2012年11月7日水曜日

昭和17年(1942)10月 ガダルカナル第2次攻撃、たびかさなる攻撃期日延期 第2師団右翼隊指揮川口少将解任

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-11-01
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昭和17年(1942)
10月15日
・午前1時、輸送船団護衛の第2艦隊(近藤中将)、サボ沖でウィリス・リー少将艦隊と交戦
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10月15日
百武第17軍司令官、ガダルカナル総攻撃命令
同時に、ショートランドで待機中の第38師団第228連隊第3隊を、第2師団の攻撃に即応し、飛行場東方コリ岬に強行上陸させることにし、同部隊をコリ支隊と名付ける。
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10月15日
・陸軍兵器本部を陸軍兵器行政本部と改組
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10月15日
・商工省令「統制物資ノ譲渡制限ニ関スル件」公布
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10月16日
・ガダルカナル第2次攻撃隊(第2師団、那須部隊、川口部隊)、集結所を出発、ジャングル内に啓開された道(丸山道)を通って機動開始。
17日、第17軍戦闘指令所、第2師団司令部のあった位置(コカンボナ南東約2km)まで進出。
第17軍司令部は、大本営派遣参謀辻中佐と第17軍参謀林少佐を、第2師団司令部に同行させる。

攻撃隊主力の第2師団は、アウステン山南麓を迂回し、ルンガ川右岸地区から北進して飛行場を急襲する計画。
兵力部署:
①右翼隊-川口少将指揮第230連隊主力及び第124連隊の1大隊。
②左翼隊-那須弓雄少将指揮第29連隊(古宮政次郎大佐)ほか。
③予備隊-第16連隊。
④牽制隊-住吉正少将指揮砲兵隊。第17軍直轄部隊として、マタニコウ左岸から飛行場を砲撃。
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10月18日
・午前5時、第17軍戦闘司令所は、ラバウルの第17軍宮崎参謀長から電報を受領。
13、14日にガダルカナル飛行場の航空写真偵察を行なった結果の要旨報告で、7月23日撮影写真と比較すると、飛行場を中心とする各河川河岸・高地帯には防禦施設がかなり増設されているように観測される、というもの。
第17軍司令部は、海軍機によって17日コカンボナに授下された空中写真を所要部隊に配付。
右翼隊長川口少将以外、この情報を重視せず
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10月18日
・ニミッツ米太平洋方面総司令官、南太平洋司令官ゴームレー中将解任、後任ハルゼー中将。
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10月18日
・ヒトラー、全てのコマンド部隊捕虜を処刑命令
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10月18日
・イギリス「スワロー(燕)」作戦。
リュカン(ノルウェー)の重水素工場爆破の為の工作員4人の潜入作戦。
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10月19日
・中国国民参政会、経済建設協進会(会長 蒋介石)組織大綱を発表。
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10月19日
・ガダルカナルの離島決戦の不利を悟り自重論を展開した第17軍二見秋三郎参謀長、病気を理由に更迭。

第17軍の参謀陣の充実。
新参謀長宮崎周一少将、作戦主任参謀小沼治夫大佐を迎え、山本筑郎少佐ら7人の参謀を増員。大本営からは辻政信中佐、砂田一次中佐、林忠彦少佐の3人が派遣参謀として出張。
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10月19日
・防衛司令部、本土空襲の米軍機搭乗員を死刑又は重刑に処すると発表
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10月19日
・ドイツ、国内ユダヤ人に対する肉・牛乳の配給禁止
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10月20日
・第1軍、全山西秋季勦共作戦(10月20日~11月30日)。
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10月20日
・朝、ガダルカナル、百武第17軍司令官、攻撃開始日を22日と決定、指揮下部隊に命令を下達。
午前10時、丸山第2師団長、攻撃の為の命令を下達。
21日早朝、師団主力が、左翼隊、右翼隊、予備隊に順で集結地を出発。
嶮しい地形のため前進は難渋し、師団参謀長意見により師団長は攻撃1日延期認可を第17軍司令官より得る

命令骨子は、攻撃重点はルンガ川右岸に沿い飛行場西北地区に指向し、突入時機は22日午後4時と予定。
軍隊区分は、
①右翼隊(歩兵第35旅団長川口少将)歩兵3個大隊と各種重火器部隊、
②左翼隊(第2歩兵団長那須少将)歩兵第29連隊の3個大隊と各種重火器部隊、
③予備隊(歩兵第16連隊長広安大佐)、工兵隊(工兵第2連隊長高橋大佐)、輜重隊(輜重兵第2連隊長新村大佐)、師団直轄部隊(通信隊、衛生隊、野戦病院、防疫給水部等)。
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10月21日
・米爆撃機、黄河以北を初空襲
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10月21日
・俘虜派遣規則、派遣俘虜規則公布
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10月22日
・華北政務委員会の「道公署組織大綱」決定に伴い、省内各道公署の機構改革実施
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10月22日
海軍主計中尉小泉信吉(25)、戦死、特設砲艦「八海丸」
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10月22日
・この日、陸海軍局部長会同、民需用船舶の最低限度維持のため、陸海軍とも一定量の解傭に合意。
しかし、24、25日のガダルカナルでの第2師団の総攻撃失敗により、逆に増徴必要論が強硬になる。
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10月22日
・ドイツ軍のレニングラード攻撃失敗
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10月22日
・英空軍のトリノ大空襲
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10月23日
・夕、ガダルカナル、第17軍司令官、攻撃を24日に再延期すると決裁、第2師団長に伝達。
第2師団長は、攻撃開始を24日午後5時とする

