2012年10月11日木曜日

昭和17年(1942)9月21日 満鉄事件検挙始まる 満鉄調査部関係者25名を検挙

東京 北の丸公園
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昭和17年(1942)
9月21日
満鉄事件
この日、陸軍憲兵隊は、国内・中国の各地で満鉄調査部関係者25名を検挙(直後に3名検挙、計28名)。
第1次が昭和17年9月、第2次が18年
満鉄調査部から44人の部員・嘱託が「赤色運動」容疑で逮捕

○経緯
1940年7月、満州協和会中央本部実践科主任平賀貞夫、日本共産党再建グループに関わったとの容疑で警視庁に逮捕。
この頃、中国東北の農事合作社(協同組合)運動には、日本からの左翼転向者が多く参加。
平賀逮捕から、平賀とこれら合作社運動参加者との間で日本共産党再建の動きがあると見た関東軍憲兵隊は、内偵を進め、「在満日系共産主義運動の実在を確認するに至った」(関東軍憲兵隊司令部「在満日系共産主義運動」)。

1941年7月初旬、合作社の共産党再建の主犯格と看做している北安省興農合作社連合会事業科長清野義秀の公金横領が発覚、10月3日逮捕。
翌11月、憲兵隊は「満州国」警察と協力、逮捕開始、数日間に51名を逮捕(うち朝鮮人1・中国人3)。
ゾルゲ事件の直後で、憲兵隊は共産主義組織の動きを何としてでも見つけようと焦るが、「事件に関する予備知識に乏しく、加うるに全般に此の種事件に対する経験素養極めて貧困の実情にあり」、取調担任官の先任者1名を司令部に呼んで約1週間の教育を実施、また思想検事の東京刑事地方裁判所検事中村哲夫が大肚子川満州第673部隊にいたのを、憲兵隊司令部に転属させ取調べに当らせる。
取調べ・起訴過程で、満州国治安維持法が適用され、団体結成罪で無期5人、宣伝罪で有期徒刑11人。当時浜江コースと呼ばれた合作社運動の中心人物佐藤大四郎も有期徒刑。
この年(42年)4月頃、41年12月30日熱海で転地療養中を合作社事件容疑で逮捕された昭和会中央本部鈴木小兵衛が、「思想転向の実を示すべく、自己の身命を賭して思想戦に対する協力方を熱願し、その第一着手として今尚不逞思想より覚醒せざる嘗ての満鉄調査部同志に対し、大東亜戦下一刻も速かに真の日本人として蘇生せしめんことを決意し、過去に於ける私情の信義を潔く抛って、マルクス主義者が暗黙の鉄則として固く戒めある同志の裏切りを敢てし、彼等の思想傾向並左翼活動に就き自己の知り得る一切を供述するに至った」という。

憲兵隊は、鈴木の他に、合作社事件で審理中の大塚抽三郎(国務院総務庁統計処資源科長)、田中武夫(満州評論社記者)、鈴木公平(満州評論社新京支局記者)、深谷進(輿農合作社中央会職員)、佐藤晴生(満鉄北支経済調査所職員)、花房森(満鉄調査部第3調査室職員)らに、鈴木の指摘した満鉄調査部関係者について知るところを供述させ、68人の名が浮かぶ。

次に、憲兵隊は、「満鉄経済年報」「満鉄調査月報」「資料彙報」その他満鉄調査部の調査資料、パンフレット、「満州評論」「改造」「中央公論」などに、これらの人が寄せている論文の検討に入る。
憲兵隊はこれらの論稿が「合法場面を利用する所謂人民戦線戦術に拠り調査に便乗し、専ら調査執筆活動を通じ、主義の宣伝啓蒙をなしている」という先入観に立ち、先に供述した数名の被疑者を協力させる。
憲兵隊が「九・二一事件」と称する一斉検挙は、こうして開始。

「合作社事件」に関連して逮捕された鈴木・山村は、憲兵からうまくいって無期懲役、ふつうは死刑と脅かされ、全員発狂状態になり、出まかせに「満鉄調査部内における赤色分子の摘発リスト」を作り、更に「日満支同時革命計画」とか「パリとニューヨークの事務所はコミンテルンとの接触機関である」とか、憲兵の方が錯乱するような絵空事を並べ始める。
結局、彼らは「精神分裂」とされ釈放。

しかし、「満鉄調査部内に赤色分子がいる」との証言により、「満鉄事件」は始る。
第1次検挙31名、中間検挙3名、第2次検挙10名、計44名。
東條首相は関東軍憲兵司令官に腹心の加藤少将を派遣、その下に思想係エキスパート松本満貞中佐がつく。

○第1次検挙
京都で京都帝大人文科学研究所大上末広、
新京(長春)で渡辺雄二・小泉吉雄・吉植悟・吉原次郎・栗原東洋・米山雄治・横川次郎、
大連で稲葉四郎・石田七郎・具島兼三郎・野々村一雄・三浦衛・林田了介・溝端健三・堀江邑一・佐藤洋・下条英男、
北京で石田精一・石井俊之・和田喜一郎、
上海で石川正義・西雅雄・加藤清、
南京で野間清。

