行場占領の報が入る、軍戦闘司令所は喚声をあげる。直ちに、飛行場占領成功の信号「二一〇〇バンザイ」が発信。
続いて、各方面に電報。
「二一〇〇梢前 第二師団右翼隊ハ飛行場ヲ占領セリ 同時頃左翼隊ハ飛行場附近ノ敵卜交戦中」。
ところが、後夜半、第2師団から「唯今の飛行場占領は飛行場付近で激戦中の誤りなり。歩兵第二百三十連隊の突撃は成功せず」と電話報告。
午前2時30分、各方面に訂正電。
「一 両翼隊共飛行場附近ニ於テ激戦中ナリ 二 飛行場ハ未夕占領シアラス」
25日。
25日朝、第2師団長は、歩兵第29連隊長が部下の一部を率い軍旗と共に敵陣内に突入しているので、攻撃続行・戦果拡張を決心。
第17軍司令官も同様意図の為、午前11時、その夜の夜襲敢行を命令。
第17軍司令官は、コリ支隊に対し、26日朝迄にコリ岬付近に強行上陸し、東川河口付近に兵力を集結して第2師団指揮下に入るよう命令。
また、第38師団長に対し、歩兵第228連隊(第1大隊欠)と第38師団通信隊の1分隊を、海軍艦艇により迅速にコリ岬付近上陸と、歩兵第230連隊第2大隊のタサファロング強行上陸を命令。
この頃、第38歩兵団司令部と第228連隊(第1大隊欠)及びコリ支隊(歩228連隊第1大隊基幹)はプインで待機、第38師団司令部と歩兵第230連隊第2大隊はラバウルに位置している。
これらのガダルカナル投入は、第2師団の機動開始以前に決定されていながら、第2師団の攻撃に即応出来るようには部署されていない。
「第二師団命令 十月二十五日一一〇〇 ルンガ飛行場南方 一、昨二十四日夜ノ戦闘ニ於イテ左翼隊主力ハ敵線深ク突進セリ 二、師団ハ現成果ヲ維持シツツ依然攻撃ヲ続行セソトス 三、左翼隊ハ本二十五日夜突撃セル歩兵第二十九連隊主力ヲ増強シ且敵陣突破ヲ挙行シ飛行場ヲ攻略スペシ 歩兵第十六連隊及ビ工兵第二連隊(二中隊欠)ヲ新タニ其ノ指揮下ニ入ラシム 四、右翼隊ハ本二十五日夜ソノ攻撃ヲ再興、新飛行場ヲ攻略シ前任務ヲ遂行スべシ」
右翼隊は態勢を整え、夜撃準備をする。
この日の任務は、新飛行場(ルンガ飛行場東方約1500m、中川東岸近くに米軍が新たに設けた)を攻略し、飛行場北側林縁の敵陣を奪取し、海岸線に進出すること。
右翼隊は、右側方から米軍の激しい射撃を受けたので、第2線攻撃部隊の歩兵第124連隊第3大隊(元の川口支隊第3大隊)を右側面警戒に配置。
この日夜半、師団戦闘司令所と右翼隊との電話連絡がつき、師団長は右翼隊の攻撃中止と、左翼隊右側方を掩護する任務を与える。理由など詳細不明。
左翼隊は、25日夜、師団予備から増加された歩兵第16連隊及び工兵第2連隊主力を右翼に増加し、重点を正面に保持、左翼隊長那須少将自ら陣頭に立って夜襲敢行。
那須少将は、歩兵第29連隊長古宮大佐以下一部兵力が、前夜突入したままその後の状況が不明なので、非常に焦慮。
左翼隊正面の米軍は前夜より更に火力の激しさを増す。
歩29連隊第1大隊は密林内で集中火を蒙り、敵第1線に接触するのは26日午前3時半頃。死傷続出し天明とともに攻撃は頓挫。
第2大隊の夜襲地点は飛行場に通ずる本道に沿っており、突入開始と同時に敵の猛火に覆われ、大隊長鉄条網内で戦死、続いて第1線中隊の幹部以下殆ど死傷し突撃頓挫。
午前2時頃、歩兵第16連隊の一部が鉄条網を破壊して、敵陣地に突入するが、天明迄にその陣地の縦深を突破出来ず。
天明、米軍の自動火器・迫撃砲等の火力は激烈をきわめ、左翼隊全線に死傷続出、攻撃は再び失敗。
この夜襲で、左翼隊長那須少将は重傷(のち死亡)、歩兵第16連隊長広安大佐戦死。
各隊、大隊長以下各級幹部の大半が負傷もしくは戦死。
歩29連隊の場合、24日夜~26日朝の損害は、戦闘参加人員2554、戦死552、戦傷479名、生死不明1、損耗率43%。将校の場合、総数101、戦死33、戦傷16、不明1(「歩兵第二十九連隊戦闘詳報」)。
周到な準備をして、正面から力攻する筈の第2師団の総攻撃は、重資材、弾薬糧秣等の輸送及び揚陸を計画通りに遂行できず、密林迂回の奇道を選択し夜襲に失敗。
26日早朝、第2師団長は、第17軍戦闘司令所に天明迄の攻撃頓挫の状況を報告。
第2師団に派遣されている辻参謀も、損耗多大で疲労困憊の師団現兵力では敵陣突破は不可能と判断し、攻撃中止を意見具申。
百武第17軍司令官は、26日午前6時、攻撃中止を命令。
26日、大本営は参謀総長名で第17軍司令官に、「諸情報ヲ綜合スルニ「ガ」島ノ敵ハ孤立包囲セラレ極メテ窮境ニ陥リアルモノノ如ク正ニ連続力攻 一挙撃滅ノ好機ナリ 軍ニ於テハ要スレハ更ニ所要ノ戦力ヲ至急投入シ 形而上下ノ全力ヲ発揮シ 飽ク迄目的ノ貫徹ニ邁進セラルルモノト確信シアリ 切ニ御健闘ヲ祈ル」と電報。
大本営はガダルカナルの前線の惨澹たる実情を知らず、「連続力攻」「一挙撃滅」が出来るとまだ思っている。
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