22日夕刻、第2師団戦闘指令所は予定展開線の後方(飛行場南方約6kmと推測)に到達。
指令所ではもう1日の攻撃延期について議論するが、丸山第2師団長は予定通り23日夜襲決行を決める。
23日、右翼隊(川口隊)は左翼隊の後尾を行進するが、右翼隊は左翼隊より遠く右に展開しなければならず、序列は逆。
12時45分、川口少将は第2師団長に「右翼隊主力ヲ以テ二十三日夜ノ夜襲ハ困難ト認ム」との報告を行う。
午後2時、師団長はこれを受け取る。
左翼隊は午後3時頃ムカデ高地南東約1km(推測)に到達し攻撃準備中で23日夜襲は可能と報告(左翼隊も右翼隊同様、五里霧中でこういう報告を入れられる状況ではない筈)。

23日午前10時、左右両翼隊の実情とは別個に、第17軍戦闘司令所は、第2師団戦闘司令所にいる辻参謀から、「一 敵陣地は右翼隊正面軽易なるも左翼隊正面は堅固なり 二 師団は予備隊(歩兵第十六連隊)を右翼隊後方に進めるに決せられる。師団長も右翼隊後に移動の予定。」と報告。根拠不明。
夕刻、同じく辻参謀から第17軍戦闘司令所に、「一 川口部隊長の報告によれば、地形嶮峻錯雑のため部隊の進出遅れ攻撃準備出来ず今夜の攻撃は不可能なり。(川口少将が23日午後第2師団長に届けた報告。但し、川口は不可能とは言っていない。東海林部隊進出の遅れから、右翼隊主力を以てする夜襲は困難と認む、予定位置たる草原南端に進出し得さえしたら、一色部隊(歩124第3大隊)のみを率いて突撃予定、と申送っている) 二 師団の第一線は飛行場前約三粁の線に進出中なるも落伍者多し。歩兵第十六連隊(予備隊)は一部到着しおるのみ。 三 いまだ敵に発見せられあらず、敵は飛行場の側でテニスを行ないつつあり。」と連絡。

「至近の距離相当の偵察も為し得る筈なるに行あたりばったりにて、艦隊の迷惑之に過ぐるものなし。」
「然し陸上戦も戦闘なれば敵の出様阻止にして意外に強靭なれば、進出も遅滞するは当然とも考ふるが、敵の抵抗にあらず概ね地形によりて左右せられあり。茲に余輩の遺憾とし事前の準備の不足と為す所以の存する処あり。・・・」(連合艦隊宇垣参謀長)
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10月23日
・夕、ガダルカナル、丸山第2師団長、右翼隊指揮川口少将解任し、東海林大佐に指揮させる

22日午後、川口少将は大本営派遣作戦参謀辻政信中佐と出会い、飛行場南側に陣地補強は危険なので、右から迂回攻撃が得策と進言、辻はこれを了解。
23日夕刻、敵左側への迂回攻撃を準備している際に、川口は電話で右翼隊長を罷免される。攻撃開始直前の指揮官罷免により、指揮は混乱し、右翼隊の行動は積極性を失う。
左翼隊(主力は歩兵第29連隊)によるこの高地の正面攻撃は完全に失敗、左翼隊長那須弓雄少将戦死、歩兵第29連隊長古宮正次郎大佐は軍旗とともに行方不明、歩兵第16連隊長広安寿郎大佐戦死。いまこの高地の一角には第2師団や川口支隊の慰霊碑が建つ。

川口罷免は、辻参謀-玉置師団参謀長-丸山師団長の3者で扱われる(第17軍司令部は関知せず。第2師団夜襲失政後、従兵1人だけを連れてガダルカナルを去る川口少将に住吉少将(砲兵団長)が出会う。
「・・・私の記憶では十一月四日、川口少将が従兵一人連れて私の幕合に立ち寄ったのです。・・・いろいろと尋ねると〝辻にやられたんだよ″と事情を語ってくれました。」(御田重宝「ガダルカナル戦」)。
川口少将がとかく意見具申癖のある文句の多い将軍だとしても、問題の航空写真による敵陣には、明らかに以前とは異る地形影像が映っているのだから、第2師団司令部は慎重に検討すべきであった。
問題提起は、師団長に次ぐ位階の少将によるもので、中佐参謀如きが、問題の本質を少将の性癖とか中佐個人が内包する悪感情とすり替えるべきではない。
参謀たちは官僚主義者で、作戦は参謀が策案し、参謀長がそれを取り纏め、司令官が決裁する。

作戦案に誤りがあろうはずがない。実戦部隊は将棋の駒であり、作戦通りに動けばよい。部隊長と雖もつべこべ言わずに命令通りに動けばよい。動かなければ馘である。
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10月23日
・軽金属屑配給統制規則公布
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10月23日
・独・伊軍対連合軍のエル・アラメインの戦
エジプト、英軍、北アフリカ要衝エル・アラメイン攻撃開始、独伊軍に反撃開始、「スーパーチャージ作戦」を開始(~11月4日)。独・伊軍敗北。
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