(大上と満州評論社の栗原、大連日日新聞社の三浦、大連都市交通株式会社の林田以外は満鉄社員、北京で検挙された者は満鉄北支経済調査所、上海、南京の者は満鉄上海事務所に所属。)

26日、東京で満鉄東京支社狭間源三、27日、上海事務所鈴江言一、10月4日、淅江省政府駐賓弁事所長沢武夫が杭州で逮捕され、逮捕者は28人となる。

北條秀山は中西敏憲理事に「北支開発」から呼び戻される。
大部長と云われた田中清次郎が「尾崎事件」の責を負って辞職(尾崎の父は「台湾日報」創業者で、田中の台湾総督府在勤中から咤懇の間柄で、田中は尾崎を最高嘱託(月給500円)に招く)。後任は内海治一。
中西に呼び戻された北條は、参与兼総務課長で、すぐ東京に飛び憲兵司令部長伴総務部長(のちに大阪憲兵司令官)にブラック・リストを見せてもらう。
天長節拝賀式後の午後11時、北條は総務部長室でリストを見ると、124の名があり、84番目に北條秀一の名もある。
どれも理由のない人ばかりなので、これ以上検挙しないよう頼み込み、長伴も頷くが結果は逆。

結局、松岡瑞雄と渡辺雄二は懲役5年(執行猶予5年)、他は1年(執行猶予つき)となる。
この間、大上末広、発智善次郎らは獄死。
守随一(しゅずいはじめ)は昭和19年元旦釈放、北條の家に向かう途中、阿部病院前で倒れ「ほーじょう」と言いながら息をひきとる。栄養失調からくる急性肺炎。
昭和20年春、石堂清倫、石田七郎、渡辺雄二は釈放と同時に召集。渡辺は興安嶺山脈でソ連軍と交戦中に戦死。

11月、満鉄調査部は、「吾等は調査報国の至誠に徹し、以て大東亜建設の礎石に任ずると共に、会社使命の先駆に挺身せん」という「部誓」を発表。

○第2次検挙
翌年3月23日関東軍司令部第5課松岡瑞雄、南方軍従軍中の三輪武・和田耕作を逮捕。

7月17日
大連で発智善次郎・石堂清倫・田中九一・伊藤武雄・佐瀬六郎、
奉天で武安鉄男、
新京(長春)で平野蕃・守随一・代元正成が逮捕。

11月1日南方派遣を解除され大連に戻った枝吉勇を逮捕。

結局、検挙者は、「九・二一」の28人に、合作社事件の鈴木小兵衛、花房森、佐藤晴生の3人、中間に3人、今回の10人を加えて44人となる。
山田豪雄「満鉄調査部」によると、検挙予定者リストは130人という。  

具体的容疑は何も出てこず、結局、人民戦線の理論活動ということになる。
伊藤武雄は、「調査部門に敗戦を予想しての左翼の思想運動が謀議されていて、その首魁が私か、田中九一らしいと憲兵隊ではあたりをつけて、事件を構成したらしい」と述べる(伊藤武雄「満山に生きて」)。
満鉄改組問題の際、社員会を率い関東軍とわたりあった伊藤は、田中と共に東大新人会の出身で、リーダー格と目されたと推測できる。
拷問は無かったというが、長期拘留で疲れ果てさせ、手記を書かせ、相互告発をさせ、国家への忠誠を誓わせ、起訴に持ちこむ。
40人が検察庁に送られ21人が起訴(満州国治安維持法違反)、裁判は飯守重任判事が担当、1945年5月1日、2人が5年、2人が3年、1人が1年(いずれ執行猶予つき)の判決を受ける。
飯守は敗戦後ソ連に抑留され、帰国後日本の裁判所でタカ派の代表となる。 

「私自身もまきこまれた満鉄事件では、有志調査部員が「満州二段革命」の準備をしたことになっていた。私は調査に関係はなかったが、帝政時代の「在北京正教伝道団員の業績」の文献目録を作ったのが起訴の一つの原因にされていた。なぜこんな無理をするのか最後までわからなかった。しかし検挙されるとたちまち、一部の調査部員は憲兵隊の期待を上回るような架空計画を自供した。しかも何一つ拷問もないのにである。戦後に友人たちと勉強会をひらいたとき偶然わかったのであるが、一九四二年五月に、首相の東条英機が満鉄の大村卓一総裁に検挙を予告している。もう一つわかったのは、東条たちが敗戦とともに生じかねない社会革命を予防するために、三万の「共産主義者」を検挙すべきであると考えていたことである。それこそ「猫も杓子も」つかまえる至上命令があったことになる。」(石堂清倫「「雪の下」の時代」)。
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